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太安万侶

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太 安万侶
太安万侶(菊池容斎画『前賢故実』)
時代 飛鳥時代奈良時代
生誕 不明
死没 養老7年7月6日(723年 8月11日)
別名 安麻呂
墓所 奈良県 奈良市此瀬町の太安萬侶墓
官位 従四位下 民部卿 従三位
勲五等
主君 文武天皇元明天皇元正天皇
氏族 太朝臣
父母 父:多品治?
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太 安万侶(おお の やすまろ、旧字体: 太 安萬侶)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本貴族。名は安麻呂[注釈 1] とも記される。朝臣官位従四位下民部卿 従三位。『古事記』の撰者として知られる。

経歴

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『和州五郡神社神名帳大略註解』巻4補闕に所収されている、久安5年(1149年)謹上の「多神宮 注進状」によれば、小錦下多品治の子とされる[1] [2] 文武朝大宝4年(704年)正月、正六位下から二階昇進して従五位下叙爵する[3] [注釈 2]

和銅4年(711年)4月に正五位上に昇進する[4] 。同年9月に元明天皇から稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられ、翌和銅5年(712年)1月に『古事記』として天皇に献上した[5] 。元明朝末の和銅8年(715年)従四位下に至る[6] [注釈 3]

元正朝霊亀2年(716年)、太氏(多氏)の氏長となる[7] 。一族の末裔とみられる多人長(おおの ひとなが)は、安万侶は養老4年(720年)に完成した『日本書紀』の編纂にも加わったと主張している[8] 。元正朝末の養老7年(723年)7月6日卒去。最終官位民部卿従四位下[9] 。遺骨などの調査により享年は60才程度と推定されている。

明治44年(1911年)3月13日、古事記撰上千二百年に際して、特旨を以て位階 追陞され、従三位に叙されている[10]

勲等を持つことの考察

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和銅5年(712年)に書かれた『古事記』の序には安万侶が勲五等の勲等を得ていることが記されている(墓誌にも同様の記述がある)。勲等は武官としての功績で得たと考えられることから、安万侶を単なる文官として位置づけることには問題があるとして、以下の考察がある。

  • 和銅2年(709年)に行われた蝦夷征討副将軍格で参加したとの推測。神亀元年(724年)の蝦夷征討で副将軍を務めた大野東人は勲四等の勲等を得て従五位上から従四位下に昇叙されていることも参考になる(黛弘道)[11]
  • 多氏の一族で安万侶のみ四位に昇っていることに着目し、多氏は五位までの昇進に留まる家柄であったが、安万侶はその戦功によって例外的に四位まで昇った(鷺森浩幸)[12]

太安萬侶墓

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太安萬侶墓誌・真珠
(国宝)
墓誌は銅板製。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

1979年(昭和54年)1月22日、奈良県 奈良市此瀬町字トンボ山の茶畑で、土地所有者の竹西英夫がチャノキの改植作業中に安万侶の(北緯34度39分55.4秒 東経135度54分26.0秒 / 北緯34.665389度 東経135.907222度 / 34.665389; 135.907222 )と墓誌を発見した[13] [14] 奈良県教育委員会文化財保存課から連絡を受けた奈良県立橿原考古学研究所は翌1月23日に遺骨銅板墓誌が出土したと発表し、文化庁東京国立文化財研究所奈良国立文化財研究所、奈良市教育委員会の指導・協力を受けて、同年1月25日から3月31日まで国庫 補助事業として橿原考古学研究所が発掘調査を行い[15] 火葬された真珠が納められた木炭槨と木櫃を発見した[16]

墓誌は長辺291 mm、短辺61 mm、重量76.52グラムの純銅に近い銅板で、厚さは右側辺で約1 mm、左側辺で約0.5 mm[17] 。墓誌の銘文は2行41字で、右側に22字、左側に19字が刻まれている[18] 。(平城京の)左京四条四坊[注釈 4] に居住したこと、位階勲等は従四位下勲五等だったこと、癸亥年(養老7年)7月6日に歿したことなどが記載されている。墓誌銘全文引用は以下の通り。

