ウィーン会議
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ウィーン会議(ウィーンかいぎ、ドイツ語: Wiener Kongress、フランス語: Congrès de Vienne、英語: Congress of Vienna)は、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議。
オーストリアの外相クレメンス・フォン・メッテルニヒが議長を務め、ヨーロッパ諸国の代表が集った。会場はシェーンブルン宮殿。
概要
[編集 ]ウィーン会議は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、オスマン帝国を除く全ヨーロッパ各国代表が集まり、1814年9月1日から開催された。
会議を主導したのは議長国オーストリアのほか、イギリス、プロイセン、ロシアである。中でも議長メッテルニヒとイギリス代表カースルレー子爵が中心的な役割を果たした。この会議には、ナポレオン戦争に敗れたフランスも招待されており、その代表タレーランも会議において活躍した[1] 。
1792年以前の状態に戻す正統主義を原則としたが、各国の利害が衝突して数か月を経ても遅々として進捗せず、「会議は踊る、されど進まず」と評された[注釈 1] [2] 。しかし、1815年3月にナポレオン・ボナパルトがエルバ島を脱出したとの報が入ると、危機感を抱いた各国の間で妥協が成立し、1815年6月9日にウィーン議定書が締結された。このウィーン議定書により出現したヨーロッパにおける国際秩序は「ウィーン体制」とよばれる。
基本原則
[編集 ]大国による「勢力均衡」と「正統主義」がウィーン会議の基本原則であった。正統主義とは、フランス革命・ナポレオン戦争によって混乱したヨーロッパにおいて、それ以前の「正統な」統治者を復位させ、旧体制を復活させることを目指した理念である。この理念は、フランス代表タレーランによって主張され、国内に多くの民族を抱えるオーストリア帝国の外相メッテルニヒが支持した[1] 。
しかし、ウィーン会議ではフランス革命以前の体制の完全な復活ではなく、大国による「勢力均衡」を踏まえた形での正統主義の実現が目指された。例えば、革命によって神聖ローマ帝国が解体しナポレオンが整理・統合したドイツ諸国は、オーストリアとプロイセンの二大国を中心としたドイツ連邦として再出発することとなった。
これによって勢力均衡を維持し回復する力を有した大国同士が相互に均衡を維持し合う国際秩序(ウィーン体制)が構築され、ヨーロッパにはおよそ30年間の平和がもたらされた。
会議は各国の国益が複雑に衝突したため当初難航した。交渉の過程でロシア帝国とプロイセン王国はそれぞれポーランドとザクセンへの進出を企図したが、これをヨーロッパの勢力均衡に対する重大な脅威とみたイギリス(カースルレー)、フランス王国(タレーラン)、オーストリア帝国(メッテルニヒ)は1815年1月にウィーン秘密協定 (英語版)に合意し軍事的優位に立つことで、両国の譲歩を引き出した。
主な各国代表
[編集 ]- グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー
- ポルトガル 第7代オリオラ伯爵ジョアキン・ロボ・ダ・シルヴェイラ
- ポルトガル ポルト・サント伯爵アントニオ・デ・サルダーニャ・ダ・ガマ
- スウェーデン カール・レーヴェンイェルム伯爵 (英語版)
- フランス復古王政 第5代ノアイユ公爵ジャン=ルイ=ポール=フランソワ (英語版)
- オーストリア帝国 クレメンス・ヴェンツェル・フォン・メッテルニヒ
- フランス復古王政 アンドレ・デュパン (英語版)
- ロシア帝国 カール・ロベルト・ネッセルローデ伯爵
- ポルトガル 初代パルメラ公爵ペドロ・デ・ソウザ・ホルステイン
- グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 カースルレー子爵ロバート・ステュアート
- フランス復古王政 ダールベルク公爵エメリッヒ・ヨーゼフ・フォン・ダールベルク
- オーストリア帝国 ヨハン・フォン・ヴェッセンベルク=アンプリンゲン男爵 (英語版)
- ロシア帝国 アンドレイ・キリロヴィチ・ラズモフスキー公爵
- グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 初代ステュアート男爵チャールズ・ステュアート
- スペイン ラブラドール侯爵ペドロ・ゴメス・ラブラドール (英語版)
- グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 第2代クランカーティ伯爵リチャード・ル・プア・トレンチ (英語版)
- ニコラウス・フォン・ヴァッケン (ドイツ語版)(記録官)
- オーストリア帝国 フリードリヒ・フォン・ゲンツ (英語版)(会議秘書官)
