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アレクセイ・ブルシーロフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクセイ・ブルシーロフ
Алексей Брусилов
ブルシーロフの肖像画(1913年)
生誕 1853年 9月1日
(ユリウス暦8月19日)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
チフリス県 (ロシア語版)
チフリス
(現在のジョージア (国)の旗 ジョージア)
死没 1926年 3月17日
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国
モスクワ
所属組織 ロシア帝国陸軍
労働者・農民赤軍
軍歴 1872年 - 1917年
(ロシア帝国陸軍)
1920年 - 1924年
(赤軍)
最終階級

副将騎兵大将

二等軍司令官
指揮 第8軍司令官
南西戦線司令官
陸海軍最高司令官
戦闘 露土戦争
第一次世界大戦
ポーランド・ソビエト戦争
署名
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内閣 リュボフ内閣
在任期間 1917年 5月22日 - 7月19日
労働者・農民赤軍
共和国軍総司令官附属特別会議議長
在任期間 1922年 - 1924年(?)
共和国軍総司令官 セルゲイ・カーメネフ
在任期間 1924年 - (?)
共和国軍総司令官 セルゲイ・カーメネフ
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アレクセイ・アレクセーヴィチ・ブルシーロフ(ロシア語: Алексей Алексеевич Брусилов, ラテン文字転写: Aleksei Alekseevich Brusilov, 1853年 9月1日(ユリウス暦8月19日) - 1926年 3月17日)は、ロシア及びソビエト連邦軍人第一次世界大戦時のブルシーロフ攻勢の指揮者であり、陸海軍最高司令官、共和国革命軍事会議議員を務めた。最終階級は騎兵大将

経歴

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生い立ち

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ブルシーロフは1853年に貴族の家系に生まれた。 父はロシア帝国陸軍将校でクルスク県副知事、モスクワ県副知事を務めていたアレクセイ・ニコラエヴィチ・ブルシーロフ (ロシア語版)少将であり、母親のマリアはポーランド人であった[1]

ロシアの家系図の専門家であるエフゲニー・プチェロフ (ロシア語版)は、ブルシーロフ家は古い家系ではあったものの、それほど高貴な家柄ではなかったと述べている。「全ロシアの貴族の家系図 (ロシア語版)」の第7部に掲載されているブルシーロフ家の紋章には、ポーランドからの影響とテントや塔といった軍事を強く連想させるシンボルが用いられており、ブルシーロフ家が代々軍人を輩出している家系であることを示唆している。なお他の文献ではポルタヴァビルニュス ヴォログダ各州や県の副知事や知事といった高位の文官にもブルシーロフ家の人間が就任していることから、一族の全てが軍人だったとは言えない。

軍歴

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貴族幼年学校、ニコラエフスク騎兵学校を卒業した。 1872年 7月29日に士官学校を卒業し、第16トヴェリ竜騎兵連隊 (ロシア語版)に配属された。1873年から78年まで連隊副官を務め、1877年から1年間、露土戦争に従軍し、カフカースでの戦闘に参加した。オスマン帝国軍のアルダガン要塞とカルス要塞の攻略で功績を立て、聖スタニスラフ勲章 (ロシア語版)第3等および第2等、聖アンナ勲章 (ロシア語版)第3等を授与される。

この頃からブルシーロフの指揮官としての素質が表れ始めた。戦闘技術、特に連続自動火器の発展により、密集した隊列での攻撃を避け、過度の損失を回避することが可能になった。ブルシーロフは、他の誰よりも早く、陣地戦、砲兵の新しい運用方法、部隊の作戦指揮や後方支援のための通信手段の重要性を理解していた。

1881年に帝都サンクトペテルブルクに赴任し、1883年からは騎兵将校学校に勤務する。1890年から乗馬・馬術部門副部長、1891年から騎兵隊長・百人隊長部門部長、1893年から竜騎兵部門部長、1898年から副校長、1902年からは校長を務めた。ブルシーロフは、ロシア国内だけでなく海外でも騎兵術と馬術の卓越した専門家として知られるようになった。日露戦争前に帝国軍将校を務めており、ブルシーロフの下で勤務していたカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム少佐は、次のように回想している[2]

彼は注意深く、厳格で、部下に対しても厳しい指揮官であり、非常に優れた知識を与えてくれた。彼の戦略や野外訓練は、その構想と実行において模範的で、非常に興味深いものだった。

1906年 4月19日にはニコライ・ニコラエヴィチ 大公の推薦により、第2近衛騎兵師団 (ロシア語版)長に任命された。軍有能有能な指揮官として頭角を現したブルシーロフは同年、中将に昇進し、従来の訓練方を変更し、より野外騎乗、射撃、体力訓練に重点を置いたものにした。

