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伊号第二十一潜水艦

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曖昧さ回避 この項目では、1941年竣工の潜水艦について説明しています。1927年竣工の初代伊号第二十一潜水艦については「伊号第百二十一潜水艦」をご覧ください。
伊号第二十一潜水艦
基本情報
建造所 川崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 一等潜水艦
級名 伊十五型潜水艦
建造費 13,062,460円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 第三次海軍軍備補充計画(3計画)
起工 1939年 1月7日
進水 1940年 2月24日
竣工 1941年 7月15日
最期 1944年 2月4日戦没
除籍 1944年4月30日
要目
基準排水量 2,198トン
常備排水量 2,584トン[1]
水中排水量 3,654トン
全長 108.7m
最大幅 9.30m
吃水 5.14m
機関 艦本式2号10型ディーゼルx2基
出力 水上:12,400馬力
水中:2,000馬力
推進 2軸
速力 水上:23.6kt
水中:8.0kt
燃料 重油:774トン[注釈 1]
航続距離 水上:16ktで14,000海里
水中:3ktで96海里
潜航深度 安全潜航深度:100m
乗員 94名[2]
兵装 40口径十一年式14cm単装砲x1門
九六式25mm連装機銃x1基2挺
九五式53cm魚雷発射管x6門(艦首6門)/九五式魚雷x17本
搭載機 零式小型水上偵察機x1機
呉式1号4型射出機x1基
ソナー 九三式探信儀x1基
九三式水中聴音機x1基
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伊号第二十一潜水艦(いごうだいにじゅういちせんすいかん、旧字体:伊號第二十一潜水艦)は、大日本帝国海軍伊十五型潜水艦(巡潜乙型)の4番艦。

艦歴

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1937年(昭和12年)の第三次海軍補充計画(3計画)によって計画され、1939年(昭和14年)1月7日に川崎重工業 神戸造船所にて起工。1940年(昭和15年)2月24日に進水し、1941年(昭和16年)7月15日に竣工した。竣工と同時に横須賀鎮守府籍となり、伊22と共に第六艦隊第1潜水戦隊第3潜水隊を編成。これは、呂1型海中1型海中2型からなる先代の第3潜水隊が、所属艦の除籍により1932年(昭和7年)4月1日に解隊されて以来、5代目となる。

太平洋戦争開戦時は第六艦隊第1潜水戦隊第3潜水隊に所属。20日、伊21は横須賀を出港し、23日1330に単冠湾に到着。26日、第一航空艦隊と共に単冠湾を出港し、ハワイへ向かった。8日、真珠湾攻撃を行う艦隊から別れ、オアフ島北方沖に移動し哨戒。9日、伊6オアフ島沖を東北東へ向け航行中のレキシントン級空母1、巡洋艦2隻を発見したため、迎撃に向かった。11日、米空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)を発見して攻撃準備をしながら追跡中、機関故障と電気部分の故障により失敗。その後何回かSBD ドーントレスを発見したためその都度潜航して退避した。13日には空襲を受けるが、至近に着弾した爆弾が不発だったため被害はなかった。14日、アメリカ西海岸沿岸における通商破壊作戦に参加し、アルグエロ岬沖に進出。23日、北緯35度35分 西経121度16分 / 北緯35.583度 西経121.267度 / 35.583; -121.267 のピエドラス ブランカス灯台南方4浬地点付近でポート・サン・ルイスからバンクーバーに向かっていた米ユニオン・オイル社タンカーモンテベロ(Montebello、8,272トン)を発見し、2000mの距離から魚雷2本を発射。2本とも命中(1本は不発)したモンテベロは放棄され、伊21は砲撃を行った。1時間後、モンテベロは沈没した。午後、北緯35度00分 西経121度00分 / 北緯35.000度 西経121.000度 / 35.000; -121.000 のエステロ湾近海で米タンカーアイダホ(Idaho、6,418トン)を砲撃により撃破した。24日0800、潜航中に爆雷攻撃を受ける。伊21では哨戒艇によるものと判断していたが、実際は米PBY カタリナによるものだった。爆雷2発が至近で爆発したため、横舵が破損したほか、照明全てが割れて艦内は真っ暗となった。その後浮上砲戦をしようとしたが、直前に予備照明の点灯と操舵機の復旧ができた。1942年(昭和17年)1月11日、クェゼリンに到着。23日、クェゼリンを出港し、2月1日に横須賀に到着した。3月10日、第3潜水隊は第8潜水戦隊所属となり、瀬戸内海で訓練に従事。