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

墓は「太安萬侶墓」として1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定された[19] [20] 。また墓誌は、1981年(昭和56年)6月9日に真珠4顆を附とする「太安萬侶墓誌」として重要文化財(美術工芸品)に指定され[21] [22] [23] [24] 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で常設展示されている[25] 2025年(令和7年)9月26日には、木櫃残欠を附に追加したうえで「太安萬侶銅板墓誌」として国宝に指定されている[26] [27]

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による[注釈 5]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など。
  2. ^ 『続日本紀』では立年改元に基づき大宝4年ではなく慶雲元年と記す。
  3. ^ 『続日本紀』では立年改元に基づき和銅8年ではなく霊亀元年と記す。
  4. ^ 現在の奈良駅西側付近。
  5. ^ 『続日本紀』では日付干支で記載されている。
  6. ^ 『続日本紀』では秋七月庚午(7月7日)とする。

出典

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  1. ^ 國學院大學氏族データーベース「意富臣
  2. ^ 谷川健一、池田末則、宮田登 編『日本庶民生活史料集成 第26巻 神社縁起』三一書房、1983年3月。doi:10.11501/9546246 
  3. ^ 『続日本紀』巻三 慶雲元年正月癸巳(7日)条
  4. ^ 『続日本紀』巻五 和銅四年四月壬午(7日)条
  5. ^ a b 『古事記』序
  6. ^ 『続日本紀』巻六 霊亀元年正月癸巳(10日)条
  7. ^ 『続日本紀』巻七 霊亀二年九月乙未(23日)条
  8. ^ 『弘仁私記』序
  9. ^ 『続日本紀』巻九 養老七年七月庚午(7日)条「秋七月庚午民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒」
  10. ^ a b 「敍任及辭令」『官報』第8315号、1911年3月14日、338-340頁、doi:10.11501/2951670 
  11. ^ 黛弘道「太安万侶の墓誌と『続日本紀』」『物部・蘇我氏と古代王権』、吉川弘文館、1995年9月、ISBN 4-642-07471-6 
  12. ^ 鷺森浩幸「内外階制と貴族」『天皇と貴族の古代政治史』、塙書房、2018年2月、ISBN 978-4-8273-1295-9 
  13. ^ 【THE古墳】大地に向けられた墓誌 太安萬侶埋葬の証しか」『産経新聞産業経済新聞社、2022年7月27日。(要無料登録要登録)
  14. ^ 奈良県立橿原考古学研究所 1981, p. 7.
  15. ^ 奈良県立橿原考古学研究所 1981, 例言.
  16. ^ 奈良県立橿原考古学研究所 1981, pp. 43–47.
  17. ^ 奈良県立橿原考古学研究所 1981, p. 48.
  18. ^ 奈良県立橿原考古学研究所 1981, p. 49.
  19. ^ 太安萬侶墓 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
  20. ^ 「文部省告示第18号」『官報』本紙第15922号、1980年2月19日、4頁。 
  21. ^ a b 太安萬侶墓誌/癸亥年七月六日在銘/奈良県奈良市此瀬町出土 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
  22. ^ 太安萬侶墓誌/癸亥年七月六日在銘/奈良県奈良市此瀬町出土 - 文化遺産オンライン(文化庁)
  23. ^ 太安萬侶墓誌 - 文化遺産オンライン(文化庁)
  24. ^ 「文部省告示第114号」『官報』号外第47号、1981年6月9日、43頁。 
  25. ^ "大和の遺跡/飛鳥・奈良時代/太安萬侶墓". 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館. 2025年9月8日閲覧。
  26. ^ 文化審議会の答申(国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定等)』(プレスリリース)文化庁、2025年3月21日https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/94188001.html  
  27. ^ 令和7年9月26日文部科学省告示第117号。
  28. ^ 〔太安万侶追陞ノ件〕、諸雑公文書(請求番号:本館-4E-018-00・雑02478100)、国立公文書館

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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