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2025年8月29日 (金)
「クレヨンしんちゃん 超華麗!灼熱のカスカベダンサーズ」まるっとありのままを受け入れる
インドでは「クレヨンしんちゃん」はほんとに大人気らしい。
その人気を活用して、日本メーカーの食品のパッケージに「しんちゃん」が載っていたり(コラボですね)もするんですよね。
ですので、今回の「しんちゃん」の映画の舞台はインド。
インドと言えば、ミュージカルということで、今回の映画ではふんだんに曲とダンスが織り交ぜられていて文句なく楽しい。
「しんちゃん」の世界観とインドミュージカルは想像以上に相性よかったです。
個人的にはひろしが歌う「Danger Zone」がツボでした。
「Highway to the Danger Zone」しか歌えず、他の歌詞はホニャホニャ誤魔化しながら歌うっているのは、あるあるですよね。
うちの娘はみさえの歌にツボっていました。
ゲストキャラのカビール兄弟もいかにもインドらしく濃い味でよかったです。
演じるのは山寺宏一さんと速水奨さんという大ベテランなので、いやが上にも存在感が増します。
本作でスポットが当たるのはボーちゃん。
こんなにボーちゃんが中心になるのはあまり見たことがないような。
ボーちゃんと言ったらクセ強のカスカベ防衛隊の中では、良心と言いましょうか、癒しと言いましょうか、そういう存在ですよね。
本作ではボーちゃんがボーちゃんでなくなってしまいます。
野心とは無縁なボーちゃんが「紙」の力でまさに「神」のように振る舞い始めるのです。
数年前の「天カス学園」のスーパー風間くんも近い感じがしますが、大人からいつもちゃんとして、と言われるからか、子供は子供でちゃんとしなくちゃいけないというプレッシャーはあるのかもしれません。
ただちゃんとする、ことによってその子らしさみたいなもの(いいとこもそれほどよくないとこも)がなくなってしまうかもしれません。
しんちゃんという子は、いいとこもそれほどよくないところも含めて、相手をまるっとありのままに受け入れられる子なんですよね。
そういう寛容さって大事だなと思います。
個性を潰してしまうのは勿体無いですものね。
自分の子供にも、ちゃんとして、と言いがちなので、ちょっとは気を付けてみようと思いました。
2025年8月24日 (日)
「映画 ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー 復活のテガソード」自由になるなずが不自由に
シリーズ49作目にて「スーパー戦隊」50周年記念の「ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー」。
今までも「ゴーカイジャー」などキリがいいところでの記念作品はあり、旧戦隊が登場するなどして大いに盛り上がりました。
本作でもそれらの作品と同じように旧戦隊が登場してきます。
しかし、正直言って個人的には「ゴジュウジャー」はいまいち乗り切れていないのです。
意欲的な作りをしていることは理解しています。
従来の型化しているようなスーパー戦隊フォーマットから離れようとしています。
型から解放されるのでストーリーとしては自由になるはずです。
実際いつもの怪人戦→巨大戦というフォーマットには従っていないストーリーになっていますし、戦隊メンバーも厳密にはチームとしての一体感はやや薄く、それぞれの思惑で動いています。
ただ戦隊である限りはチームは描かなくてはならず、自由とはいえロボ戦はやらなくてはいけないわけで、そうなるとフォーマットに沿わない形でそれらを描かなければならなくなっているからか、毎回四苦八苦しているように感じられるのです。
自由になるはずが、不自由になっているというか。
これは基本的には一話完結フォーマットであることは守っているということに起因しているのかもしれないですが。
「仮面ライダー」シリーズは一話完結にこだわっていないため、さまざまな型から自由になったことがいい方向に現れていると思います。
作りとしては王道であった前回作品「ブンブンジャー」の方が全体的なストーリーとしては一話完結は守りながらも大河的でもあり、うまくいっていたような気がします。
