2025年4月30日水曜日
令和7年度をむかえて
四月になりましたが、寒暖の差の激しい毎日で、体調管理が難しい日々が続いています。博物館総館長の中野です。未体験なことばかりの初年度がようやく終わりましたが、二年目ももうしばらくは試行錯誤が続きそうです。今年度もよろしくお願いします。
このコーナー「ひとりごと」にしては長いし、変に理屈っぽいという意見をいただいておりますので、今回は短めにしておきます。昨年度試行的に「楽史(らくし)の集い」というのを二回ほど開催しました。テーマは「手紙の書き方」で、講演のようにこちらがひとりで喋るのではなく、気楽に双方向的なやりとりができる「場」を演出しようと考えたのですが、お出でいただいた方々との掛け合いには大変難しいものがありました。もちろん、テーマの選び方もまずかったのかなあという反省もあるのですが、まさに「言うは易く行うは難し」を実感いたしました。
とはいえ、博物館を身近に感じていただきたいという強い思いはありますので、今年度も継続というか本格開催を考えています。ただし、「双方向的なやりとり」は一旦棚上げして、「楽史の集い」に「総館長の歴史講座」という冠を載せることとしました。つまるところ、当方が話したいことを勝手に話すというスタイルに、割り切っていこうかと思っています。
5月24日(土)が、今年度の第一回の「総館長の歴史講座・楽史の集い」となりますが、テーマは「花押(かおう)」を取り上げる予定です。「花押」というのは、まぁいってみればサインですね。古文書講座などでは、さーっと通り過ぎるネタだとおもいますが、これにはこれで深淵?な歴史が潜んでいます。
昔の人のサインというイメージがありますが、現在でも総理大臣をはじめとして閣僚は決裁に使用していますし、新しく花押をデザインするという現代的なビジネスも結構人気があるようです。
博物館という施設は、研究にしろ展示にしろ「モノ」に拠ってたつところですが、歴史研究が対象とする概念のなかには、抽象度が高くてなかなか展示などに向かないものの多くあります。まだまだ深掘りする余地がありますが、試行でやってみた「手紙」という素材もそうですし、今回の花押も然りです。福岡の古写真を読み解いていきたいとも考えてますし、選択的夫婦別姓の議論も進んでいますが、そもそも「名前」というのは何なのかといことも取り上げたいと考えています。おっと・・・また長くなってきそうなので、今回はこのあたりにしておきます。ではまた。
福岡市博物館総館長 中野 等
2025年4月25日金曜日
【『ふくおか歴史探検隊』間もなく発売!】マナブンと謎解き探検に出かけよう!
このたび、市史編さん室が作るブックレット・シリーズの新刊、『ふくおか歴史探検隊』が4月30日に発売になります !
『新修福岡市史ブックレット・シリーズ』もこれが3冊目。
第1弾は『わたしたちの福岡市―歴史とくらし―』と題して、小学校3年生~6年生で学習する内容(市の様子の移り変わり・身近な地域や市区町村の様子・地域に見られる生産や販売の仕事・人々の健康や生活環境を支える事業・県内の伝統や文化、先人の動き・県内の特色ある地域の様子・我が国の歴史上の主な事象)をベースにしながら、福岡市域のさまざまな事象を1冊にまとめました。
そして第2弾は『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』。
こちらは第1弾とうってかわって、福岡市内の狭い地域をググッとズームアップして、その歴史を掘り下げるというものでした。
この本では埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」を取り上げ、シーサイドももちとその周辺の前史から現代までをマニアックに深掘り。博多・天神とは違う歴史をたどってきたシーサイドももちを見ることで福岡市全体が見えてくるというものでした。
また、こちらのブログでも書籍『シーサイドももち』には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを【別冊シーサイドももち】として紹介していますので、ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
