イタリア政策
イタリア政策(イタリアせいさく)とは、神聖ローマ皇帝が中世のイタリア王国に干渉した政策である。歴代皇帝がローマ皇帝またはイタリア王として進駐した。ピピンの寄進を原型とし、東方問題に発展した。
ザクセン朝
[編集 ]ここでのイタリアは現在のそれとは国土の形も座標も異なり、おおよそモナコからスロベニアに横たわる北イタリア圏である。当時、ファーティマ朝の侵攻を迎撃する諸侯と、コムーネと呼ばれる都市国家に分裂していた。
イタリア政策とは、もともと東フランク王国であった神聖ローマ帝国が、中フランク王国であったイタリア王国に勢力を伸ばそうとするものである。中フランクへ執着するわけは、結果論から概ね水運である。962年、初代皇帝オットー1世の戴冠式はオランダ・ベルギー・ドイツの狭間にあるアーヘン大聖堂で挙行された。そしてライン川が国内河川となった。
イタリア政策は戴冠前から行われていた。ベレンガーリオ1世が西ローマ帝国の皇帝であったころから、マジャル人がアウクスブルクを通ってリグリア海沿岸地域とプロヴァンスへ侵攻していた。オリア地方(ドーリア家発祥地)のArduin Glaberが支援したベレンガーリオ2世はロンバルディアの鉄王冠を得て、ジェノヴァ侯国・西リグリア侯国・トリノ侯国という3つの辺境伯領を創設した。そこへ951年オットー1世がロタール2世の寡婦アーデルハイトから要請があったことを理由に遠征してきた。オットー1世はレヒフェルトの戦いで勝利し、マジャル人の北イタリア侵攻を食い止めてから、再度961年イタリアに遠征しベレンガーリオ2世を廃位した。
オストマルクを回復した972年、次代オットー2世がテオファヌと結婚し東ローマ帝国と関係をもった。オットー3世の治世、988年ロシアのウラジーミル1世が東ローマ皇妹と結婚した。同年、東ローマは修道院の新設と修道院への土地寄進を解禁しているが、ロシア正教会に権益をもつ意図があった。オットー3世のイタリア政策はローマ帝国のように、キリスト教で結ばれる地中海・黒海の水運を握る意味があった。ハインリヒ2世が行った帝国教会政策の目的は一般に諸侯の統制と解されている。しかし多様な財源を貢いで人材を教会へねじこむ手口は、時期・態様・目的がロシアと共通した。
ザーリアー朝からホーエンシュタウフェン朝まで
[編集 ]1032年、古ヴェルフ家がルドルフ3世の死を最後に断絶した。ザーリアー朝のコンラート2世は、姻戚としてユーラブルグント王国を継承した。しかしヴェルフ=エステ家も姻戚であった。イタリアの継承権をめぐる対立が生まれた。
皇帝ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世と叙任権闘争を展開した。1122年息子の5世がヴォルムス協約を結び、教会の財産権を留保した。1133年、ロタール3世は教皇インノケンティウス2世から冠を授かり皇帝となった。
ホーエンシュタウフェン朝のコンラート3世が皇帝となってから、1140年ヴァインスベルクの戦いが起きて、教皇派と皇帝派の対立に呼称が定着した。諸侯を主勢力とする皇帝派と、ヴェルフ=エステ家とロンバルディア同盟を主勢力とする教皇派は、キリスト教という名の地中海利用権を争ったのである。ヴェルフ=エステ家は同家から一度だけオットー4世を皇帝に据えることができた。しかしまたホーエンシュタウフェン朝から皇帝フリードリヒ2世が出て、彼はイタリアの中央集権化を推進した。
大空位時代以降
[編集 ]歴代皇帝のイタリア政策により、諸侯が割拠しているドイツでの皇帝権の強化がなされずに大空位時代に突入した。大空位時代が終結した後、14世紀から帝国はルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策によりジェノヴァ共和国と連携するようになった。15世紀以降、神聖ローマ皇帝を世襲するようになったハプスブルク家は、このイタリア政策を放棄することで帝国支配を強めた。しかし、16世紀のフランス王国とのイタリア戦争に勝利した後、イタリアに深く関わることとなり、イタリア政策は事実的に復活する。この結果、帝国内の帝権強化は失敗、17世紀に起こったドイツ三十年戦争によって国内は分裂を極め、神聖ローマ皇帝による統一国家形成は成らなかった。ドイツ及びイタリアが、イタリア政策から解放され、統一国家を築くのは19世紀半ばのことである。