最初の仕事は、日本一のダムにすること
中野: 入江さんが最初にダムに係わられたのはいつ、どこのダムになりますか?
入江: 僕は、昭和43年に建設省に入省したのですが、最初の配属先は「木曽川上流工事事務所」でした。そこは、ダムの予備調査もやっているところで、その担当になりましたが、当時は対象のダムの用地交渉がまったく進んでいなかったので、最初の一年間はほとんど仕事らしいことを何もしていなかったと思います。2年目になって、徳山ダムに関わりました。もともと徳山ダムは、電源開発がやっていた事業でしたが、発電だけではペイしないので多目的ダムへ計画変更したいということで、その計画変更の設計に関わったのです。それがダムへの関わりのきっかけとなりました。
中野: 徳山ダムの設計に携わることになって、どう思われましたか?
入江: せっかく任されたのですから、どうせやるのなら日本一のダムしてやろうと思って...。(笑)電源開発の計画容量の上に、治水と利水分を上積みしました。当時、日本一だった奧只見ダムの貯水容量が6億3000万トンくらいでしたから、それを超えて6億6000万トン位の計画にしたのです。
中野: 日本一のダムにするというプランができたわけですね。
入江: まず仕上げた計画書を持って中部地方建設局へ説明に行きましたが、これがすんなり通ってしまったのです。その後、本省にも説明に行きましたが、途中で誰一人反対することもなく、僕が計画した通りの案でOKが出てしまった。やっているのは赴任してまだ2年目の若輩者です。途中で必ず誰かのチェックが入るだろうと思ってほとんど勢いだけで計画していたものですから、こちらが驚いてしまいました。おかげで、徳山ダムの高さと容量は、僕が計画した通りに今も日本一になっています。(笑)
中野: それから本格的にダムの設計に取り組まれたのですか?
入江: いや、設計としてはその時たまたま徳山ダムに携わっただけで、もともと専門というわけでもなかったので、その後いくつものダムを設計したという経験はないのです。(笑)
中野: 徳山ダムには、その後もずっと関わられたのでしょうか?
入江: 昭和46年に実地調査計画書を仕上げたのですが、その後はほとんど関係していません。すでに本省の開発課に転勤になっていましたので、徳山に関しては予算要求の事務的仕事くらいでしょうか。構造的なこと、技術的なことは全部、電源開発がしていたので、私はダムの目的変更に応じて、高さや容量を再計算すればよかったのです。ものすごくダムを勉強して設計したということではないのです。