安満欽一
安満 欽一(やすみつ きんいち、1871年 4月2日(明治4年2月13日 [1] [2] ) - 1960年(昭和35年)10月24日 [1] [2] )は、日本の陸軍 軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集 ]佐賀県出身[1] [2] [3] 。安満伸愛陸軍少佐の長男として生れる[1] 。東京府立一中卒を経て、1895年(明治28年)2月、陸軍士官学校(6期)を卒業[1] [2] [3] 。同年5月、歩兵 少尉に任官し歩兵第3連隊付となる[1] [3] 。陸軍戸山学校教官などを経て、1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業し歩兵第3連隊中隊長に就任[1] [2] [3] 。
1903年(明治36年)11月、戸山学校教官となり、陸士教官を経て、1905年(明治38年)5月、歩兵少佐に昇進[1] 。1906年(明治39年)5月、第5師団 参謀に就任し、1910年(明治43年)11月、歩兵中佐に進級し歩兵第5連隊付となる[1] 。1912年(明治45年)3月、青森連隊区 司令官に就任し、1915年(大正4年)2月、歩兵大佐に昇進し歩兵第33連隊長に着任[1] [3] 。
1916年(大正5年)8月、近衛歩兵第2連隊長に転じ、第17師団 参謀長を経て[1] [3] 、1918年(大正7年)11月、陸軍少将に進級し陸士幹事兼生徒隊長に就任した[4] 。1920年(大正9年)8月、陸士本科長となり、朝鮮軍参謀長を経て、1923年(大正12年)8月、陸軍中将に進み航空部本部長に就任した[1] [2] [3] 。航空部が航空本部に改編昇格後も引き続き本部長を務め、1926年(大正15年)7月、第3師団長に親補された[1] [2] [3] 。1929年(昭和4年)8月に待命となり、同月予備役に編入[1] [2] [3] 。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5] 。
栄典
[編集 ]親族
[編集 ]- 父・安満伸愛(1895年没) - 元佐賀藩士。陸軍少佐。負傷し広島の病院に送られたのち拳銃自殺した[9] [10] 。
- 妻・なつ(1883年生) - 富岡敬明(知事、男爵)の娘[1] [11]
- 子息 安満謙一(陸軍大尉)[1]
- 姉の富子(1866-1901)は志田林三郎の妻。その長男・志田文雄(1886頃-1938)は日本電気社長[12] 。その妹・ヒデは渡辺廉吉の妻[13] 。
脚注
[編集 ]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、162頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』742頁。
- ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』118-119頁。
- ^ 『官報』第1875号、大正7年11月2日。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
- ^ 『官報』第3717号「叙任及辞令」1895年11月16日。
- ^ 『官報』第4341号「叙任及辞令」1897年12月18日。
- ^ 『官報』第842号「叙任及辞令」1929年10月19日。
- ^ 『国文学年次別論文集: 近代 - 第 1 巻』朋文出版, 1990, p38
- ^ 広島・昭和の事件史〜自殺広島スタイル〜時事・犯罪・事件・事故・問題
- ^ 富岡復起『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 東京の中の佐賀「青山霊園5」佐賀偉人伝、2013年07月11日
- ^ 渡辺廉吉『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]