ヨハネス17世 (ローマ教皇)
- Afrikaans
- Alemannisch
- العربية
- مصرى
- Bikol Central
- Беларуская
- Беларуская (тарашкевіца)
- Български
- Brezhoneg
- Català
- 閩東語 / Mìng-dĕ̤ng-ngṳ̄
- Čeština
- Deutsch
- Zazaki
- Ελληνικά
- English
- Español
- Eesti
- Euskara
- فارسی
- Suomi
- Français
- Gaeilge
- Galego
- 客家語 / Hak-kâ-ngî
- עברית
- Hrvatski
- Magyar
- Bahasa Indonesia
- Ilokano
- Ido
- Italiano
- Jawa
- ქართული
- 한국어
- Latina
- Lietuvių
- Македонски
- Bahasa Melayu
- مازِرونی
- Nederlands
- Norsk bokmål
- Occitan
- Polski
- Português
- Runa Simi
- Română
- Русский
- Sicilianu
- Srpskohrvatski / српскохрватски
- Slovenčina
- Slovenščina
- Shqip
- Српски / srpski
- Svenska
- Kiswahili
- Tagalog
- Türkçe
- Українська
- اردو
- Tiếng Việt
- Winaray
- 吴语
- Yorùbá
- 中文
- 閩南語 / Bân-lâm-gí
- 粵語
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| ヨハネス17世 | |
|---|---|
| 第140代 ローマ教皇 | |
| 教皇就任 | 1003年6月13日 |
| 教皇離任 | 1003年11月6日 |
| 先代 | シルウェステル2世 |
| 次代 | ヨハネス18世 |
| 個人情報 | |
| 出生 |
不明 教皇領、ローマ |
| 死去 |
1003年11月6日 教皇領、ローマ |
| その他のヨハネス | |
| テンプレートを表示 | |
ヨハネス17世(Ioannes XVII、? - 1003年 11月6日)は、ローマ教皇(在位:1003年 6月13日 - 1003年 11月6日)。本名はジョバンニ・シッコ(Giovanni Sicco)。ローマ出身。
神聖ローマ皇帝 オットー3世を追放したのちローマの実権を掌握したローマ貴族ヨハネス・クレッシェンティウス(クレッシェンティウス2世の息子)の指名を受け、シルウェステル2世の後を継いで教皇に就任した。就任からわずか5か月で死去する。聖職に叙階される前の時点で結婚しており、息子のうち3人は司教に就任している。
→「教皇ヨハネスの代数」も参照
「ヨハネス(ヨハネ)」の名を冠した正統な教皇は、17世の前は15世(在位:985年 - 996年)である。一般的に16世(在位:997年-998年)は対立教皇とされており、17世は本来ならば「16世」とすべきところであるが、それは修正されていない。また、14世と15世の間にもう一人の「教皇ヨハネス」がいたという説があり、その伝説の教皇を「16世」とすることがあったことからも、16番目の「教皇ヨハネス」は「ヨハネス17世」を称することとなった。ヨハネス17世自身は自ら17世を称していたことから当時の認識も17番目であったことが窺える。一部の歴史学者によると、しばしばヨハネス17世は「18世」とされたり、「17世(18世)」と併記されたりしたという。
ヨハネス17世からはじまる「教皇ヨハネス」の番号の混乱はその後も続き、20世が存在しなかったにもかかわらず、そののち21世(在位:1276年 - 1277年)・22世(在位:1316年 - 1334年)・23世(在位:1958年 - 1963年)と数えられ現在に至っている。
| 古代 |
|
|---|---|
| 中世 |
|
| 近世 |
|
| 近代 | |
| 現代 | |