野ネズミの精巣と精子への原発事故後の
放射線の影響
〜福島県内汚染地と非汚染地のアカネズミで
精子形成に差は見られず〜
(筑波研究学園都市記者会、環境省記者クラブ、
福島県政記者クラブ同時配布)
国立研究開発法人国立環境研究所
福島支部/生物・生態系環境研究センター
主任研究員 大沼 学
主席研究員 玉置雅紀
特別研究員 岡野 司
これらの成果をまとめた論文が、2016年3月23日(日本時間19時)に英国科学誌(オープンアクセスジャーナル)「Scientific Reports」に掲載されました。
1.背景
2011年3月11日に発生した東日本大震災の後、東京電力福島第一原子力発電所(福島第一原発)の事故により、大量の放射性物質が環境中に放出されました。これら放射性物質のうちセシウム137は、比較的長い半減期(半減期30年)を持っているため、長期にわたり環境中に留まり、この物質に由来する放射線による野生生物への長期被ばく影響が懸念されています。
ネズミ類は野生動物への放射線影響を研究するのに最適なモデル動物であると考えられています。なぜならばネズミ類は繁殖能力が高く、一世代が短く、更に放射性物質による汚染レベルの高い地表面を生活場所としているなどの生物学的特徴を備えているからです(文献1)。また、マウスやラットなどを用いた豊富な放射線影響に関する知見を利用することも出来ます。そのため、本研究では日本の様々な自然環境に広く分布するアカネズミを対象動物としました。
精巣は最も放射線の影響を受けやすい器官のひとつであり、精巣内にある雄の生殖細胞は、比較的低い放射線量で細胞死(アポトーシス)を起こすことが知られています(文献2)。また、放射線により生殖細胞のDNAが損傷すると、精子奇形が増えることが知られています(文献3)。
そこで本研究ではアカネズミを対象として、原発事故に由来するセシウム137の体内蓄積量を計測し、生殖細胞の細胞死と精子奇形を指標として雄の繁殖に対する放射線の長期影響を調べました。
2.方法
アカネズミの捕獲は2013年と2014年の7月〜9月を中心に行いました。捕獲地として空間線量率の異なる福島県内の2地点(地点1、地点2)及び、福島第一原発に由来する汚染の少ない青森県(地点3)と富山県(地点4)を設定しました(図1)。これらの地点で合計97匹の繁殖期の雄の成獣を捕獲し、以下の調査に用いました。
捕獲地の線量評価のため地表面の空間線量率を計測しました。また、土壌(表層部)を採取して、セシウム137の濃度を計測しました。アカネズミ体内へのセシウム137の蓄積を調べるため、内臓や精巣を除いた部位を用いてセシウム137由来の放射線量を測定しました。
捕獲したアカネズミ精子の形態異常を調べるため、精巣上体(精子を貯める器官)中の精子を採取しました。精子の形態は頭部、中片部、尾部に分けて位相差顕微鏡下で観察しました(図2)。
生殖細胞の細胞死の検出は、免疫組織化学的方法(TUNEL法;TdT-mediated dUTP nick end labeling method)により精巣の切片を染色することによって行いました。生殖細胞の細胞死の評価は細胞死頻度(細胞死を起こした細胞数 ÷ 精細管断面積μm2)を算出することにより行いました。また、精細管(精子が形成される管)断面の直径を、顕微鏡下で計測しました。
3.結果と考察
アカネズミ捕獲地の地表面の空間線量率を調べた結果、青森と富山では0.10μSv/hr以下と低い値を示しましたが、福島ではこれらの50倍以上を示していました。青森と富山の捕獲地点の土壌中から福島第一原発事故に由来すると考えられるセシウム137が検出されましたがその濃度は微量でした(5〜58ベクレル/kg)。一方で福島の捕獲地点の土壌からは平均で7万ベクレル/kg以上のセシウム137が検出されました(表1)。土壌と同様に青森と富山で捕獲したアカネズミでもセシウム137が検出される個体がいましたがその値は低く(富山では中央値は0ですが、半数未満の個体でセシウム137を検出)、一方で、福島県で捕獲したアカネズミでは中央値で2,000ベクレル/kg以上のセシウム137が検出されました(表1)。これらの結果から福島県のアカネズミでは土壌からの外部被ばくだけでなく体内に取り込んだ放射性セシウムからの内部被ばくを比較的高いレベルで受けていることが示唆されました。
