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利用者:Sei2020/sandbox

 
四条 隆忠/四条 隆致/櫛笥 隆致
時代 戦国時代-江戸時代初期
生誕 天正10年12月5日(1582年)
死没 慶長18年7月6日(1613年 8月21日)
改名 隆忠→隆致→久伯(法名)
戒名 妙光院江月久伯
官位 従四位上左近衛中将、贈左大臣
主君 正親町天皇後陽成天皇後水尾天皇
氏族 正親町三条家四条家(櫛笥家)
父母 父:松陰居士(正親町三条公兄の子)、母:三条西実枝の娘
養父:四条隆憲
兄弟 隆憲隆致
養兄弟:元教
隆朝 園池宗朝隆子山内忠義室、中和門院中将、貝姫?
特記
事項
後西天皇外祖父
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櫛笥 隆致/四条 隆致(くしげ たかちか/しじょう たかちか)は、戦国時代公卿内大臣正親町三条公兄の孫。松陰居士の子。官位従四位上左近衛中将 従一位左大臣櫛笥家2代[注釈 1] 。一時期四条家を継いだため四条 隆忠(しじょう たかただ)とする場合もあるが、四条家当主には数えられない(後述)。後西天皇 外祖父

生涯

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天正10年(1582年)誕生。当初の名は隆忠(たかただ)。同母兄・隆憲の養子となり、天正19年(1591年)の隆憲の死を受けて四条家を継ぐ。

慶長6年(1601年)出奔していた隆昌徳川家康の奏請により釈免され四条家に復帰する。隆忠は別家を立て、翌慶長7年(1602年)隆致(たかちか)と改名する。その後は従四位上左近衛中将まで昇進し、慶長18年(1613年)薨去、享年32。戒名妙光院江月久伯[1]

後西天皇の外祖父であるため、寛文7年(1667年)従一位左大臣追贈された。

櫛笥家当主

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四条家は天正8年(1580年)に当主・隆昌が出奔してから隆憲(隆致の同母兄)が養子入りして当主になった。隆憲死後、隆致が跡を継ぐが、慶長6年(1601年)隆昌は徳川家康の奏請により勅免されて四条家に復帰する。隆昌の死後は隆術(隆昌の実子)が当主となった。

隆昌の当主復帰により、隆致は別家を立てた。これがのちの櫛笥家 である。隆憲・隆致兄弟の家督継承は中継ぎとみなされたのか、2人は四条家当主ではなく櫛笥家当主に数えられる[2] [3] [4] 。通常、櫛笥家祖は隆憲とされるが、隆致を家祖とする場合もある[5]

なお、櫛笥を家名とするのは隆致の子・隆朝の時からである[1] ため、隆致の家名は別家を立てた後も四条である。櫛笥隆致と表記するのは全く誤りとはいえないものの課題が残る。

官歴

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『諸家伝』による

系譜

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参考文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ 隆致を家祖とする場合もある。

出典

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  1. ^ a b 近藤 1994, p. 441.
  2. ^ 太田 1941, p. 178.
  3. ^ 坂本 1944, p. 122.
  4. ^ 川那辺 1941, p. 64.
  5. ^ 日本姓氏家系総覧 1991, p. 352.

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