世界で初めて顕微鏡が作られたのは、16世紀末のことだったといわれています。当初はレンズを組み合わせただけの単純なものだったようですが、人類はこの発明によって、新しい科学のフロンティアを手に入れました。ミクロの世界です。以降、人類はより微小な世界へと版図を広げるために、電子顕微鏡やX線回折装置などさまざまな道具や装置を発明してきました。その最も大きなものが、加速器です。KEKの物質構造科学研究所(物構研)では、加速器を用いて、原子や分子のスケールでの物質の構造と機能の解明を行っています。
世界で唯一、4つのビームを擁する研究所
物構研は、加速器が生み出す放射光、中性子、ミュオン、低速陽電子という4種類のビームを用いる研究施設を備えた、世界でただ一つの研究所です。4つの手法を常に研鑚し、かつ使い分けることによって、ミクロの世界というフロンティアの最前線に挑み続けています(図1)。4つのビームには、それぞれ得意分野があります。ビームを使い分けることで、一つの視点からだけでは見えないサイエンスが浮かび上がってきます。例えば、物質中の電子によって散乱されるX線は比較的重い原子からなる物質の解析を得意としますが、原子核によって散乱される中性子は、炭素や水素など軽い元素をふくむ物質の構造を知る手法として威力を発揮します。両方の手法を併用することで、タンパク質の構造だけでなく、水に満たされた細胞の中でどのような機能をもつのか、より詳しく知ることができるのです(図2、3)。
これら4つのビームの総合的な活用をより一層進めるために、本年4月1日、物構研に新しく構造物性研究センターが設立されました。物構研は、放射光科学研究系、中性子科学研究系、ミュオン科学研究系という研究手法ごとのグループだけでなく、構造生物学研究センターという手法横断的なグループも擁しています。構造物性研究センターは、構造生物学研究センターに並び立つ、物性科学分野での手法横断的なグループです。今後はこの2つのセンターが両輪となり、物構研の研究活動を支え、方向付けていくことになります(図4)。
構造物性研究センターのミッション
17世紀半ば、イギリスのロバート・フックは、対物レンズと接眼レンズで構成される現在の顕微鏡の元となった「複式顕微鏡」を製作し、その顕微鏡を使って様々なものを観察しました。彼の業績の中でもっとも有名なものの一つが、"細胞"の発見ではないでしょうか。コルクを顕微鏡で観察し、それが小さな"部屋(cell)"の集まりでできていることを発見して、一つ一つを"細胞(cell)"と呼んだのです。彼は後に、多数の顕微鏡スケッチを収めた「ミクログラフィア(顕微鏡図譜)」を上梓しました。フックが世に知らしめた数々の成果は、当時の科学界を牽引し、顕微鏡を普及・向上させる大きな力となったことでしょう。
構造物性研究センターの一つの使命は、まさに現代のロバート・フックとして、現代の「ミクログラフィア」を生み出すことです。加速器という顕微鏡を駆使して、世界の構造物性研究をリードする研究成果を創出することが求められているのです。KEKは大学共同利用機関です。KEKの一機関である物構研も、大学等研究機関の研究者に広く活用してもらうことに本分を置いています。そして共同利用促進のためには、物構研が研究機関として更なる魅力と求心力を持つことが重要です。物構研が最先端の研究成果を創出し続けていくことが、共同利用の効果的な促進につながるのです。構造物性研究センターは、構造生物学研究センターとともに、その中心的役割を果たすことを期待されているのです。
地の利、人の利
構造物性研究センターは、それらのミッションを遂行するための、さまざまなポテンシャルを備えています。まずは何といっても、放射光、中性子、ミュオン、低速陽電子の4つのビームを総合的に利用できること。これは大きな特徴であり利点です。物構研の放射光科学研究施設には、例えばフォトンファクトリー(PF)での高圧・強磁場条件でのX線回折実験や、PF-ARでの時間分解X線回折・散乱実験などのように、特徴的な実験設備が備わっています。そのため、国内外の他の放射光施設と相補的に活用することが可能です。また、新たに稼働を開始した大強度陽子加速器施設J-PARCの物質・生命科学実験施設には中性子実験施設とミュオン科学実験施設MUSEが併設され、今まさに本格的な実験をスタートしたところです。これらのビームや施設を複合的に活用することができるという利点は、他に類を見ないものです。また、2003年に設立され、生物学の分野で最先端の研究成果を創出し続けている構造生物学研究センターとの連携が図れることも、大きな利点です。更には、同じKEKに属する素粒子原子核研究所や加速器研究施設との協力も容易です。そして、最も大きな利点は、これまでに物構研で加速器を用いた研究成果を積み上げてきたスタッフが揃っていることです。加速器を擁する機関ならではの人の利と言えるのではないでしょうか。