16日、伊21はを出港。18日、ドーリットル空襲が起こったため米機動部隊の捜索を行うが、見つけることはできなかった。その後トラックに到着。27日、トラックを出港しヌーメアに向かった。5月2日、浮上航走中に米空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)から発進したドーントレスに発見される。ドーントレスはヨークタウンに戻って通信筒で報告。報告を受け、爆雷2発を搭載したTBD デバステーター3機が発進。その後、伊21は接近するデバステーターを発見して急速潜航した。1時間後、再度浮上したところ、後部甲板に多数の爆弾の破片があるのがわかった。5日、ヌーメア近海でドラム缶入りのガソリン2000トンを輸送中の米リバティ船 ジョン・アダムス(John Adams、7,176トン)を発見。2時間の追跡の後、南緯23度11分 東経165度08分 / 南緯23.183度 東経165.133度 / -23.183; 165.133 の地点で魚雷2本を発射。魚雷はジョン・アダムスに2本とも命中し、同船を撃沈した。ジョン・アダムスは太平洋戦争で撃沈された最初のリバティ船だった。7日0630、南緯22度59分 東経166度29分 / 南緯22.983度 東経166.483度 / -22.983; 166.483 のヌーメア西方20浬地点付近でギリシャ貨物船クロエ(Chloe、4,641トン)の推進器音を聴取したため魚雷2本を発射したが、どちらも早爆した。その後浮上し、主砲弾70発を発射してクロエを撃沈した。撃沈後、救命艇に横付けして食糧を提供し、ヌーメアへ向かうよう指示した。8日、大型輸送船を発見して雷撃するも命中せず、浮上して砲撃を行ったが、その最中に哨戒機を発見して潜航退避した。哨戒機は爆雷6発を投下してきたが、伊21に損害はなかった。14日、哨戒区域を離れる。19日早朝、スバを飛行偵察し、グラスゴー級軽巡洋艦1、潜水艦7の在泊を報告。24日早朝、オークランドを飛行偵察したが、スコールにより失敗。このとき、オークランドの飛行場上空を搭載機が飛行中、味方機と思われたらしく飛行場の着陸灯が点灯したという。29日、特殊潜航艇によるシドニー港攻撃に参加。シドニー北東35浬地点付近に進出し、シドニーを航空偵察。この際、搭載機はサーチライトに捉えられたが、脱出に成功。0420、停泊中の米重巡シカゴ(USS Chicago, CA-29)を発見し、戦艦と判断した。また、蘭病院船 オランジェ (英語版)を発見している。搭載機は当初米軍機と思われていた。その後オーストラリア空軍の戦闘機が迎撃に向かったが、見つかることはなかった。着水時、搭載機が転覆したため、伊21は搭乗員を救助した後搭載機を処分した。31日に攻撃が行われ、伊21は甲標的の帰還を6月3日まで待った。8日0215、ニューキャッスルの造船所へ向け砲撃を開始。13分後、反撃の砲弾4発を発射されるが、その後も3分間砲撃を行い、主砲弾34発を発射。その後、メルボルンへ向かう輸送船団を発見するも、攻撃に失敗。11日、レーダーを装備した駆逐艦の追跡を受けるが、振り切ることに成功。12日0114、シドニー沖40浬地点付近でニューキャッスルからワイアラへ向かう輸送船8隻からなる輸送船団を発見し、浮上したまま船団内の輸送船2隻へ向け魚雷4本を発射。4200トンのコークスを輸送中のパナマ貨物船グアテマラ(Guatemala、5,527トン)に命中し、グアテマラは1時間後に沈没した。25日、クェゼリンに到着。その後クェゼリンを出港し、7月12日に横須賀に到着して整備を受ける。