※【別冊シーサイドももち】はコチラをクリックするとご覧いただけます。
そして3冊目となるのがこの『ふくおか歴史探検隊』。
この本は、小学生の皆さんにもぜひ読んでもらいたい! という思いで作りました。
本の中では「てるお」と「もも」という2人の小学生が、案内役の「マナブン」に連れられて、福岡市内のいろいろな場所へと出かけていきます。
そこで見た何気ない風景の中から「実は外国との交流で繁栄してきた福岡市の歴史が隠されている」ということを、読んでいる皆さんと一緒に解き明かしていくというストーリーです。
「歴史」に苦手意識があり、「覚えることが多そう!」「役に立つの??」と最初は面倒くさそうな様子の小学6年生コンビのてるおともも。
そこへ、歴史を学ぶ楽しさを広めるためにどこからかやって来た「マナブン」が登場し、「なんで歴史を学ぶの?」という2人の疑問に答えるため、わたしたちの身近なところに隠れている歴史のヒントをめぐる探検に連れ出します。
福岡市を舞台にした2人(3人?)の歴史探検は、古い時代から順に進んで行きます。
そして、この本の大きな特徴の一つはそれぞれの「Q」(時代)にまつわる「物」を実物大で掲載しているところです。
たとえばコチラ。
これは、板付遺跡(博多区板付)の水田跡から見つかった「弥生人の足跡」を型に取ったものです。
本の見開きいっぱいの足跡、本の横の長さが30cm弱なので、その大きさはだいたい21~22㎝くらいでしょうか。
こうしてみると、だいぶ小さいですよね。
現代でいうと、小学5年生の男の子、または小学6年生の女の子の平均的な足の大きさが、だいたいそのくらいだそうです。
ということは、てるおやももと同じくらいの足の大きさかもしれませんね!
次はコチラ。
福岡市博物館にある、有名な「国宝 金印「漢委奴国王」」です。
教科書などにも掲載されているので、多くの人が見たことがある国宝だと思いますが、その大きさは意外と小さく、1辺が約2.3㎝!
さきほどの足跡と比べてもその小ささがお分かりいただけると思います。
現物をご覧になった方の多くは、まず「思った以上に小さい!」という感想を持つ、でお馴染み(?)の金印も実物大サイズで掲載しています。
ちょっと変わったところでは、コチラも実物大で掲載しています。
こちらは天正年間(1573年~1591年)に豊臣秀吉が作らせたという金貨です。
金貨としては世界最大級で、その大きさはなんとタテ約17cm、重さは165g!
黒田長政(1586年~1623年)が息子たちに遺した莫大な軍資金の一部で、贈答品などにも使われたのだそうです。
さて、てるおとももはこのような福岡市にまつわる実際の歴史資料を見ながら、マナブンの案内でそれぞれの「Q(ギモン)」にちなんだ場所や物を追いかけながら福岡の街を探検します。
たとえば「Q5 「コーロカン」って何?」で2人がギモンを持ったのは、地下鉄赤坂駅近くにある「福岡城・鴻臚館前」というバス停です。
また「Q9 「タイコー○○」って何?」では、早良区原4丁目にある「太閤道通り」の看板から謎解きが始まります。
そこにも歴史にちなんだ名前がたくさんあります。
※くわしい謎解きの続きは、ぜひ本編でお確かめください!
このように、福岡市内の街角にある何気ない風景がたくさん登場するので、読んでいる皆さんも日常的に接していて、「見たことがある」「聞いたことがあった」、でも改めて考えてみると一体なんのことだろう…? と感じるものもあるかもしれません。
そんな気づきや何気ない「Q」を掘り下げることから福岡市の歴史が見えてきて、歴史というのはそんなに難しいものではなく、意外と身近にあってわたしたちの生活につながっているということが実感できるかも。
この本は、福岡市のまちをてるおともも(とマナブン)の目を通して一緒に探検することで、読み終わった後には皆さんが知っているいつもの風景がちょっと違ったものになる、そんな発見のきっかけになればいいなと思っています。
福岡の歴史のナゾを解き明かし、未来について考えよう!
