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優良な生薬
生薬栽培の伝統
日本最古の朝廷がおかれた奈良県は、古来からのくすりの原料である生薬とも深い関わりをもっています。疫病に備え、大和を中心とする近畿地方で薬用植物が栽培されたほか、中国等の諸外国から渡来の生薬も大和に集まりました。
また歴史的な要因だけではなく、地質的にも恵まれた奈良県は、種々の生薬の栽培に適した環境にありました。周囲を山地に囲まれ、十分な降水、夏期の暑さと冬期の寒冷、積雪の少なさなどです。
江戸時代に入って漢薬の需要は高まり、日本国内における自給自足対策として、中国産の薬用植物の種苗を輸入する一方、山野に自生する薬草、薬木の類を調査、採集し、それらを栽培化する試みが盛んにおこなわれていました。特に八代将軍吉宗は、諸国に薬草栽培を奨励しました。そういった状況において、古くから薬用植物の栽培が行われてきた大和地方(奈良県)は、重要な一地域となりました。そして、より日本人の体質に合った、優良な生薬の種苗が育てられ、栽培されました。
明治時代になると、北海道では開拓政策のもとで、薬用植物の大規模な栽培化が行われ、国内での生薬の栽培の中心は北海道、九州となりました。しかし、大和地方を中心として育まれた国内種苗とは、気候風土等の条件が異なり、またなるべく手間をかけない大量生産が中心となったため、それまでの品種とは違う生薬が栽培されることが多くおこりました。
従来の品種は、奈良県などの篤農家の間で、ごく僅かに維持されているといった状態です。また他の品種との自然交配によって、純粋な品種が失われるという問題もあります。こういった状況を憂慮して、日本東洋医学会などで国内優良種苗の保存事業が行われています。
江戸時代における奈良県での生薬生産
『大和誌』(1736年)によると、宇陀、高市、宇智、吉野など南大和の諸郡で、地黄、当帰、人参、大黄などを産出すると記されています。
また、森野家(後述)3代目好徳の記録(18世紀末〜19世紀初め)によって、当時どのような薬草が作られたり、採られたりしていたかがわかります。栽培の方は、ジオウ(地黄)、センキュウ(川キュウ)、トウキ(当帰)、コウカ(紅花)、シャクヤク(芍薬)、ビャクシ(白シ)、オウゴン(黄ゴン)、ゴシツ(牛膝)、ボタン(牡丹)、ニンジン(人参)、エンゴサク(延胡索)、バイモ(貝母)、ウヤク(烏薬)、ゲンジン(玄参)、インヨウカク(淫羊カク)などです。
一方、山野に自生していたものとしては、キョウカツ(羌活)、ドッカツ(独活)、ゼンコ(前胡)、リュウタン(龍胆)、キキョウ(桔梗)、シャジン(沙参)、オンジ(遠志)、ヤマシャクヤク(山芍薬)、カッコン(葛根)などです。
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大深当帰(大和当帰)
トウキはセリ科の植物で、生薬としては、代表的な婦人薬です。血の道症などに効果があり、当帰芍薬散などが有名です。
日本では、17世紀の中頃から大和や山城地方で当時大和地方に野生していたミヤマトウキ系のものを栽培し、トウキとして利用し、今日の大深当帰となったと考えられています。
このトウキは栽培に手間がかかるため、現在では奈良、和歌山両県境にわずかに栽培されているだけになっています。
国内生産全体では、栽培しやすく作柄が大きい品種である北海当帰が、北海道を中心にして栽培されており、大部分を占めていますが、品質は大深当帰の方が良いとされています。 -
大和芍薬
シャクヤクが日本に渡来したのは奈良時代といわれており、室町時代に栽培の記録(1445年)があります。
姿の美しいシャクヤクは、園芸種として非常に多くの品種があります。一方、どの品種が薬用に適しているかという研究は、現在もなされているところです。今のところ日本では、奈良県で長年、薬用とされてきたものが、最高級とされています。
