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羽田耕一

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(2025年5月)
羽田 耕一
三田学園高校硬式野球部 監督
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県 尼崎市
生年月日 (1953年06月19日) 1953年 6月19日(72歳)
身長
体重
180 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1971年 ドラフト4位
初出場 1973年5月17日
最終出場 1989年10月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
この表について
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羽田 耕一(はだ こういち、1953年 6月19日 - )は、兵庫県 尼崎市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。

経歴

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少年時代は阪神ファンで、憧れていた選手は村山実だった[1] 尼崎市立若草中学校軟式野球部時代に、エース 投手として近畿大会で準優勝[2] 。その後の進学先として北陽高等学校(現・関西大学北陽高等学校)からも誘われていたことがあったが、野球部監督の日下隆が自分の父親と小学校時代の同級生という関係であったこともあって父親から勧められて、三田学園高校に進学[2] 。進学後も投手を続けるつもりでいたが、監督の日下からすぐに野手への転向を命じられる[2] 。高校では2年生の時、遊撃手として1970年春の選抜に出場。1年先輩の淡口憲治クリーンナップを組み準々決勝に進出するが、鳴門高に敗れる。同年夏の甲子園県予選では準決勝で滝川高に敗退。同年秋季近畿大会では決勝に進出するが、市和歌山商の岩井靖二(日本生命)に0-1で完封負けを喫する。大会準優勝で翌1971年 春の選抜への出場を確実にしたが、在校生の暴力事件があり出場辞退を余儀なくされた。翌年夏の県予選では準々決勝で津名高に敗退。高校同期に甲斐富士男、中西弘明のバッテリー、2年先輩には山本功児がいた。

1971年 ドラフト4位で、近鉄バファローズに入団。同期入団組に佐々木恭介梨田昌孝平野光泰らがいる。また同世代のチームメイトとして梨田の他、吹石徳一藤瀬史朗がいる。このドラフト会議前は、意中の球団は阪神であり、阪神以外の球団から指名されたら早稲田大学への進学を希望していたが、高校の野球部監督の日下に「近鉄に行った方がいい」と助言を受け、言われた時は「行かな仕方ない」という気持ちで入団を決めたという[3]

プロ入り当初は速いボールが全然打てず、プロの壁に直面したが、1972年の秋以降に巨人長嶋茂雄の打撃フォームやタイミングの取り方などを徹底研究したところ、「速いボールも打てるようになった」と話す[4]

1973年に一軍に上がり、5月には三塁手の定位置を獲得。リーグ最多の27失策と守備が課題とされたが、12本塁打を放ち長距離打者として売り出す。

1974年には、新たに就任した監督西本幸雄の下、開幕から三番打者として起用され、初めて規定打席(21位、打率.248)に到達。この年、オールスターゲームに初出場[5]

1975年からは移籍した主砲土井正博の背番号3を引き継ぐが、打率面では低迷が続く。

1977年には打率.265(17位)と改善が見られ、22本塁打、75打点とチーム二冠の成績を記録。

1979年、球団初のリーグ初優勝に貢献。同年の広島東洋カープとの日本シリーズでは、第1戦に3安打するなど通算24打数8安打4打点と活躍。最終第7戦9回裏のいわゆる「江夏の21球」の場面では、先頭打者として江夏豊の1球目を中前安打、ドラマのきっかけを作った。江夏はストライクを取りにいった甘いボールを「あの場面、あの状況で、初球を打つか?」と回顧している。

1980年には自己最多の30本塁打、80打点を記録し、ダイヤモンドグラブ賞も獲得、チームのリーグ連続優勝に貢献した。同年の広島との日本シリーズでは、第1戦の延長12回に江夏豊から決勝2点本塁打を放つ。しかし第3戦以降は無安打に終わり、チームも日本一を逃した。