福島県で捕獲したアカネズミにおける放射線影響を確かめるため、雄性生殖細胞の細胞死頻度をTUNEL法により調べました。この方法では細胞死が起きている細胞が染色されます。その結果、雄性生殖細胞の細胞死は捕獲地点によらず観察されました(図3)。そこで、細胞死頻度を各捕獲地点間で定量的に比較したところ統計学的に有意な差は認められませんでした(表2)。また、精細官は細胞死の進行が進むと細くなることが知られているので、精細管の直径を調べたところ、細胞死頻度と同様に各捕獲地点間で統計学的に差は認められませんでした(表2)。これらの結果は、放射線量の高い福島県においてもアカネズミ生殖細胞数に影響がないことを示しています。
次に放射線による精子の形態異常頻度が変化しているかどうかを確かめるため、精巣上体から採取した精子の形態観察を行いました。その結果、アカネズミ精子の形態異常はどの捕獲地点においても観察されました(図3)。そこで、アカネズミ精子の形態異常出現頻度を定量的に解析した結果、捕獲地点間における精子の形態異常出現頻度に統計学的に有意な差は認められませんでした(表3)。
以上の結果から、2013年と2014年の調査地点の放射線レベルでは、福島県においてもアカネズミの精子形成過程に顕著な影響が見られないことを示しています。このことは福島県の比較的高線量の地域において、少なくともオスが原因となるアカネズミの繁殖に影響がないことを示唆すると考えられます。
4.今後の展望
今回の結果では、福島県で捕獲したアカネズミの雄性生殖細胞数と精子の形態異常出現頻度は富山県や青森県で捕獲したアカネズミと差が無いことが示されました。したがって、今後、放射線が原因となるオスの繁殖能力低下によって、福島県のアカネズミの個体数が減少することはないと考えられます。今後は、放射線は細胞内に存在するDNAの塩基配列に変化を与えることが知られているため、福島県に分布するアカネズミでDNAの塩基配列の変化が起きているかどうかを把握するための研究を行う予定です。
5.研究助成
本研究は、国立環境研究所の災害環境研究として実施したプロジェクト「生物・生態系影響の解明」の一環として実施しました。
6.問い合せ先
国立研究開発法人 国立環境研究所 生物・生態系環境研究センター 主任研究員
大沼 学(おおぬま まなぶ)
電話:029-850-2498
E-mail:monuma(末尾に@nies.go.jpをつけてください)
7.発表論文
Tsukasa Okano, Hiroko Ishiniwa, Manabu Onuma, Junji Shindo, Yasushi Yokohata, Masanori Tamaoki. Effects of environmental radiation on testes and spermatogenesis in wild large Japanese field mice (Apodemus speciosus) from Fukushima. Scientific Reports 6, 23601; doi: 10.1038/srep23601 (2016).
リンク:http://www.nature.com/articles/srep23601
8.参考文献
1) Geras’kin, S. A., Fesenko, S. V. & Alexakhin, R. M. Effects of non-human species irradiation after the Chernobyl NPP accident. Environ. Int. 34, 880?897 (2008).
2) Dewey, W. C., Ling, C. C. & Meyn, R. E. Radiation-induced apoptosis: relevance to radiotherapy. Int. J. Radat. Oncol. Biol. Phys. 33, 781?796 (1995).
3) Bruce, W. R., Furrer, R. & Wyrobek, A. J. Abnormalities in the shape of murine sperm after acute testicular X-irradiation. Mutat. Res. 23, 381?386 (1974).
