歴史・藩主
歴史
1600年 | 堀尾忠氏、関ヶ原の戦功により浜松より出雲隠岐24万石加増移封 広瀬に築かれていた月山富田城に入城するも、統治の勝手が悪く城地移転を計画する |
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1604年 | 忠氏死去 忠氏の父である堀尾吉晴が6歳で当主となった孫の忠晴の後見役となる |
1607年 | 松江の地の湖畔に城地を選定 築城工事開始 |
1611年(慶長16年) | 正月までに松江城が完成 同年6月吉晴死去 |
1633年 | 忠晴死去 嗣子無く改易 |
1634年 | 若狭小浜藩から京極忠高が移封 |
1637年 | 忠高死去 嗣子無く改易 |
1638年 | 信濃松本藩から松平直政移封 |
1639年 | 城内に「御城内稲荷八幡両社(現・城内稲荷神社)」が遷座される |
1871年 | 廃藩置県の施行により松江藩の領地は松江県へ所有が移る。約230年の松平家の治世に幕を下ろす |
1875年(明治8年) | ついに松江城にも廃城令が下り、城内の櫓や門、御殿などは取り壊され売り払われていった。天守にも180円の値段(当時)がつけられたが、地元の豪農・勝部本右衛門父子と旧藩士・高城権八らの尽力で買い戻される |
1894年(明治27年) | 明治の大修理が行われる |
1899年(明治32年) | 城内に「松江神社」が遷座される |
1903年(明治36年) | 城内に「工芸品陳列所」という擬洋風の建物が作られる。(現在の興雲閣)工芸品を並べる建物という名目だったが、明治天皇の山陰行幸の際の行在所とするのが目的だった。13,489円の工事費用(当時)で建てられた。しかし日露戦争(1904〜1905年)直前の緊迫した中で行幸は実現されなかった |
1907年(明治40年) | 当時の皇太子(のちの大正天皇)が山陰行啓にお越しになり、「工芸品陳列所」にご宿泊される |
1935年(昭和10年) | 国宝保存法の施行により国宝になる |
1939〜1945年 | 第二次世界大戦で全国数々の城が燃えたが、松江城は運よく免れた |
1950年(昭和25年) | 昭和の大解体修理が行われる(〜1955年まで) 同年、国宝保存法から文化財保護法に法改正が行われ、松江城は重要文化財に改まる |
2015年(平成27年) | 天守が完成した際に使われた「祈祷札」の再発見により、完成年のわかる歴史的価値のある建物として認定され見事国宝に返り咲く |
2020年(令和2年) | 天守国宝指定5周年を迎える |
藩主
堀尾吉晴
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の後、出雲・隠岐両国を拝領した子の忠氏と共に、
遠江国浜松(静岡県)から月山富田城(広瀬)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移した。
豊臣秀吉、徳川家康と二人の天下人に仕え、豊臣政権下では三中老の一人として功績を残している。
城普請の名人であり、孫の忠晴を助け松江城と城下町を建設し、現在の松江市の礎を築いた。
京極忠高
堀尾家の跡を継ぎ、若狭国小浜(福井県)から出雲に入国した。
3年余りの短い統治期間であったが、当時、度重なる洪水で氾濫を起こしていた斐伊川を大土手により改修をした。
現在でも京極若狭守忠高にちなんだ「若狭土手」という名を残している。
また、幕府直轄領であった石見銀山(世界文化遺産)の監督権を与えられるなど、歴代松江藩主のなかで最大の領地を治めた。
徳川二代将軍・秀忠と正妻・江夫妻の四女が忠高の正妻・初である。
松平直政
京極家の跡を継ぎ、信濃国松本(長野県)から出雲に入国した。
慶長19年(1614年)、14歳で大阪冬の陣に参戦し、初陣ながらも力戦奮闘した。
敵将真田幸村は、その武勇を讃えて自らの軍扇を投げ与えたという。
徳川初代将軍・家康の第二子・結城秀康の第三子である。
城主 [初代 直政(なおまさ)]---[綱隆(つなたか)]---[綱近(つなちか)]---[吉透(よしとお)]---[宣維(のぶずみ)]---[宗衍(むねのぶ)]---[治郷(はるさと)(不昧(ふまい))]---[斉恒(なりつね)]---[斉貴(なりたけ)]---[定安(さだやす)]
松平治郷(不昧公)
松江藩松平家7代目藩主。
江戸時代の代表的な茶人の一人として、茶の号である不昧の名で知られている。
松江藩が大変な財政難だったころに藩主となったが、
家老と力を合わせ再興を果たしたため中興の祖として現在も親しまれている。