『新修福岡市史ブックレット・シリーズ』第3弾となる『ふくおか歴史探検隊』では、2人の小学生「てるお」と「もも」が、街角の何気ない風景のなかに、実は外国との交流で繁栄してきた福岡市の歴史が隠されていることを、読者と一緒に明らかにしていく内容です。
『新修福岡市史ブックレット・シリーズ』は、福岡市博物館ミュージアムショップのほか、全国の書店やオンライン書店で販売の予定です(発売日:4月30日予定)。
この本のくわしい内容については、コチラをクリックすると目次などの紹介ページがご覧いただけます。
また、『新修福岡市史ブックレット・シリーズ③ ふくおか歴史探検隊』は、福岡市教育委員会が提供する「福岡 TSUNAGARU Cloud」でも公開しています(ご利用に当たっては一部、Googleのアカウントが必要な場合があります)。
地域学習などの教材として、また自由研究や郷土史研究などにぜひご活用ください。
(文責:加峰)
2025年4月11日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈104〉第1次西新元寇ブームの熱狂 ー元寇防塁今昔③ー
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
第1回(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
増刊号(「はじめてのテレビ取材!」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回 (「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回 (「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回 (「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回 (「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回 (「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回 (「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」
第41回 (「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回 (「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回 (「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回 (「百道海水浴場はどこにある?」)
第45回 (「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」)
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)
第49回(「福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―」)
第50回(「百道から始まる物語 ~「水泳王国・福岡」の夜明け前 ~」)
第51回(「よかトピアのトイレと日陰の話」)
第52回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正編~」)
第53回(「リゾートシアターは大忙し ―よかトピアのステージ裏―」)
第54回(「ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―」)
第55回(「34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした ―電話やカメラや灰皿の話―」)
第56回(「百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは」)
第57回(「キャラクターが大集合した「いわたや(岩田屋)こどもかん」と、ついでによかトピアの迷子事情も」)
第58回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編①~」)
第59回(「巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)―」)
第60回 (「西新町に監獄ができるまでの話」)
第61回 (「鳥のグッズを開封、そしてシンガポールからはバードショーもやってきた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(2)―」)
第62回 (「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈前編〉」)
第63回 (「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈後編〉」)
第64回(「よかトピアの海上レストラン ―マリゾン(1)―」)
第65回 (「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編②~」)
第66回 (「子象のタクシー、初乗り100円でシーサイドももちをご案内 ―よかトピアの象のはなし ―」)
第67回 (「船で、飛行機で、データで、電波で、人の手で、福岡と世界を結んだよかトピアのパビリオン ―マリゾン(2)―」)
