モンティ・ホール問題
モンティ・ホール問題(モンティ・ホールもんだい)とは、自分の決断を曲げない心の強さを試す問題である。この問題は世界中で今もなお議論されている。
概要[編集 ]
問題の内容は以下のようなものである。
確率的に考えれば、プレーヤーはドアを変更する方が得策であることは目に見えて明らかである。なぜならば、プレーヤーが最初に正しいドアを選ぶ確率は1/3で、残りの2つに新車がある確率は2/3であるわけで、この確率は司会者が開けてない2つのドアのうち1つを開けてヤギを見せても変わらない。すなわちプレーヤーがドアの変更を許可されたとき、自分の選んだドアが正しい確率は1/3のままである一方で、自分の選んでいないドアが正しい確率は2/3になる。つまり、ここでプレーヤーがドアを変更すれば、新車がもらえる可能性は2倍になるのである。
よって確率論的に言えばプレーヤーはドアを変更すべきである。
しかし状況はそれほど容易ではない。司会にドアの変更を促されて、それを鵜呑みにしてドアを変更することは、はっきり言ってしまえば情けない行為である。自分が最初に下した決断を変えてまで、選んでいないドアに賭けるわけだ。それで新車があれば「自分の信念は曲げたが、利を得ることに成功した人間」となる。しかしもしも無ければ、「自分の信念を曲げた挙句に何も得られなかったどうしようもない人間」という烙印が押されることになる。そしてそうなる確率は1/3である。これは決して低い確率ではない。
1/3で感じるかもしれないこの大いなる屈辱を、我々は計算に入れなければならないのである。
議論[編集 ]
自分の信念を突き通すか、確率論に素直に従うかの2択を迫る議論は世界中で繰り広げられた。以下に変更する派と変更しない派による主要な意見をまとめた。
変更する派[編集 ]
- 変更しないということはもはや「逃げ」であるように感じる。変更しなかった場合、信念を曲げなかったという清々しさは必ず感じられる。しかし冷静に事実を見れば、変更しない場合に新車が得られない確率は2/3もある。変更した場合にはそれと同じ確率で新車を得られるわけだ。もし1/3で大いなる屈辱を感じて首を吊るようなことになっても、この賭けに出る価値はあるだろう。
- 変更しないという保身はマゾヒストの使命に反する。どんな風俗でも感じたことのない屈辱を感じられるならば、それほどまでの幸福はない。そこで絶頂して果ててしまうだろう。どうせなら、その後街中を全裸で引きずり回してほしい。
- 変更しない、っていうのはあなたの感想ですよね。それは個人の感情から出ている言葉であって、実際数値的に見れば変更した方が得なんですよ。変更しない方が得って、なんかそういうデータあるんですか?
変更しない派[編集 ]
- 自分の信念を守ることは、何よりも大事である。他人の言葉に左右されて自分の決断を変えてしまうことは、短期的に良いものであったとしても、人生という長いスパンで見れば良いものとは言えないだろう。人生は自分の足で踏みしめていくものだ。一度選んだドアは変更しない。それで外れても人生。
- 新車欲しいんだったらさ、司会者の言葉あてにしちゃだめじゃない。自己防衛。確率なんかあてにしちゃだめよ。
- データなんかねえよ。うるせえよ、黙れよ、変更なんかしねえよ。信念こそ正義。正しいのは俺。
第三勢力[編集 ]
- この問題は人の心を弄んでおり、非常に腹立たしい。司会者を一発殴って帰る。
- わわ、わぁ・・・・・・。(自分の処理能力を遥かに超えた問題を前にして泣いてしまう。)
解決方法[編集 ]
この問題は長らく世界中で議論されているが、変更する・しないの二項対立とは別の視点からいくつかの解決方法が提示されている。
新車のドアを当てる[編集 ]
モンティ・ホール問題においては、どのドアにおいても新車がある確率は同様に確からしいという前提で話が進められている。しかし、人間の知性を駆使すればドアを開けずとも新車を当てることができるのではないかと考えられ、以下のような方法が提示されている。
- ドアに耳を近づける
- ヤギは生き物なので鳴く。ドアに耳を近づけて「メー」という音が聞こえればそのドアは外れである。なかなか鳴かないときには自らヤギの鳴きまねをして、仲間だと思わせて鳴き声を引き出すという方法もある。万が一エンジン音が聞こえてくれば、そのドアが正解である。
- ドアの近くに行って匂いを嗅ぐ
- ドアとドア枠の隙間に鼻をつけ、くんかくんかと匂いを嗅ぐ。すると、もしもヤギがいる場合には強烈なヤギ臭がすると思われるのでそれによって判別する。
- 司会者を恐喝する
- 2つのドアのうち外れのドアを開ける必要があるため、司会者は必ず正解のドアを知っている。よって司会者を恐喝すれば正解が得られるものと思われる。
- 全てのドアを開ける
- 全てのドアを開けたとき、新車がある確率は1 である。よってこれは新車を得るために最も確実な方法である。鍵がかかっている場合には、司会者から鍵を強奪すれば良い。咎められても、新車に乗ってそのまま帰ってしまえばいい。
ヤギで妥協する[編集 ]
新車に価値を見出すのは拝金主義 だ。自然界においてはヤギこそ貴重な命であり、天の恵みである。ヤギを連れて帰って煮るなり焼くなり二宮和也すれば食べ物になるし、ペットとして飼っても良いだろう。新車が絶対善という価値観は資本主義に染まりすぎていて良くない。
新たな可能性[編集 ]
議論が深化していく中で新たな可能性を見出すものも現れた。
- 新車がマニュアル車でAT限定の自分には運転できない可能性
- この問題自体が楽しいから勝ち負けなんかどうでもよくなる可能性
- ドアの後ろにいるのはヤギではなく八木で、ブラジルのみなさんに新車がどのドアにあるか聞いてくれる可能性
今後はこれらの可能性も追及していく必要がある。