8月23日、伊21は横須賀を出港し、ソロモン諸島東方沖に進出。31日0800、エスピリトゥサント島北西沖で哨戒中、西方での爆雷攻撃の音を聴取。これは、米駆逐艦フェルプス (英語版)(USS Phelps, DD-360)とマクドノー(USS Macdonough, DD-351)が、米空母サラトガ(USS Saratoga, CV-3)を撃破した伊26を攻撃する音だった。9月13日、横浜海軍航空隊所属の二式飛行艇が、ツラギ南南東345浬地点付近で米機動部隊を発見したため、迎撃に向かった。10月2日、エスピリトゥサント島を飛行偵察。10月7日、トラック近海で浮上航走中、4000mの距離で米潜水艦アルバコア(USS Albacore, SS-218)の潜望鏡を発見したため、アルバコアの方向へ艦首を向けたが、潜望鏡は見えなくなった。8日、トラックに到着。

その後、伊21はトラックを出港し、ソロモン諸島方面へ向かった。27日0638、南緯15度30分 東経160度42分 / 南緯15.500度 東経160.700度 / -15.500; 160.700 のインディスペンサブル礁南方150浬地点付近でコロラド級戦艦を発見。2秒間隔で魚雷を一斉発射し、1回の爆発音を聴取。魚雷1本は命中せず、1本は米戦艦ワシントン(USS Washington, BB-56)の後方で爆発した。その後護衛の駆逐艦の爆雷攻撃を受け、魚雷発射管3本が故障したため、装填された魚雷は艦内へ収容された。伊21は水深70mの位置へ移動し、2ノットの速力で離脱した。11月9日1747、ヌーメア近海で米リバティ船エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、7,176トン)を発見し、魚雷1本を発射。魚雷は命中し、エドガー・アラン・ポーは放棄された。伊21は浮上して接近したが、エドガー・アラン・ポーからの砲撃を受けて潜航退避した。その後エドガー・アラン・ポーはヌーメアに曳航され、同地で全損と判断された。その後、トラックに戻った。15日、第3潜水隊の解隊に伴い、第1潜水隊に編入。

21日、伊21はトラックを出港し、ショートランドへ移動。24日、魚雷2本を除いた全ての魚雷を陸揚げし、ゴム袋入りの食糧と便乗者20名を乗せてショートランドを出港。26日、カミンボに到着して輸送物資と便乗者を降ろした後、傷病兵44名を収容して出港し、ラバウルに移動した。傷病兵を降ろして魚雷を再度搭載した後の1943年(昭和18年)1月7日、ラバウルを出港してオーストラリア方面に向かった。15日、哨戒区域に到着。18日、南緯34度07分 東経153度15分 / 南緯34.117度 東経153.250度 / -34.117; 153.250 の地点で、単独でシドニーからニュープリマスへ向かっていた豪貨物船カリンゴ(Kalingo、2,047トン)を発見し、魚雷2本を発射。その後浮上して砲撃を行った。損傷したカリンゴは放棄され、伊21はとどめの魚雷1本を発射してカリンゴを撃沈した。2150、南緯34度07分 東経153度15分 / 南緯34.117度 東経153.250度 / -34.117; 153.250 の地点で、護衛を受けて航行中の米タンカーモービルーブ(Mobilube、10,222トン)を発見し、魚雷2本を発射。うち1本がモービルーブの機関室に命中し、モービルーブは航行不能となった。伊21は浮上して接近するが、小型の護衛艦の砲撃を受けて急速潜航した。その後、爆雷6発を投下されたが被害はなかった。モービループは近くの港に曳航されていった[注釈 2] 。22日、羊毛18154梱、郵便物123袋を積んでニューキャッスルを出港して航行中の米リバティ船ピーター・H・バーネット(Peter H. Burnett、7,176トン)を発見して魚雷2本を発射。1分38秒後、爆発音1回を聴取した。損傷したピーター・H・バーネットはシドニーへ曳航され、修理と改装を受けて米非分類雑役船ピーター・H・バーネット(USS Peter H. Burnett, IX-104)となった。25日、シドニーを飛行偵察し、重巡1、小型船10の在泊を報告。27日、輸送船3隻からなる輸送船団を発見したが、攻撃できなかった。30日、英領シンガポール船籍の貨物船ザン・アン(Giang Ann、1,063トン)を発見して雷撃するも、魚雷は早爆した。2月4日、輸送船4隻からなる輸送船団を発見したが、攻撃できなかった。8日、ニューサウスウェールズ州モンタギュー島沖15浬地点付近で、ワイアラからニューキャッスルへ向かう輸送船10隻からなるOC68船団を発見。鉄鉱石を積んで船団右列先頭を航行する英貨物船アイアン・ナイト (Iron Knight、4,812トン)へ向け魚雷を発射。魚雷はアイアン・ナイトの船橋下に命中し、同船は2分で沈没した。9日、軍需物資7000トンを積んでシドニーからニューカレドニアへ向かっていた米リバティ船スター・キング(Starr King、7,176トン)を発見し、追尾開始。翌10日、南緯34度15分 東経154度20分 / 南緯34.250度 東経154.333度 / -34.250; 154.333 のポート・マッコーリー近海でスター・キングへ向け魚雷4本を発射。うち2本が命中したスター・キングは沈没した。19日、海岸線を飛行偵察し、写真撮影をした。このとき、搭載機はレーダー探知されたが、攻撃されることはなかった。23日、トラックに到着。その後トラックを出港し、3月3日に横須賀に到着して整備を受ける。