奈良県産のシャクヤクが、現在のような栽培品種として確立されたのは、享保年間といわれています。大和のシャクヤクは、当時山地に自生していたヤマシャクヤクと、長崎・鹿児島などを経由してオランダから導入された品種を交配して作り出されたと考えられています。
このシャクヤクは、薬用として優れた品種なのですが、種から栽培することができないという特徴があります。つまり、株分けでしか繁殖させることができません。そのため大量に増やすことが難しく、ごく一部の篤農家によって栽培が続けられているという状況にあります。 -
赤矢地黄
古い時代に、中国から日本に渡来し、平安時代には山城の国(京都府南部)で栽培されていたという記録が、延喜式に残っています。奈良県に縁のある薬草で、江戸時代にはすでに栽培されていました。現在でも「地黄町」という地名が残っている(橿原市)ほどです。
漢方では、補血、強壮薬として用いられ、八味地黄丸が有名です。日本で栽培されている地黄には、もう一つカイケジオウという品種があります。こちらの方が大型で、また栽培も比較的容易なため、国内の栽培の主流となっています。しかし、薬効など、生薬としては、アカヤジオウの方が良質といわれており、希少価値ということもあり、高い値段がつきます。 -
牡丹皮
わが国の牡丹の渡来は、聖武天皇の御代(724年)に空海が中国から持ち帰ったのが最初といわれています。牡丹は薬用として渡来し、奈良朝時代には専ら薬用に供されていましたが、花の美しさから、次第に観賞用になりました。 (室町時代の書『仙伝抄』(1540年)
奈良県初瀬の長谷寺は牡丹で有名ですが、寺の古文書には、元禄13年(1700年)に登廊の両側に牡丹を栽培せりとあります。
明治時代になると、それまで衰退していた牡丹の栽培が再び盛んになりました。フランスで始まった、芍薬台に牡丹をつぎきして増やす方法が明治30年頃に日本でも行われはじめ、鑑賞用の牡丹の品種改良が進みました。しかし、根が芍薬である牡丹は薬用に用いることができません
日本では奈良県をはじめとして、岩手県、長野県などで栽培されていますが、農業の高齢化、輸入品との価格差などによって、年々栽培量は少なくなっています。最近(1993年)では、国内生産量が500キロ(0.5トン)に対して、輸入量は240トンという状況です。
品質は、大和産(奈良県)と信州産(長野県)が上質であり、中国産の輸入品は、最近でこそやや良品が入ってきているものの、国内産には及びません。
国内での栽培生産・調製加工の技術と、優れた種苗を今後も維持していく必要があります。 -
川キュウ
川キュウは、寛永年間(1624〜1643)に長崎へ渡来し、大和(奈良県)において多く作られました。明治時代になって、仙台あるいは山形から北海道に導入され、現在では北海道が主産地になっています。
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森野薬園
大和では、将軍吉宗の時代に、幕府の採薬使植村佐平次政勝による薬草採取旅行が行われました(1729年)。これに随行した森野藤助は、その後幕府から薬草6種を拝領して、自ら採取した薬草とともに、(現在の大宇陀町にある)自宅の背後にある台地の畑に栽培しました。こうして始まったのが森野薬園です。薬園では、唐種を中心とした貴重な薬用植物の栽培が行われました。
藤助に始まって、森野家は代々薬草の研究と薬園の整備に努めたため、現在でも、数少ない民間の薬草園として続いています。(この当時、森野薬園以外にも、下市において願行寺薬園、堀池薬園などの薬草園がありました。)
森野薬園は、台地の斜面という自然の地形を生かして、植物の栽培を行っています。また、薬園の一角には、藤助が隠居してから研究に励んだ書斎兼薬草研究所である、「桃岳庵」があります。森野藤助の自宅は、葛の加工場となっており、冬期には現在も作業が行われています。