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蔵原敏捷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蔵原 敏捷
くらはら としかつ
蔵原敏捷
生年月日 (1888年08月15日) 1888年 8月15日
出生地 日本の旗 日本 熊本県 下益城郡 小川町
(現・宇城市)
没年月日 (1945年08月07日) 1945年 8月7日(56歳没)
死没地 日本の旗 日本 熊本県熊本市
出身校 東京帝国大学法科大学卒業
所属政党 国民同盟
大政翼賛会
称号 法学士
選挙区 熊本県第2区(戦前・中選挙区)
当選回数 3回
在任期間 1936年 2月20日 - 1945年 8月7日
(注記)在職中死去
在任期間 1930年 8月26日 - 1932年 1月29日 (注記)1931年 12月18日より休職
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蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年 8月15日 - 1945年 8月7日)は、日本官僚政治家。元和歌山県知事衆議院議員(3期)。官僚としては内務省の警察関連部門で長く勤めた。

来歴

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熊本県 下益城郡 小川町(現・宇城市)出身[1] 小川尋常小学校熊本県立八代中学校(1906年3月卒業)、第五高等学校(1909年7月卒業)を経て、1913年7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した[1] [2]

大学卒業後の1913年10月に高等文官試験に合格した[1] 。以後は内務省官僚となる[3] 1914年8月に大阪府警察部警部、1916年12月から同警視を務めた後、1922年6月に東京府理事官に異動し、その直後から欧米に約1年3か月出張した[1] 1923年10月に帰国すると千葉県警察部長、次いで1924年6月から秋田県警察部長をそれぞれ務める[1] 1925年10月に神奈川県書記官兼務で神奈川県警察部長に就任したが、1927年5月に休職ののち、8月にいったん依願免本官する[1]

1929年7月に大阪府書記兼務で大阪府警察部長に復職し、1930年8月26日に和歌山県知事に任命された[1] [4] 。当時の蔵原は立憲民政党系だったとされる[5] 。しかし、1931年12月18日に再び休職し、1932年1月29日、依願免本官となり退官した[1]

1936年、第19回衆議院議員総選挙国民同盟所属で当時の熊本県第2区(当時の中選挙区)から立候補し、第4位の得票で初当選する[6] 。当時の蔵原は、同じ熊本県出身で、内務官僚時代に内務大臣を務めていた安達謙蔵のグループに所属していた[6]

1937年、第20回衆議院議員総選挙で再選される[1] 。1942年、第21回衆議院議員総選挙で再々選となる[1] 。このとき蔵原は翼賛政治体制協議会の推薦を受けた(いわゆる「翼賛候補」)。

1945年熊本市空襲に遭い死去した[7]

親族

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九州日日新聞で女性新聞記者となった平山訓は実姉[8]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 故正五位蔵原敏捷位階追陞の件 - 1945年8月25日(リンク先は国立公文書館デジタルアーカイブ、6 - 7ページ目を参照)
  2. ^ 小川町史編纂委員会編纂『小川町史』小川町、1979年、1052頁
  3. ^ 高田久徳「帝国議会の官僚出身議員に関する予備的考察」『大正大学大学院研究論集』第37号、大正大学、2013年3月、139-146頁。  該当記述はp.145
  4. ^ 『官報』第1099号 - 1930年8月27日、p.732
  5. ^ 花野孝史「近代期の地域 開発 におけ る地方政治と民間資本の動向―和歌山築港を事例として―」(PDF)『人文地理』第51巻第3号、人文地理学会、1999年、89-103頁。  該当記述はp.97
  6. ^ a b 松枝大貴「昭和戦前期における第三党に関する一考察」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』第57号、慶應義塾大学法学研究会、2017年、235-281頁。 
  7. ^ 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』(大蔵省印刷局、1990年)に「昭和20年8月7日死去」。『九州人国記』(熊本日日新聞社、1966年)の454頁には「戦争末期、病気の実母を見舞うため帰郷したさい、運悪く熊本市の旅館で空襲にあつて爆死した」との記述がある。
  8. ^ 平山謙二郎「『女性記者第一号平山訓』のこと」『熊本言論史会報 木鐸』第1号、熊本日日新聞社内新聞博物館、2000年3月、30-33頁。 

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