5月6日、伊21は横須賀を出港。19日、第1期キスカ島撤退作戦に参加するため反転し、横須賀に戻った。21日、横須賀を出港し、幌筵に移動。第1期キスカ島撤退作戦では輸送任務を2回行った。18日、横須賀に移動してソナーの修理と逆探の装備が行われた後再度幌筵に移動し、輸送任務に従事。8月9日、横須賀に移動。

9月11日、伊21は横須賀を出港し、トラックに移動。25日、トラックを出港し、フィジー諸島南方沖に進出。10月8日夜、スバを飛行偵察。16日、ニューヘブリディーズ諸島近海で輸送船を発見し雷撃するも、命中しなかった。11日、南緯22度08分 東経178度06分 / 南緯22.133度 東経178.100度 / -22.133; 178.100 の地点で輸送船団を発見して魚雷を発射。魚雷は米軍兵士1348名を乗せてタウンズビルに向かっていた米貨客船ケープ・サン・フアン(Cape San Juan、6,711トン)に命中し、同船は後に沈没した。19日、ギルバート諸島に米軍が来襲したため迎撃に向かう。27日1808、タラワ北西沖で、タラワ南西30浬地点付近で、複数の米艦船を発見したとの報告を最期に消息不明。

アメリカ側の記録によると、29日2157、タラワ近海で米護衛空母シェナンゴ(USS Chenango, CVE-28)から発進したTBF アベンジャーが潜水艦を発見し、これを撃沈した。これが伊21の最期の瞬間であり、艦長の稲田洋中佐以下乗員101名全員戦死。

12月24日、ギルバート諸島方面で亡失と認定され、1944年(昭和19年)4月30日に除籍された。

撃沈隻数は9隻、計53,538トンにのぼり、撃沈隻数、トン数ともに帝国海軍潜水艦の中では第4位を誇る。また、商船3隻、計23,816トンに損傷を与えた。

歴代艦長

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(注記)『艦長たちの軍艦史』404頁による。

艤装員長

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  • 入江達 中佐:1941年1月31日 - 1941年7月15日[3]

艦長

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  • 入江達 中佐:1941年7月15日 - 1941年10月31日[4]
  • 松村寛治 中佐:1941年10月31日 - 1942年3月16日
  • 稲田洋 中佐:1943年3月16日 - 1943年11月29日戦死

脚注

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注釈

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  1. ^ 燃料搭載量は『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』より。752.6トンとする資料もある。
  2. ^ その後、機関部の損傷が著しかったモービルーブは戦争の残りの期間を非曳航式油タンクとして過ごし、1947年に修理された。

出典

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  1. ^ 常備排水量は2,589トンとする資料もある。
  2. ^ 『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』
  3. ^ 海軍辞令公報(部内限)第673号 昭和16年7月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600 
  4. ^ 海軍辞令公報(部内限)第737号 昭和16年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082900 

参考文献

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関連項目

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