1982年には22本塁打(同僚の栗橋茂と同数)、自己最多の85打点と再びチーム二冠の成績を挙げる。

1984年 - 1985年頃から、右肘痛に加え、両膝痛にも悩まされるようになる。しかし特に膝は、靱帯が切れていると感じていながら、大した治療もしないままでプレーしていたこともあった。現役晩年の頃は「体がもうボロボロで、肘を手術した後は肘を畳んで打つこともできなくなり、内角の球を打つのががめちゃくちゃ厳しくなった」といったことを後日話している[6] [7]

1986年から金村義明の台頭により控えに回るようになる。

1988年の「10.19」の第2試合で一塁手として途中出場、10回表一死一塁の場面で打席に立つも併殺打に倒れる。当時のパ・リーグではダブルヘッダーの第2試合は試合時間は4時間までという制限によりこの試合は10回までとなっていたが近鉄は勝ち越しできず、優勝を逃した。一時はこの年限りでの現役引退も考えたが、「10.19」での最後のバッターになったことの悔しさもあり、現役を続けることを決意[8] 。3度目のリーグ優勝を果たした翌1989年限りで現役を引退した。当時の監督の仰木彬からは、他球団にトレードで行くか、近鉄のコーチになるか、解説者になるか、の選択肢を与えられ、現役は「こんな体で出来るわけがない」と考え、相談した西本幸雄からの助言を受ける形でコーチに転身することとなった[9]

引退後は一軍・二軍打撃コーチを務めた後、2001年からはフロント入りして編成担当などに従事した。近鉄最終年の2004年、2001年から羽田と入れ替わりでコーチ職に就いていた鈴木貴久の急逝を受け二軍打撃コーチとして現場復帰した。

2005年からは合併球団オリックス・バファローズ大阪営業部に在籍し、少年野球教室「オリックス・ベースボール・アカデミー」校長も務める。

2006年から2014年までNPB12球団ジュニアトーナメントでオリックス・ジュニアの監督を務めており、2007年の大会では優勝に導いた。

2008年からオリックス球団が京セラドーム大阪などでの試合終了後に実施した『サラリーマンノック』のノッカーの一人として、集まったサラリーマン等に対し、熱烈なるノックで応えた[10]

2014年12月22日に母校三田学園高校野球部監督に就任する見通しであることが報道された[11] 。同年12月31日をもって任期満了に伴いオリックス球団事業本部リテール営業部コミュニティグループを退任[12]

2015年2月2日に三田学園野球部の監督就任会見を行った[13] 2013年からの資格回復研修制度を経て、元プロ野球選手が母校の監督に就任する初のケースとなった[14]

プロ球団から退いても「僕の古巣はオリックスではなく、やっぱり近鉄」と語っている[1]