9.共同研究者
国立研究開発法人 国立環境研究所 生物・生態系環境研究センター
大沼学(主任研究員)、岡野司(特別研究員)、石庭寛子(特別研究員)
国立研究開発法人 国立環境研究所 福島支部
玉置雅紀(主席研究員)
北里大学 獣医学部 生物環境科学科
進藤順治(教授)
富山大学大学院 理工学研究部
横畑泰志(教授)
10.参考画像
関連新着情報
- 2025年5月12日更新情報「東京電力福島第一原子力発電所事故で生じた除去土壌等の県外最終処分実現に向けて」記事を公開しました【国環研View DEEP】
-
2025年3月17日報道発表地球温暖化による高温はアオウミガメに悪影響の可能性
—培養細胞を使い、温度上昇によるアオウミガメへの影響を予測—(筑波研究学園都市記者会、環境省記者クラブ、環境記者会、北海道教育記者クラブ、岩手県教育記者会、北海道庁道政記者クラブ、岩手県政記者クラブ、都庁記者クラブ、神奈川県政記者クラブ、鹿児島県政記者クラブ、沖縄県政記者クラブ、文部科学記者会、科学記者会同時配付) -
2025年3月5日報道発表豚熱の発生が引き起こす新たな野生動物管理の課題
—野生動物の感染症がオンライン市場のヒトの行動も変える—(筑波研究学園都市記者会、環境省記者クラブ、環境記者会同時配付) -
2025年2月6日報道発表野生生物取引の規制、意図せぬ波及効果が明らかに
—規制対象外の種の取引量増加を示唆
(筑波研究学園都市記者会、環境省記者クラブ、環境記者会、大阪科学・大学記者クラブ、文部科学記者会、科学記者会、徳島県教育記者クラブ同時配付) - 2024年7月8日報道発表「環境創造センターにおける連携協力に関する基本協定」の締結について
-
2024年2月22日報道発表酸化ストレスが消化管がんを引き起こす仕組みが明らかに
-DNAの酸化による突然変異の発生を抑制してがんを予防する-(九州大学記者クラブ、文部科学記者会、科学記者会同時配付) - 2021年11月30日報道発表「絶滅の危機に瀕する野生生物の遺伝資源保全」および「全国の調査員を募集して行う生物季節モニタリング」に係わる寄附金募集開始のお知らせ(筑波研究学園都市記者会、環境省記者クラブ、環境記者会、気象庁記者クラブ同時配付)
-
2021年4月16日報道発表福島地域協働研究拠点が
タグライン「環境の"知"を、地域とともに。」を策定(筑波研究学園都市記者会、環境省記者クラブ、環境記者会、福島県政記者クラブ、郡山記者クラブ同時配布) -
2021年3月30日報道発表災害環境研究のこれまでとこれから
ふくしまで進める地域協働の新展開
国立環境研究所「環境儀」第80号の刊行について(筑波研究学園都市記者会、環境記者会、環境省記者クラブ、福島県政記者クラブ、郡山記者クラブ同時配付) -
2015年9月30日報道発表「平成26年度 災害環境研究成果報告書」の発刊について
(筑波研究学園都市記者会、
環境省記者クラブ、
福島県政記者クラブ同時配付) - 2014年10月31日報道発表三春出前講座開催のお知らせ【終了しました】(筑波研究学園都市記者会、福島県政記者クラブ同時配付)
- 2013年12月6日お知らせシンポジウム「福島第一原子力発電所事故による環境放射能汚染の現状と課題-今,大気環境から考える放射能汚染-」開催のお知らせ【終了しました】
- 2013年1月29日お知らせ放射能汚染ジョイントセミナー「生活環境から放射能汚染を考える」 開催のお知らせ
- 2011年8月25日報道発表東京電力福島第一原子力発電所から放出された放射性物質の大気中での挙動に関するシミュレーションの結果について(お知らせ)(環境省記者クラブ、筑波研究学園都市 記者会同時発表)