劇場版についてはそのようなテレビシリーズの苦しさをそのまま持ってきているようにも感じ、ドタバタしたまま終わってしまったという印象になりました。
2025年8月23日 (土)
「映画 仮面ライダーガヴ お菓子の家の侵略者」ポップな仮面の下に
現在佳境を迎えている「仮面ライダーガヴ」の劇場版です。
「ガヴ」はお菓子をモチーフとしていてポップなカラーリングが印象的な仮面ライダーですが、そのイメージとは裏腹に設定は最近の「仮面ライダー」シリーズの中でもかなりダークな部類に入ると思います。
ガヴが戦うのはグラニュートという異世界の住人ですが、彼らは人間を攫っては「闇菓子」というお菓子の原料にしているのです。
グラニュートにより人間は「人プレス」という圧縮された状態になり、それがグラニュート界の工場でお菓子の原料とされます。
当然、原料にされてしまうのですからその人間は死んでしまうわけです(人プレスの状態で救い出せれば、人間に戻せる)。
最近の「仮面ライダー」は時代の風潮からからあまり「死」を正面切って描いていませんでした(描けない)。
昭和の「仮面ライダー」では怪人にやられた一般人が溶けて消えるシーンがありましたが、このようなシーンも最近ではあまり見かけなくなりました。
そういう状況の中で「ガヴ」はかなり攻めているといいと思います(「クウガ」はさらに攻めていますが)。
今回の劇場版はテレビシリーズ以上に攻めている感じがしました。
映画では新たな異世界である、我々の世界に似たお菓子の世界が登場します。
ここはテレビシリーズの「ガヴ」よりもさらにポップな世界なわけなのですが、ここの世界が抱えている闇はそれ以上に深い。
この世界を支配するカリエスはガヴを参考にしてベルトを作り、自分の力としていました。
そのために彼はガヴを腹に植え付けた人間の子供育て、そしてガヴが大きくなった時にそれを切除して自分に装着するということをしています。
この描写は子供向けの映画としてもかなり攻めた表現になっていたと思います。
こういうことをするカリエスという敵は同情の余地なしの絶対悪だと思いますが、こういう敵も最近では珍しい。
現実の世界でも悲しいことに許し難い絶対的な悪意のある事件が起こったりします。
「ガヴ」にはそのような非人間的な絶対的な悪意に対する怒り、そして戦う覚悟がポップな世界観の裏に隠されているのだと思います。
これは現在大ヒットしている「鬼滅の刃」にも共通する要素かもしれません。
主人公ショウマは敵を倒す前に「二度と闇菓子に関わらないか、この場で俺に倒されるか」と聞きます。
そして敵が闇菓子に関わり続けるといった場合は容赦せず、相手を滅するのです。
「仮面ライダーガヴ」はポップな仮面の下に、悪を絶対に許さない激しい気持ちを隠しているのです。
2025年8月15日 (金)
「ファンタスティック4:ファースト・ステップ」MCU初心者に向けた「ファースト・ステップ」
今年に入ってMCUの映画は「キャプテン・アメリカ」「サンダーボルツ」に続いて3作目。
その中でも公開前の情報としては出来がいいという評判で、アメリカでは割と評論家的にも高評価だったようです。
本作の舞台となるのは従来のMCUのアース616とは異なり、アース828と冒頭に明示されていて、レトロフューチャー的な世界観となっています。
現実の世界を意識してリアリティ重視の従来のMCUとは異なり、映画的に違う世界を楽しめる良さはあります。
また、本作は違うアースであるために、基本的には今までのMCUを見ていなくても、全く問題がない作りになっています。
そしてテーマとなっているのは、家族です。
登場するファンタスティック4はヒーローチームではありますが、家族であるという側面も強い。
今までのMCUのヒーローチームは個性あふれるメンバーでそれぞれ個性も考えも違うので、衝突も多かったですが、本作は基本的にはそれぞれがお互いに愛情を持っているチームです。
そして彼らは基本的に善人であり、彼らが不本意にも得たスーパーパワーを人類のために使うのだという、意識がとても強い。
これは割と人格的に課題がある従来のMCUのヒーローとは異なっています。
ヒーローらしいヒーローと言っていいでしょう。