1909年 1月5日から、ワルシャワ軍管区 (ロシア語版)第14軍団司令官を務めた。しかしブルシーロフは同軍団の戦術訓練度が低いと感じ、軍事演習や訓練の質の向上に試みた。

ブルシーロフは妻に先立たれ未亡人となったが、1910年に彼と同じティフリス出身で45歳のナジェージダと再婚した。彼女は事前活動家であり、日露戦争中は雑誌「兄弟愛 (ロシア語版)」を通じて慈善活動を組織した。

1912年 5月15日にワルシャワ軍管区司令官補佐に就任し、騎兵大将に昇進した。しかしワルシャワの重要なポストはすべてドイツ人が占めており、ブルシーロフの軍政改革案は退けられた。そのためブルシーロフは転属を願い出て、1913年 8月15日からはキエフ軍管区第12軍団 (ロシア語版)司令官に就任した。

第一次世界大戦

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1914年第一次世界大戦が始まるとブルシーロフは南西戦線 (英語版)第8軍 (英語版)司令官に就任した。その数日後にはガリツィアの戦い (ロシア語版)に参加した。同年8月15日から16日にかけて、ホガティンの戦いでオーストリア=ハンガリー帝国軍第2軍を撃破し、2万人の捕虜と70門の大砲を捕獲した。8月20日にはウクライナ西部ガリチアを占領。第8軍はTemplate:空リンクやゴロドクスの戦いに積極的に参加した。1914年9月、第8軍と第3軍からなる軍団を指揮した。9月28日から10月11日にかけて、サン川ストルイ (ウクライナ語版)の戦いではオーストリア=ハンガリー帝国第2・第3軍による反撃を撃退し、1万5千人を捕虜とした。

1914年11月初旬、オーストリア=ハンガリー帝国第3軍をカルパティア山脈ベスキディ山脈 (ウクライナ語版)の陣地から追い出し、戦略的に重要なルプコフ峠を占領した。クロスノとリマノフの戦いで、第3軍と第4軍を撃破し、4万8千人の捕虜、17門の大砲、119挺の機関銃を捕獲した。

ブルシーロフ将軍。リヴネ駅にて(1915年10月)

1915年 2月のボリグロドの戦いでは、敵軍がペレミシュル要塞に包囲された捕虜を解放しようと試みたが、ブルシーロフの軍は逆に13万人の捕虜を捕らえる戦果を出した。3月にはベスキディ山脈を制圧し、3月30日までにカルパティア山脈での戦闘を終わらせた。

1915年の春、ゴルリッツ=タルヌフ攻勢ではロシア軍は惨敗したため、ブルシーロフは撤退を開始し軍をサン川まで引き上げた。ラディムノの戦いではゴロドクスの陣地戦で重砲において優位性を持つ敵軍に対抗したが、同年6月9日にはリヴィウを放棄せざるを得なくなり、ブルシーロフの軍はヴォルィーニへ撤退した。8月のホルィニ川の戦いでは防衛に成功した。9月初旬のヴィシュニヴェーツィ (ウクライナ語版)ドゥブノの戦いではオーストリアの第1軍、第2軍を撃破した。9月10日にはルーツクを占領し、10月5日にはチョルトルィーシクを占領した。

ドイツ人追放

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1915年の夏から秋にかけて、ブルシーロフの個人的な提案により、西部ウクライナのドイツ人住民の追放が繰り返し行われた。同年10月23日から60歳以上の高齢者、戦死者の未亡人や母親、障害者、盲人、身体障害者など、これまでその地に残留していたドイツ人入植者たちの追放が実施された。ブルシーロフはドイツ人住民が電信や電話の配線を破壊に協力しているしていると信じており、3日以内に約2万人が追放された[3]

ブルシーロフ攻勢

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コサックの伝統的な衣装であるチョハを着用する南西戦線総司令官としてのブルシーロフ将軍(1916年)

1916年 3月17日より、には、南西戦線総司令官 (ロシア語版)に就任した。同年5月、ブルシーロフ攻勢 として知られる大規模な攻勢を指揮。この作戦では、数百キロにわたって広がる戦線全域に、塹壕、連絡通路、機関銃座が掘られ、避難所や倉庫が建設され、道路が敷設され、砲兵陣地が構築された。そのため敵軍はロシア軍がどこの位置から攻撃してくるか判断するのが遅れ、当時のロシア軍には珍しい砲兵射撃で装備したブルシーロフの軍の奇襲作戦によって壊滅された。

ブルシーロフの計画に従い、アレクセイ・カレージン将軍指揮下の第8軍がルーツク方面に向けられた。6月7日にルーツクを占領し、6月10日までにカルパティア山脈に到達した。6月15日には ヨーゼフ・フェルディナント大公率いるオーストリア第4軍を撃破し、65キロ前進した。

