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奈良とくすりの古い関係
「奈良のくすり」の歴史
"大和は国のまほろば"といわれるように、奈良県は古来地の利を得て、早くより悠久の歴史をもつ文化が発達し、とくに飛鳥・天平の華麗な文化と自然美との調和は人々に多大の感銘を与えております。
「奈良のくすり」の歴史は、例えば既に1200年も前から有名な「役の行者」による「陀羅尼助」或は南都唐招提寺の「奇効丸」、西大寺の「豊心丹」等の施薬に発して、当時の政治、宗教、医薬の中心地である大和で作られたくすりが全国各地に広められていったのです。
「奈良のくすり」の歴史はとりもなおさず「日本のくすり」の歴史であると言っても過言ではないでしょう。
奈良県とくすりの関わり
奈良県は日本最古の朝廷が置かれた土地であり、くすりとの関わり合いもそれだけ古いものがあります。
歴史書には、推古天皇が現在の大宇陀地方で薬狩りをされた(611年)という記述があります。
古くは、寺院がくすりと深い関係を持っていました。中国から医薬術の導入、くすりの輸入などをして、民衆を病から救済しようという寺院がありました。
有名な東大寺の正倉院には、当時のくすりが納められています。いくつかの寺院では、それぞれ秘伝の処方による薬が作られ、施薬が行われました。修験道で有名な大峰山の「陀羅尼助」がその一例です。
一方、お茶という形でくすりは一般に広まりました。
むかしは、薬というと大変高価で一般には手の届きにくいものでした。そのため、自分の健康を自分自身で維持するために、身近な薬草やその他の天然物を利用しようとして、様々な知識・経験が蓄積されました。こうして利用された薬草などを民間薬といいます。
20世紀に入るまで、現代のような化学合成医薬品はありませんでした。それまでの日本の医薬品の主体は、漢方・生薬処方でした。当時の医学の知識は、中国伝来の医術を基礎としており、用いられる生薬も中国のものが主流でした。
天産物である生薬の確保・安定供給は重要な問題でした。当時、高価な生薬を輸入する一方、国内でも調達できないものかと、薬用植物の栽培・採取がみられました。中国などから種苗を導入するだけでなく、国内に自生する植物の中から利用・代用できるもの、あるいは、より日本人の体質に合ったものが探されました。
このような状況のなかで、大和(奈良県)では数々の優良な品種が確立されました。
その一方で、全国各地のくすりを必要とする人々を相手に、くすりを販売して廻る産業が興り、「置きぐすり」という独特の形態をとるようになりました。
現在でも、配置家庭薬として、全国の利用者にユニークな医療サービスを提供しています。
生産、販売ともに、業務をさらに近代化し、良質の医療品を、利用しやすい形態で、全国の家庭にお届しています。
推古天皇の薬狩り
歴史では、推古天皇が現在の大宇陀地方で薬狩りをされたという記述(611年)があります。当時、獣狩りをされようとした推古天皇を、皇太子がお諌めし、中国の風習に倣って、代わりに薬狩りをするように進言し、聞き入れられたとのことです。
その後も、朝廷と薬物の関わりは深く、藤原京(694〜710)跡からは、薬物のことを記した木簡(薬用人参等25種)が出土しています。
東大寺正倉院
東大寺正倉院の御物の中には、21の漆櫃に納められた60種の薬があります。これらの薬は単に奉献されたものではなく、一般への施薬を考えたものでした。すなわち、病に苦しむ民衆に分け与え、使った分は順次補充するというものです。
奉盧舎那仏種々薬帳の中には、次のように記されています。
「以前(列記した薬物の意)堂内に安置して盧舎那仏(大仏)を供養す、もし病苦のため用うべき者あれば、僧綱(東大寺の寺務所)に知らせて使用を許可する。伏して願わくは、この薬を服用する者は万病はことごとく除かれ千苦みな救われ、諸善は成就し、諸悪は断ち切られ、長寿で夭折することない。そして最後に生命を終わったあと、蓮花蔵世界(極楽浄土)に往生し、盧舎那仏にお会いでき、仏法世界を体得できるように。」
平安時代以降
都が京に移ってからも、薬用植物の栽培や輸入が続けられました。延喜式(927年完成、967年施行)を見ると、桔梗、芍薬等全国第5位にあたる38種の薬用植物を生産していると記されています。
※(注記)延喜式:律令の施行細則のことです。平安時代初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記してあります。
西大寺の大茶盛
茶は古くから日本に自生していたという説がありますが、はっきりとしたことはわかりません。唐文化がさかんに輸入された時代に、わが国でも寺院などで、茶を薬用として使用することが広まって、喫茶の習慣もできたと考えられています。現在のような形態での喫茶の用法は、留学僧の栄西(1141〜1215)が種子を日本に持ち帰って、九州に植えたことから始まったといわれています。
栄西は「喫茶養生記」に『茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり。』と記し、茶は五臓の働きを活発にし、長命にすると説いています。
その後、大和でも茶の栽培が広まり、般若寺や室生寺が大和茶の産地として知られるようになりました。
そのような中で、薬としての茶の大盤振る舞いが定着し、今では「西大寺の大茶盛」として、有名な観光行事となっています。