これらのことから「ファースト・ステップ」はMCUをあまり見ていない人、または挫折した人にとって、わかりやすいヒーロー映画となっていて、間口が広い作品となっているように思います。
これは「ヒーロー疲れ」と言われるようになった状況に対して、マーベルが出した一つの答えなのかもしれません(まさにMCU初心者に対する「ファースト・ステップ」)。
家族か、世界かの選択をギャラクタスに迫れれたファンタスティック4の葛藤は、多くの人にとってドラマとしても共感できるところだと思います。 そういうこともわかった上で、MCUにどっぷり浸かっている自分としては「ファースト・ステップ」は色んな意味で物足りないところを感じました。
ファンタスティック4がわかりやすいヒーローであることはエントリー獲得に必要だと思いますが、自分がMCUのヒーローが好きなのは、ヒーローでありながら皆不完全であることなんですよね。
トニー・スタークは天才ではありますが、自信満々の態度の裏にある、心の弱さなどが事件を引き起こすこともしばしばでした。
彼が完全ではないことがドラマを生んでいるのであり、だからこそ彼が好かれていたのだと思います。
完璧ではないからこそ人間的なんですよね。
「サンダーボルツ」などはまさにそれの究極で、個人的には大好きな作品の一つなのです。
本作のファンタスティック4はそれらの対極に位置していて、完璧なヒーロー、完璧な家族であり、そのあたりに絵空事感を感じてしまいました。
絵空事感には作られたようなレトロフューチャー的な世界観も影響しているかもしれません。
「サンダーボルツ」はMCUのコアファンを意識したマニアックな作りであり、「ファースト・ステップ」は間口の広い初心者を意識した作品であると思いました。
振れ幅としてはとても大きくて、これが次回作の「アベンジャーズ:ドゥームズデイ」でどう統合されるのか、ちょっと予想がつかないですね。
楽しみでもあり、怖くもありです。
2025年8月10日 (日)
「ミッション:インポッシブル」まさに原点
「ファイナル・レコニング」でシリーズ最終と言われていて、旧作からのリンクも数々見られました。
その中でもシリーズ第1作である本作から繋がっている部分が多かったように思います。
ということで、改めてシリーズの原点を見直してみました。
一作目で最も印象的なシーンは、CIAのデータベースに侵入するシークエンスでしょう。
トム・クルーズ演じるイーサン・ハントが宙吊りになりながら、データにアクセスする場面は、派手なアクションはないのですが、緊張感が溢れる名場面だったと思います。
アクションがなくてもこれだけテンションを上げられるのは、監督のデ・パルマの演出も良かったのでしょう。
宇宙船の中のようなデータ室でハントが宙吊りになっているシーンをワイドで押さえたショット、逆にハントの顔に極端にクローズアップして流れる汗をとらえたショット。
非常に緊迫感あふれる演出でした。
このシーンは他の作品でも影響を受けたものを見ることもあり、多くのインスピレーションを与えたと思います。
このシーンに登場するCIAのアナリストがダンローで彼は最新作「ファイナル・レコニング」で重要な役割を担うことになります。
この時はそのようになることは予想もできないですよね。
確かに一作目で失態を演じた時に、キトリッジにアラスカに左遷させろと言われていました。
キトリッジも一作目から登場し、最新作にももちろん登場しています。
本作は進化が進む本シリーズの作品を見た後に見ると、シンプルに感じるところはあります。
しかし、ストーリーとしても「スパイもの」らしく何が本当かということがわからないまま進み、ストーリーとしても緊張感が続く仕立てになっています。
初めて見た時は、フェルプスが生きていたことが明らかになった時非常に驚いた記憶があります。
アクションも今見るとCG感を感じるところがありますが、それでも見応えがあります。
その後のシリーズでトム・クルーズがさまざまなアクションを本人が演じ驚かせますが、その原点がまさにこの作品なのだと実感できます。
本作はアクション映画において一つのマイルストーンになっているような気がしますし、だんだんと少なくなっているリアルで肉体を感じるアクションの貴重な流れを担っていると思います。
2025年8月 9日 (土)
「ババンババンバンバンパイア」吉沢亮の落差