攻勢は100日以上に及びロシア軍にも約50万人の死傷者が出たが、オーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵40万8千人を捕虜とし、火砲581門、機関銃1,795挺を鹵獲した。この戦果にロシアの新聞は、ブルシーロフを国家の英雄だと称えた。スタスカの推薦により、ブルシーロフに聖ゲオルギー勲章第2等 (ロシア語版)の授与が提案されたが、最高司令官のニコライ2世は授与を承認せず、その代わりにブルシーロフはアントーン・デニーキン将軍とともに、ダイヤモンド付き聖ゲオルギーの名誉武器を授与された。

1916年の夏、将軍は記者とのインタビューで連合国の勝利は確実であり、戦争は1917年8月に終結する可能性があると述べた[4]

1916年9月初旬、ブルーシロフはスタフカの勧告や不安定な戦略的状況を考慮せずに、コーベリ方面への新たな攻勢を開始したが、攻勢は失敗に終わり、2か月の戦闘でロシア軍は45万人を失い、10月末までにその損失は100万人を超えた。

ロシア革命

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ブルシーロフは皇帝ニコライ2世の退位と臨時政府の樹立を支持した。軍内に志願兵からなる突撃大隊の創設を熱烈に支持し、敵に勝利するために死を厭わない(女性も含む)前線兵士たち からなる突撃大隊および特攻部隊の創設を提唱した[5] 。しかし最高司令官のミハイル・アレクセーエフ将軍はブルシーロフの構想に懐疑的であり、兵士たちの反乱は不可逆的なものとなった。

1917年5月から6月、臨時政府の下でロシア軍最高司令官に就任。戦争の継続を支持し、脱走兵に対して死刑を適用する命令を下達した。6月、ケレンスキー攻勢を指揮するが、厭戦状態の兵士達が戦闘を放棄したため、攻勢は失敗。臨時政府は、彼をラーヴル・コルニーロフと交代させた。

ブルシーロフは、妻と共にモスクワに帰ったが、もはや誰も関心を示さず、十月革命を自宅で迎えることになった。11月2日、赤衛隊が放った砲弾の1 発がブルシーロフのアパートに当たり、彼は長い軍歴で初めて負傷した。

かつて名声のあったブルシーロフは、外国人に注目され始めた。イギリスの外交官(諜報員)ロッカートは、負傷したブルシーロフを何度も見舞った。チェーカーは、イギリス人がブルシーロフに白軍の指導者になるよう提案した手紙を入手し、彼をクレムリンの営倉に幽閉した[6] 。妻のナジェージダは夫のために何度も陳情し、最終的にフェリックス・ジェルジンスキー自身が介入して釈放された。1918年の冬、ブルシーロフの息子のアレクセイ・ブルシーロフ(ジュニア) (ロシア語版)は父ブルシーロフに勧められ、赤軍に入隊したが、1920年に戦死した。ジュニアはデニーキン将軍の白軍によるモスクワ進攻の際に捕虜となり処刑されたみられる。

赤軍の司令官として

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赤軍の二等軍司令官の制服を着用するブルシーロフ

ポーランド・ソビエト戦争が始まった1920年からブルシーロフは赤軍に入隊した。彼は自らクレムリンに赴き、自分の力を赤軍に寄与したいと願い出た。ブルシーロフが赤軍に入隊したのは、息子とかつての戦友が白軍に残酷に処刑されたことが影響したといわれている[7] 。同年5月からブルシーロフは、共和国軍総司令官附属特別会議議長に就任することに同意し、赤軍の強化に関する助言を行った。9月からはミハイル・カリーニンウラジーミル・レーニンレフ・トロツキーセルゲイ・カメーネフとともに、南ロシアで白軍を率いるピョートル・ヴランーゲリ将軍の軍将校たちへ、内戦の終結を呼びかけ、ソビエト政権側に寝返る者全員に恩赦を保証することを含む布告を作成した[8] 。しかしこうしたブルシーロフのソビエト政権への積極的な協力は、多くの旧軍将校から政権から裏切りと受け止められた。

1921年からブルシーロフは、騎兵隊訓練組織委員会の委員長を務めた。1923年から1924年にかけては、赤軍騎兵監察官を務め、1924年からは共和国革命軍事会議議員を務めた。

恩赦を約束されていたヴランーゲリ軍将兵が容赦なく銃殺されたことを知って深く後悔し、信仰の世界に深くのめり込むことになった。ソ連結成後の1924年に退役し、その2年後、モスクワで死去した。72歳であった。ノヴォデヴィチ修道院のスモレンスク大聖堂の壁のそばで、軍隊の祝砲をもって国葬として埋葬された[9]