羽田殴打事件

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1975年5月30日の対阪急ブレーブス戦(西宮球場)で、監督の西本幸雄によるいわゆる「羽田殴打事件(球団広報誌「近鉄バファローズニュース」1995年9月号では「ポカリ事件」と記載)」が、発生している[15] [注 1] 。この試合の5回表、西本は選手に円陣を組ませ、阪急の先発投手・山口高志の攻略法として、「ワンストライクを待て。高めのボールは絶対に手を出すな」と指示した[15] 。ところがその回の先頭打者だった羽田は円陣に加わらずに打席に立っていたため、指示を知らずに2球続けて高めに手を出してファウルの後、ショートゴロに倒れた[15] 。これに怒った西本は、ベンチに戻ってきた羽田を殴打した[15] 。オフ日のためネット裏から目撃した鈴木啓示は「びっくりした」と述べている[15] 。試合はこの後、近鉄打線が山口を打ち崩して勝利した[15] 。羽田は三田学園野球部の監督就任会見の際、理想とする指導者として西本の名前を挙げて「本当に厳しい方で、今ではやってはダメだけど、手を出す方。でもグラウンドから一歩出ると優しくて、面倒見のいい監督だった。当時の選手は誰一人、悪口を言わなかった。そういう選手から慕われる監督でありたい」と思いを口にした[13]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1973 近鉄 104 391 371 29 89 17 1 12 144 34 3 2 1 2 13 0 4 59 8 .240 .273 .388 .661
1974 130 541 501 54 124 12 0 14 178 55 9 3 3 6 29 1 2 68 22 .248 .291 .355 .647
1975 126 483 448 47 99 9 0 15 153 46 12 4 3 2 25 0 5 66 16 .221 .270 .342 .611
1976 125 393 359 35 87 9 2 6 118 39 7 3 7 2 23 0 2 48 11 .242 .292 .329 .620
1977 130 535 498 62 132 16 1 22 216 75 9 4 3 5 28 1 1 75 14 .265 .306 .434 .739
1978 130 463 419 41 100 8 4 9 143 47 8 6 3 8 32 0 1 70 10 .239 .294 .341 .636
1979 119 405 351 56 96 13 3 13 154 49 11 2 4 5 42 1 3 46 7 .274 .356 .439 .795
1980 115 446 401 71 109 13 1 30 214 80 6 2 3 4 38 2 0 52 7 .272 .335 .534 .869
1981 107 342 304 39 71 6 1 17 130 39 3 2 1 3 34 0 0 47 9 .234 .311 .428 .738
1982 123 500 430 69 119 18 2 22 207 85 9 5 1 5 62 1 2 62 11 .277 .370 .481 .852
1983 123 476 414 61 110 22 2 14 178 66 6 0 3 7 51 1 1 78 16 .266 .348 .430 .778
1984 115 444 393 55 107 13 1 16 170 50 8 4 4 2 42 0 3 42 7 .272 .347 .433 .780
1985 114 450 399 64 106 14 0 18 174 62 2 1 4 5 41 0 1 56 15 .266 .332 .436 .768
1986 90 213 192 30 42 9 0 8 75 34 3 0 1 2 15 0 3 31 4 .219 .283 .391 .674
1987 74 156 147 11 31 6 2 4 53 17 0 1 1 1 6 0 1 24 2 .211 .245 .361 .606
1988 72 165 156 17 42 9 0 4 63 17 1 0 0 1 8 1 0 21 6 .269 .303 .404 .707
1989 77 181 156 20 40 9 2 1 56 17 1 1 0 2 23 0 0 31 3 .256 .348 .359 .707
通算:17年 1874 6584 5939 761 1504 203 22 225 2426 812 98 40 42 62 512 8 29 876 168 .253 .313 .408 .721
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

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記録

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初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1980年6月12日、対西武ライオンズ前期11回戦(西武ライオンズ球場)、5回表に山下律夫から左越2ラン (注記)史上111人目
  • 1000試合出場:1981年5月2日、対西武ライオンズ前期4回戦(日生球場)、7番・三塁手として先発出場 (注記)史上221人目
  • 150本塁打:1982年8月15日、対日本ハムファイターズ後期8回戦(平和台球場)、4回裏に川原昭二から左中間へ2ラン (注記)史上68人目
  • 1000安打:1982年9月4日、対南海ホークス後期11回戦(大阪スタヂアム)、5回表に山内和宏から中前安打 (注記)史上126人目
  • 200本塁打:1985年8月23日、対阪急ブレーブス17回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に山沖之彦から2ラン (注記)史上47人目
  • 1500試合出場:1985年7月17日、対西武ライオンズ11回戦(西武ライオンズ球場)、3番・三塁手として先発出場 (注記)史上80人目
  • 1500安打:1989年8月5日、対西武ライオンズ15回戦(西武ライオンズ球場)、8回表に山根和夫から中前安打 (注記)史上57人目
その他の記録
  • 4打席連続本塁打:1974年4月29日(対阪急戦) - 5月1日(対太平洋戦)(注記)史上5人目、歴代2位タイ[17]
  • 4打数連続本塁打:同上 (注記)史上6人目、歴代2位タイ[17]
  • オールスターゲーム出場:3回(1974年、1982年、1983年) (注記)後の2回はファン投票選出