組織と運営、バーチャルとリアル
4月から構造物性研究センター長に就任した村上洋一教授(図5)は、「構造物性研究センターは、物構研が持つ放射光・中性子・ミュオン・低速陽電子という複数のプローブの総合的な利用と、外部の研究者との密接な研究協力を二本柱とすることにより、独創的かつ先端的な研究を展開し、物性科学分野の世界的研究拠点となることを目指しています。」と述べています。この二本柱を確たるものにするために、構造物性研究センターの設立にあたり、組織や運営について様々な試みが織りこまれました。まず、現在の物性科学研究の中で極めて重要であると考えられる「強相関電子系」「表面・界面系」「ソフトマター系」「極限環境下物質系」の4つの分野が、今後構造物性研究センターが研究を進めていく重点分野に選ばれ、それらのサイエンスを軸に人が組織されました。次に、さまざまな大学や研究機関との連携を促進し、研究拠点としての強化を図る体制が整えられました。日本原子力研究開発機構、理化学研究所、東京大学物性研究所のほか、筑波大学、東北大学、東京大学、京都大学、大阪大学などをはじめとする数多くの研究機関や大学との連携は、加速器を擁し"測る"ことに長ずる一方、試料の作製や新物質の創出などを行う施設や機関を特に持たない物構研の弱点をカバーすることにもなります。更に、新しく建物や人を増やして研究センターを立ち上げるのではなく、現在の研究系の組織の上にバーチャルな組織を作ることで、臨機応変な改編が可能で活性化しやすい組織を実現しました。その上で、魅力的なプロジェクトを発案した研究者が活躍しやすいように、構造物性研究センターとしてマシンタイムや予算をリアルに配分できるよう、体制を整えました。
こうして、満を持して構造物性研究センターが走り出しました。物質構造科学研究所の下村理所長は、構造物性研究センター設立にあたり、「物構研の研究環境は、今大きく変わろうとしています。大強度陽子加速器施設J-PARCでは世界最強のビームを使った新たな中性子・ミュオン利用研究がまさに始まろうとしており、放射光科学研究施設では直線部増強や新たなビームライン統廃合が戦略的に進められてきています。この時期に、以前から構想のあった構造物性研究センターを設立することは時宜を得ていることであり、生命科学と物質科学の研究を先導する2つのセンターを車の両輪として持つことは、物構研としても非常に有意義なことであると考えています。」と述べています(図6)。加えて村上センター長は、これらの研究領域間に跨る新しい研究領域の開拓も目指したいとしています。
この春、いよいよ両輪そろって前人未到のフロンティアに乗り出した物構研。その2つのわだちが今後どのような模様を描いていくのか、楽しみに待ちたいと思います。
[図1]
加速器が生み出す放射光、中性子、ミュオン、低速陽電子を使うと、ミクロの世界を様々な視点から調べることができる。KEKの物質構造科学研究所(物構研)は、4種類のビームを用いる研究施設を備えた、世界でただ一つの研究所。
[図2]
4つの量子ビーム。電子と相互作用するX線(放射光)、電荷をもたず原子核に散乱される中性子、物質内部の磁場を感知するミュオン、電子と相互作用してガンマ線を発する陽電子。それぞれに得手・不得手がある。
[図3]
携帯電話などに用いられるリチウム電池の電極材料として用いられる、LiMn2O4の構造解析の例。左側はX線を使った回折像、右側は中性子による回折像で、X線では見えなかった酸素原子の存在が、右側の中性子を使った回折像ではくっきりと見える。
[図4]
物構研の組織と構成。放射光や中性子など、研究手法ごとに分かれた系と、系をまたぐ形で組織された構造生物学研究センター・構造物性研究センターから成る。この2つのセンターは、外部の研究機関との連携を一つの柱として、運営や研究活動を推進する。
[図5]
構造物性研究センター設立直前に行われたPFシンポジウムで、構造物性研究センターの使命について説明する村上洋一センター長。
[図6]
昨年秋の物構研シンポジウムで構造物性研究センターについて説明する下村理物構研所長。
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