「国宝」が大ヒットとなって話題です。
職場では私の映画好きは知られるところとなっているのですが、普段映画を見なさそうな方から「『国宝』どうでした?」と聞かれることが多く、その反響の大きさに驚いたりしました。
その「国宝」の主演である吉沢亮さんの歌舞伎女形の演技も凄まじかったです。
普段の映像での演技とは所作も声の出し方も違うと思いますが、素人から見れば完成度が高く、女形を演じていたと思います。
また、感情を伴う演技も見事なものでした。
個人的には、吉沢さん演じる喜久雄が地方をどさ回りしている時に、ビルの屋上でただ一人踊っている時の姿が印象に残っています。
狂っていると言いましょうか、鬼気迫るような印象がありました。
そのようにシリアスな演技において、現在の日本の若手俳優の中でも存在感のある吉沢さんが別の側面を見せているのが、本作「ババンババンバンバンパイア」です。
何を見せているかというとコメディのセンスです。
本作で吉沢さんが演じるのは、森蘭丸(かつて織田信長の小姓であった)。
彼は実はバンパイアで戦国時代からずっと生き続けているらしい。
そして蘭丸は弱っていた時に拾ってもらった銭湯で住み込みで働いていて、その目的は銭湯の息子、李仁が18歳になった時その血を吸うこと。
その時までに息子が童貞でいられるよう、側で見張っているのです。
なんとも馬鹿馬鹿しい設定。
「国宝」と大違いです(笑)。
しかし、蘭丸は至って真面目に李仁を大切に思っており、それは恋をしているかのよう。
吉沢さんのコメディが面白いのは、端正なルックスであるにも関わらず、本人は真面目におかしなことをやっているという落差があるからなんですよね。
この落差が半端ない。
役柄的にも笑わせにいっているわけではないので、なおさら落差が際立ちます。
この落差はなかなか他の方では出せないかな。
「国宝」は今年のNo.1作品となる可能性もあり、吉沢さんもシリアスな演技ができる実力者として評価されると思いますが、本作のようなコメディのセンスもときどきは見せてもらいたいものです。
期待しています。
2025年8月 2日 (土)
「劇場版 『鬼滅の刃』 無限城編 第一章 猗窩座再来」怒涛の展開
クライマックスに向けて怒涛の展開となっている「鬼滅の刃」無限城編が始まりました、
2時間半の長尺ながら、全く息をつく暇もない展開で圧倒されます。
元々このシリーズは作画の質が凄まじい。
アニメとは思えないカメラワーク、スピード感のある殺陣、ケレン味のある演出など一度だけでは堪能しきれないほどの濃度です。
これが2時間半続くのですから、圧倒されるばっかりです。
本作は第一章ということで、主に3つの戦いが描かれます。
蟲柱胡蝶しのぶVS上弦の弍童磨、我妻善逸VS下弦の陸獪岳、そして竈門炭治郎&水柱冨岡義勇VS上弦の参猗窩座です。
ちなみに私は原作を全く読んでおらず、展開を知らずに鑑賞しています。
まずは第1戦、胡蝶しのぶVS上弦の弍童磨です。
童磨は今までも登場していましたが、本格的に鬼殺隊との戦いを見せるのは今回初めて。 人当たりの良さそうな話し方の裏に、毒々しい悪意を持った鬼です。 上弦の鬼たちは大概が性格が破綻していますが、その中でタチの悪さは一番かも知れません。
対するしのぶは童磨に姉を殺されており、いつもとは異なり感情を全面に出しての戦いとなります。
その結果は・・・。
ちょっと緒戦でこの展開になるとは予想していなかったので、割とショックを受けてしまいました。
しのぶの思いが叶えられず、どうにも切ない。
しかし、それだけに上弦の鬼が一筋縄ではいかないほどの強敵であると否が応でも印象付ける戦いとなりました。
第2戦は我妻善逸VS下弦の陸獪岳。
私は鬼殺隊レギュラーの中では、善逸が推しでありまして。
普段のヘタレっぷりと闘いの最中で覚醒(いや寝ているか)しての霹靂一閃を打つ時のカッコ良さの落差がたまりません。
彼が戦うのはかつての兄弟子、獪岳。
彼らの雷の呼吸は型が6つまでしかなく、獪岳は弍から陸までを習得し増田が、壱の型だけはなぜかできませんでした。
逆に善逸は壱の型のみしか習得できませんでした。
プライドの高い獪岳は、師匠をそして善逸を恨みます。
そしてその心を持ったまま上弦に討たれ、鬼へ転びます。