- プロイセン王国 ヴィルヘルム・フォン・フンボルト男爵
- グレートブリテンおよびアイルランド連合王国 初代カスカート伯爵ウィリアム・カスカート (英語版)
- プロイセン王国 カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク
- フランス復古王政 シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
- ロシア帝国 グスタフ・エルンスト・フォン・シュタッケルベルク伯爵 (英語版)
- オーストリア帝国
- 君主:皇帝フランツ1世
- 全権:外相メッテルニヒ公爵クレメンス・ヴェンツェル・ロタール
- ロシア帝国
- 君主:皇帝アレクサンドル1世
- 首席全権:国務長官ネッセルローデ伯爵カール・ロベルト
- プロイセン王国
- 君主:国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
- 首席全権:宰相ハルデンベルク侯爵カール・アウグスト
- グレートブリテン及びアイルランド連合王国
- 首席全権:外相カースルレー子爵ロバート・ステュアート
- 首席全権代理:駐仏公使 初代ウェリントン公爵 アーサー・ウェルズリー(内閣改造によりカースルレー子爵が会議途中で本国へ帰国したため)
- 首席全権代理:駐蘭公使第2代クランカーティ伯爵リチャード・トレンチ (en) (ナポレオンの百日天下を撃滅すべくウェリントン公爵が南ネーデルラントへ出陣したため)
- フランス王国
- 首席全権:首相ベネヴァント公爵シャルル・モーリス・タレイラン
- ローマ教皇領
- 首席全権:国務長官枢機卿 エルコール・コンサルヴィ
議定内容
[編集 ]下記にウィーン議定書の内容を示す。
| 参加国 | 議定内容 |
|---|---|
| オーストリア帝国(神聖同盟の原加盟国、四国同盟の原加盟国) | |
| ロシア帝国(神聖同盟の原加盟国、四国同盟の原加盟国) | |
| プロイセン王国(神聖同盟の原加盟国、四国同盟の原加盟国) | |
| イギリス連合王国(四国同盟の原加盟国) | |
| フランス王国 | |
| オランダ(ネーデルラント) |
|
| スウェーデン王国 |
|
| サルデーニャ王国 |
|
| ナポリ王国 |
|
| スペイン王国 |
|
| スイス連邦 |
脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]- ^ リーニュ侯爵シャルル・ジョゼフの言葉「会議は舞踏会ばかりで、先には進まない」(Le congrès danse beaucoup, mais il ne marche pas)。舞踏では一般にステップを踏みながら円を描くように動くので、その決してA点からB点に位置を移動するようには動かない「堂々巡り」の状態を、実際に外交交渉よりも連夜の舞踏会の方が目立った会議にかけている。
出典
[編集 ]関連図書
[編集 ]- Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Vienna, Congress of" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 53–55.
関連項目
[編集 ]- ウィーン議定書
- ヨーロッパ協調
- アントナン・カレーム - この会議で料理を提供した料理人
- アーヘン会議 (1818年)
- ラシュタット会議
- キール条約
- パリ条約 (1814年)
- パリ条約 (1815年)
- 『会議は踊る』
- 小田原評定 - 日本でウィーン会議と同様になかなか進まない会議の例えに用いられる
| 戦役 |
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|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 関連戦争 | ||||||||||||||||||||||
| 外交 | ||||||||||||||||||||||
| 関係諸国 |
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| 領邦 | |
|---|---|
| 連合・同盟 | |
| 事件 |
|
| 人物 | |
| 関連項目 | |
- ウィーン会議
- 1814年のヨーロッパ
- 1815年のヨーロッパ
- 国際会議
- オーストリア帝国
- ハプスブルク帝国の国際関係
- イギリスの歴史
- ドイツの歴史 (1806年-1870年)
- ロシア帝国の外交
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- アーサー・ウェルズリー
- シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
- カール・ロベルト・ネッセルローデ