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ホーム > 文化・観光・スポーツ > 北区飛鳥山博物館 > 北区の歴史と文化財 > 歴史文化財リスト > 歴史文化財リスト上中里・堀船地区 > 文化財説明板船方神社の十二天塚
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最終更新日:2015年4月23日
船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼(うっそう)とした森の中にあって十二天の森・十二天社とよばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承にもとづいて建てられたものです。
昔、この地域の荘園領主の豊嶋清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立少輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(=荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を沈めたという話が六阿弥陀伝承のなかにあります。
十二天とは、この十二人の侍女をさすと同時に帝釈天(たいしゃくてん)をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。
密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方村の十二天杜としてまつられたものともいえます。
なお、この伝承は江戸時代、六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし、荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧の行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。
堀船4-13-28 船方神社境内
文化財説明板