この戦いでの善逸は終始シリアスです。 一つの型しか持っていないのは弱点であるかもしれない。
しかし、基本中の基本の技を極めきったことから、彼は自分の新しい技を得ることができたのです。
獪岳は人から奪うことしか考えなかった。
何も生み出していなかった。
その差が結果に現れました。
そして最後は竈門炭治郎&水柱冨岡義勇VS上弦の参猗窩座です。
それまでの2つの戦いも見応え十分だったのですが、この第三戦がさらに凄まじかったために、印象をさらっていってしまった感があります。 炭治郎と義勇の二人がかりでも対抗するのがやっとの猗窩座。
その実力は炎柱煉獄との戦いでも見せた通り。
武器を持たずその肉体だけで戦っているのにも関わらず、その力は刀を折るほどのもの。 そしてさらには首を切られても復活しようとする執念をも持っています。 鬼たちには悲しい過去を背負っている者も多く、猗窩座もその一人でした。
彼は守りたい人たちがいたにも関わらず、守りきれなかったという悔やみがあります。
それが強さへの執着となり、彼をそこまでにしぶとくさせていたのです。
しかし彼が本当に許せなかったのは自分でした。
誰か強者を倒し続けても、心の奥底に仕舞われていた悔やみは晴れることはない。
それに気づいてしまったのです。 炭治郎には戦いながら鬼たちが忘れている思いに気づかせてしまう力があります。
かつて味わった絶望を思い出した時、彼らは人間であった時の幸せも思い出すのです。
ということで怒涛の2時間半を振り返ってみました。
まだこれでも1/3。
ちょっとこの後の展開が予想できなくて、ドキドキします。
ネタバレを踏まないように気をつけます。
「スーパーマン」(2025)「正義」は古くさいわけではない
スーパーマンは正義の人である。
しかし「正義」とは何か、と考えていくと途端に難しさに直面する。
現代社会は複雑さの極みである。
様々な価値観を持っている人がいる。
国がある。
それぞれにとって「正義」は異なる。
「正義」というものをある立場だけから語るのは危険がある。
だからこそ、MCUで描かれるヒーローは多様性があり、それぞれ価値観も異なっている。
そのため時には対立もするし、和解もする。
そこがMCUの持つダイナミズムであり、それが受け入れられてきたからこそ、ここまでシリーズが続いているのだと思う。
複雑さを持ったMCUのヒーローたちに対して、スーパーマンはやはり正義の人である。
上述した通りの価値観が多様化している現代において「正義」を真正面から唱えるのは、古くささを伴う。
が、「正義」というのものは古くさいものなのだろうか。
弱いものを守る。
虐げられたものを守る。
これはどのような価値観においても大切にされるべきものであり、複雑さが支配する世の中において、この単純であり基本的なことを訴えるスーパーマンの言葉はかえって力を持つように感じた。
しかし「正義」「正論」を唱えることは、人は危うさを感じてしまう。
そのようなことを訴えてきた詐欺師たちに人々はほとほとうんざりしているからだ。
だからこそ、そこに乗じたフェイクに人々は乗ってくる。
日本に限らず、世界でも正論を唱えた人々が謂れのないフェイクニュースによって攻撃されてしまう。
本作においてスーパーマンが直面するのは、そういった正しいことに対する得体の知れない悪意である。
本作のヴィランであるレックスがその悪意が具現化した人物であるが、彼がスーパーマンを異常に敵視する理由はただ一つである。
彼が自分たちとは異なるものであるからだ。
そしてさらには自分たちよりもあらゆる面で優れているからだ。
権力志向が強い彼だからこそ、スーパーマンの存在に恐怖する。
異質なものを排斥しなくてはいけないと考える。
レックスと同じように考える人間も多い。
しかし、上述した基本的な価値観、弱いものを守る、虐げられたものを守るということをただまっすぐに貫こうとするスーパーマンの姿に心を動かされるものも多いのだ。
「正義」は決して古くさいものではない。
今こそまさに「正義」が必要なのかも知れない。
複雑化している現代において、スーパーヒーローの原型でもある「スーパーマン」は素朴である。
その素朴さ、「正義」をまっすぐに訴えることを大切にし、「スーパーマン」を現代に復活させたジェームズ・ガンの手腕を評価したい。