黒田家 (伯爵家)
| 黒田家 | |
|---|---|
| 家紋 | |
| 種別 |
武家 士族 華族(伯爵) |
| 主な根拠地 |
薩摩国 東京市 |
| 著名な人物 | 黒田清隆 |
| 凡例 / Category:日本の氏族 | |
黒田家(くろだけ)は、武家・士族・華族だった日本の家。近世には薩摩藩の下士の家だったが、近代には第2代内閣総理大臣となった黒田清隆を出し、彼の勲功により華族の伯爵家に列せられた。
歴史
[編集 ]黒田清隆の父黒田仲左衛門清行は、家禄わずか4石という微禄の薩摩藩下士だった。そのため清隆も極貧生活の中で育った[1] [2] 。
清隆は幕末の薩英戦争で防戦に加わり、戊辰戦争では鳥羽・伏見・北越・奥羽・箱館の戦いに功があった[3] 。特に箱館戦争における戦功で明治2年(1869年)に賞典禄700石を下賜された[3] 。同年から政府に出仕して外務権大丞、兵部大丞などを歴任した後、明治4年(1871年)から開拓使次官となり、明治7年(1874年)に陸軍中将兼参議となる。明治8年(1875年)に開拓長官となり、北海道開拓に努めるとともに樺太・千島交換条約を推進。江華島事件の後、特命全権弁理大臣として朝鮮に渡り、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結。明治14年(1881年)に開拓使官有物払下げ問題で大隈重信や世論の批判を受けて開拓長官を辞任[4] 。明治17年(1884年)7月に維新の功により華族の伯爵に列する[5] 。明治20年(1887年)に第1次伊藤内閣に農商務大臣として入閣し、ついでに明治21年(1888年)にその後を受けて第2代内閣総理大臣に就任した。在任中の翌22年(1889年)2月に明治憲法の発布にあたったが、条約改正交渉の失敗で引責辞任[4] 。その後元老となるとともに、第2次伊藤内閣では逓信大臣・枢密院議長を務めた[4] 。
清隆には長男清仲と娘2人(梅子と竹子)、および養女1名(中島勝重二女ヒヤク)があった。清隆は箱館戦争で榎本武揚を助命した縁で榎本と仲が良かったため、清隆の長女梅子は榎本の長男榎本武憲 子爵に嫁いでいる。また次女竹子は伊地知貞一、養女ヒヤクは陸軍大将黒木為楨伯爵に嫁いでいる[6] 。
明治33年8月25日に清隆が没した後、9月12日に長男清仲が爵位と家督を継承。実子のない清仲が大正4年(1915年)1月11日に没した後には、黒木為楨伯爵とヒヤク夫妻の三男で清仲の養子に入っていた清が同年1月30日に爵位と家督を相続した[6] 。彼の代の昭和前期に黒田伯爵家の住居は東京市 渋谷区 松濤町の黒木伯爵家別邸だった[7] 。
清には実子がなかったため、黒田常清と榎本武憲子爵長女千代子の間の子である清揚(昭和5年8月26日生)が養子に入っている[6] 。その子には清徳(昭和55年2月7日生)がある[6] 。
系図
[編集 ]実線は実子、点線(縦)は養子。系図は『平成新修旧華族家系大成 上巻』[6] に準拠。
- 系譜注
脚注
[編集 ]出典
[編集 ]- ^ 青年修養会 1938, p. 173.
- ^ 奥田静夫 2007, p. 45.
- ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 571.
- ^ a b c 世界大百科事典 第2版 /日本大百科全書(ニッポニカ) ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 旺文社日本史事典 三訂版『黒田清隆』 - コトバンク
- ^ 小田部雄次 2006, p. 326.
- ^ a b c d e 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 570.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 113.
参考文献
[編集 ]- 青年修養会『近代日本偉人の青年時代』大洋社、1938年(昭和15年) エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
- 奥田静夫『青雲の果て 武人黒田清隆の戦い』開発こうほう、2007年(平成19年) エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年) エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年) エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。ISBN 978-4642036702。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年) エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)。ISBN 978-4820540342。