家族

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父のアレクセイ・ニコラエヴィチ・ブルシーロフはロシア軍の少将で母のマリア・ブルシーロワはポーランド人。兄のボリス・ブルシーロフは1877年から78年の露土戦争に参加し、グレボヴォ=ブルシロヴォ荘園 (ロシア語版)の所有者。 もう1人の兄レフ・ブルシーロフはロシア帝国海軍に勤務し、兄ボリス同様、露土戦争に参加し、1909年に海軍中将の階級で死去。甥のゲオルギー・ブルシーロフはロシア海軍中尉で北極探検家。

ブルシーロフの長男はアレクセイ・アレクセーエヴィチ・ブルシーロフであり、父と同名である。近衛騎兵擲弾兵連隊の将校であり、1918年8月にチェーカに逮捕され6か月間投獄されたが、1919年からは赤軍に志願し、騎兵連隊長として昇進した。アレクセイは白軍に捕らえられて処刑されたとされるが、白軍の捕虜となった際にチフスに感染してロストフ・ナ・ドヌで死亡したともされる[10]

回顧録

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ブルシーロフはロシア軍とソビエト・ロシアでの軍務について記した回顧録『私の記憶』を残した。1917年までの期間を扱ったその第一部は、1922年に完成し、1929年に出版された。

第二部については未完のままとなったが、ブルシーロフの未亡人は1930年にソ連を離れ、ブルシーロフの全アーカイブと回顧録の原稿を持ち出し、1932年プラハのロシア国外歴史アーカイブに保管した[11] 。回想録によると、ブルシーロフはボルシェビキに対して極めて否定的であり、特にレーニンやフェリックス・ジェルジンスキーなどの党幹部に対する激しい攻撃が記されていた。これは1925年にカルロヴィ・ヴァリで療養中のブルシーロフが妻に口述したものである。

1945年以降、回顧録第2巻の原稿はソ連に渡された。第2巻に記されてるブルシーロフのボルシェビキに対する厳しい否定的な評価により、1948年に『A. A. ブルシロフ』の出版が中止され、彼の名前は中央国家軍事公文書館のガイドブックから削除された。しかしブルシーロフの名前はソ連の参考書や百科事典からは削除されることはなかった。

評価

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2014年にロシアで発行された切手

2006年 12月1日、ブルシーロフ攻勢を記念して、ウクライナヴィーンヌィツャにブルシーロフの像が除幕された[12]

2007年 11月14日サンクトペテルブルクのシュパレルナヤ通りとタヴリツカヤ通りの交差点近くの公園に、ブルシーロフの4メートルの銅像が設置された。

注釈

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  1. ^ Объедков И. В. «Отличный офицер, достойный милости Его Императорского Величества». Некоторые сведения о службе А. Н. Брусилова. // Военно-исторический журнал. — 2016. — No 9. — С.65—67.
  2. ^ Маннергейм К. Г. Мемуары. — М.: Вагриус, 1999. — 508 с. — (Мой 20 век). — 7,000 экз. — ISBN 5-264-00049-2.
  3. ^ Генерал от инфантерии Н. Н. Янушкевич: «Немецкую пакость уволить, и без нежностей...» Депортации в России 1914—1918 гг. — С. 50.
  4. ^ "Генерал-адъютанты М. В. Алексеев и А. А. Брусилов о стратегическом переломе и грядущей победе в Великой войне". btgv.ru. 2020年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月25日閲覧。
  5. ^ "Штурмовые и ударные части русской армии Первой мировой. Ч. 3. Во имя новой России". btgv.ru. 2020年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月6日閲覧。
  6. ^ "Родился военный деятель, генерал от кавалерии Алексей Алексеевич Брусилов". Президентская библиотека имени Б. Н. Ельцина. 2023年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月31日閲覧。
  7. ^ "Брусилов Алексей Алексеевич - Сто великих полководцев России. Проект "Сто великих полководцев. Герой дня"". 100.histrf.ru. 2020年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月5日閲覧。
  8. ^ К офицерам армии барона Врангеля (воззвание) // Правда. — 12 сентября 1920 года. — No 202.
  9. ^ "БРУСИЛОВ Алексей Алексеевич (1853—1926)". 2013年11月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月10日閲覧。
  10. ^ "Ровенский Г. В. Свадьба в Гребнево. // Альманах «Богородский край» No 1 (2002).". 2013年11月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年6月16日閲覧。
  11. ^ Шабанов В. М. А. А. Брусилов. // Военно-исторический журнал. — 1989. — No 10. — С.62-65.
  12. ^ "Образец военного искусства. Информационно-аналитическая служба «Русская народная линия»". 2014年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月30日閲覧。

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