背番号

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  • 30(1972年 - 1974年)
  • 3(1975年 - 1989年)
  • 84(1990年 - 1999年)
  • 71(2000年、2004年)
  • この他、2005年〜2014年まで球団職員としてのイベント参加時にオリックスのユニフォームを着用した際の背番号は136 だが、正式登録ではない。

脚注

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注釈

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  1. ^ 梨田昌孝は著書でこの事件が「75年(昭和50)近鉄-阪急のプレーオフ第2戦」で起きたと記しているが[16] 、事件が報じられるまでの経緯をスポーツ紙面とも照らし合わせて記載した鎮勝也の著書の記述を本記事では採用する。

出典

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  1. ^ a b "生粋の阪神ファンが宿した"近鉄魂" 貫く愛...球団合併も「古巣はオリックスではありません」". Full-Count. 株式会社Creative2 (2025年9月4日). 2025年9月6日閲覧。
  2. ^ a b c "砂利で正座、入学前なのに...監督から「ピッチャーはクビ」 強豪校の厳しすぎた"指導"". Full-Count. 株式会社Creative2 (2025年9月5日). 2025年9月6日閲覧。
  3. ^ "阪神以外なら早大希望 ドラフト翌日に知ったパ4位指名「あぁ」も...説得に「仕方ない」". Full-Count. 株式会社Creative2 (2025年9月9日). 2025年9月23日閲覧。
  4. ^ "古い寮、狭い部屋...先輩に待たされた風呂 パ球団で驚いた"待遇"、1年目で実感したプロの壁". Full-Count. 株式会社Creative2 (2025年9月10日). 2025年9月23日閲覧。
  5. ^ "大記録目前も...先輩からの"圧力"で困惑「やっぱり駄目」 悔やんだ結末、届かなかったフルスイング". Full-Count. 株式会社Creative2 (2025年9月12日). 2025年9月23日閲覧。
  6. ^ "無理で壊れた体...言えなかった「痛い」の2文字 引退後の後悔「やめた方がよかった」". Full-Count. 株式会社Creative2 (2025年9月17日). 2025年9月23日閲覧。
  7. ^ "試合前に激痛「グチャって音がした」 負傷も治療せず...今も治らぬ古傷が秘めた"誇り"". Full-Count. 株式会社Creative2 (2025年9月18日). 2025年9月23日閲覧。
  8. ^ "土壇場で見失った"自分らしさ" 目の前で消えた優勝...屈辱の時間「ベンチに帰るのが嫌」". Full-Count. 株式会社Creative2 (2025年9月19日). 2025年9月23日閲覧。
  9. ^ "監督から「ホテルで会おうか」 提示された3択..."消えた"現役も、未練なく選んだ第2の道". Full-Count. 株式会社Creative2 (2025年9月22日). 2025年9月23日閲覧。
  10. ^ [1]オリックス球団ページ、2014年11月15日閲覧
  11. ^ 三田学園高野球部監督 OBで元近鉄の羽田耕一氏就任へ 神戸新聞、2014年12月22日閲覧
  12. ^ 森脇監督付に元阪神杉山直久氏 オリ人事 日刊スポーツ、2014年12月26日閲覧
  13. ^ a b 元近鉄・羽田耕一氏が三田学園監督就任
  14. ^ 報知高校野球2015年5月号136P
  15. ^ a b c d e f 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年、pp.143 - 146
  16. ^ 梨田昌孝『追憶の球団 近鉄バファローズ 猛牛伝説の真相』ベースボール・マガジン社、2014年、p.28
  17. ^ a b "【データ】村上宗隆プロ野球新5打席連続本塁打 20人「打数」と13人「打席」の両方を更新". 日刊スポーツ. (2022年8月2日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202208020001009_m.html 2023年1月13日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
指名選手

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