1885年2月8日ハワイへ官約移民
江戸時代中期以降人口増加が著しかった周防大島では、島の限られた土地だけでは生活が困難であり、伝統的に大工・石工・船乗りなどによる出稼ぎが盛んでした。
明治時代になると人口は増加の一途をたどり、更には全国的な不況に自然災害が加わり、周防大島の人々は困窮を極めていました。
日本とハワイで日布移民条約が結ばれ、国策によるハワイ移民制度(官約移民制度)がはじまると、山口県では周防大島からの募集に特に力を入れ、郡役所、村役場も大いに努力を傾けました。
その結果、第一回官約移民では周防大島出身者が全体の約3分の1を占め、総勢944人を乗せた「シティー・オブ・トーキョー号」は2週間に渡る船旅を終え、1885年(明治18年)2月8日にホノルルへ到着しました。
その後も周防大島から多くの人々がハワイを目指して海を渡り、官約移民時代を通して3,914人もの人々が周防大島からハワイへ渡りました。
官約移民は「3年間で400円稼げる」といったことを謳い文句に募集が行われましたが、その実態は農奴の如き過酷な労働条件下であったといわれています。
耕地で労働しながら共に励ましあい、また少しでも気を紛らわせるために「ホレホレ節」などの民謡が生まれました。
このように艱難辛苦な日々を送りながらも日系移民の人々は社会的地位の向上に努め、次第に事業で成功を収める日系人も現れ、二世、三世の時代には政財界・法曹界などに進.出し、ハワイ社会の中核を担う人材を輩出するまでになりました。
こうして「移民の島」として知られるようになった周防大島では、現在でもハワイに親戚を持つ人が数多くいます。
日本ハワイ移民資料館
http://www.suouoshima.com/kanko/shisetsu.html#hawaii