第68回 (「よかトピアはドームつくりがち」)
第69回 (「シーサイドももちはMVステージ(その1)」)
第70回 (「シーサイドももちはMVステージ(その2)」)
第71回 (「百道松原を買った藤金作(その1)― 西新爆上がりの回 ―」)
第72回 (「百道松原を買った藤金作(その2)― 元寇防塁発見の回 ―」)
第73回 (「サザエさん通りの生い立ち ―「プレ・サザエさん通り」と波瀾万丈の元寇防塁 ―」)
第74回 (「最初の海の家「設備屋」の行方と西南学院のキャンパス」)
第75回 (「百道に計画されていた幻の国際飛行場」)
第76回 (「ガワラッパのネッキ、ミズチと戦う ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その1)―」)
第77回 (「ドラえもんが水のことを教えてくれた日 ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その2)―」)
第78回 (「修養の殿堂、百道に建つ~射撃場跡地にできた社会教育会館~」)
第79回 (「まっすぐ過ぎる道路~百道に残る四角い街区のナゾ~」)
第80回 (「シーサイドももちにはお金が置いてある ―ヤップカヌー外伝(その1)―」)
第81回 (「ルッパン船長とヤップのダンスチーム、よかトピアを飛び出してダイエーに行く ―ヤップカヌー外伝(その2)―」)
第82回 (「シーサイドももちの緑地さんぽ① ~地行浜&海浜エリア編~」)
第83回 (「小学校の体育用具倉庫で山笠のムルティをつくってほしい ―よかトピアで大活躍だったインド(その1)―」)
第84回 (「シーサイドももちの緑地さんぽ② ~百道浜エリア編~」)
第85回 (「あるときは少年が空中に浮き、あるときはバラタナティアムやカタックを舞う ─よかトピアで大活躍だったインド(その2)─」)
第86回 (「「この楽しさにあなたの首は耐えられますか?」─よかトピアの九州電力パビリオン(その1)─」)
第87回 (「スーパーシップ9、九州を乗せてフランスへ飛んでいく―よかトピアの九州電力パビリオン(その2)―」)
第88回 (「70年続く伝統の林杯ヨットレース ― 百道とヨット① ―」)
第89回 (「海水浴場の安全をまもった〝百道の王〟」)
第90回 (「スーパーシップ9の「9」は九州のキュー(たぶん)―よかトピアの九州電力パビリオン(その3)―」)
第91回 (「昭和20年代の博多湾クルージング─百道とヨット②─」)
第92回 (「え、今度はガメラとギャオスですか!?―屋根に穴があいた福岡ドーム(その1)―」)
第93回 (「百道良いとこ一度はおいで! ―福利厚生の場としての百道①―」)
第94回 (「四島さんの「二宮佐天荘」と百道 ―福利厚生の場としての百道②―」)
第95回 (「防塁線を駆け抜けろ! 観光コンテンツとしての元寇 ―元寇防塁今昔①―」)
第96回 (「別冊シーサイドももち的にG1(『ガメラ 大怪獣空中決戦』)を見てみた ―屋根に穴があいた福岡ドーム(その2)―」)
第97回 (「百道の海岸はお相撲銀座~百道と相撲にまつわるエトセトラ~」)
第98回 (「うちの球場は屋根を開けたり閉めたりできるんです ― 福岡ドームをつくる(その1)―」)
増刊号 (「まちの移り変わりをシーサイドももちから考える~福岡教育大学附属福岡小学校の授業から~」)
第99回 (「今年で元寇750年を迎える運びとなりました ―元寇防塁今昔②―」)
第100回 (「100回記念なので ”数" をかぞえてみました。」)
第101回 (「よかトピア遺産に会いにいく ―人気のご当地スーパーA-Zに謎の大蛇が生き続けていた編(その1)―」)
第102回 (「福岡刑務所があった時代を思いながら跡地を歩く―尹東柱と福岡刑務所―」)
第103回 (「よかトピア遺産に会いにいく―人気のご当地スーパーA-Zに謎の大蛇が生き続けていた編(その2)―」)
〈104〉第1次西新元寇ブームの熱狂 ー元寇防塁今昔③ー
百道を語る上で欠かせない要素の一つである「元寇防塁」。
13世紀に日本は元軍(モンゴル帝国)による二度の襲来を受けました。これがいわゆる「元寇(蒙古襲来)」です。
こちらの連載でも何度も登場していて恐縮ですが、元寇防塁とは文永11(1274)年の蒙古襲来を受けて幕府が博多湾の海岸線に築いた「石築地(いしついじ)」のことで、「元寇防塁」という名前は、明治後期から昭和前期にかけて活躍した病理学者で考古学者でもあった中山平次郎氏が名付けたものです。
また、この様子を描いた竹﨑季長の絵巻「蒙古襲来絵詞」はとても有名なので、元寇といえば「あの絵」を思い出す方も多いでしょう。
こちらのブログでも「元寇防塁今昔」と題して、これまで2度ほど元寇防塁とその周辺にまつわるお話をご紹介してきました。
1回目は大正9(1920)年に西新の元寇防塁が発見され注目度が一気に上がってからのこと。昭和6(1931)年に国史跡に指定されてからは元寇防塁が福岡市の重要な「観光コンテンツ」の1つとなり、観光絵図に描かれたり、元寇防塁の地を走る「元寇マラソン大会」が開催されたというお話でした。
2回目は、昨年2024年が弘安の役(1724年)から750年に当たる年だったことから、西新周辺で行われたさまざまな元寇関連の記念行事について取材したレポをお届けしました。
元寇防塁が最初に発見されてから今年で112年(大正2〈1913〉年/今津)。
この史実はよほど日本人の心に刺さるのか、この100年の間に幾度かの「元寇ブーム」が起こっています。
その波は現代も続いていて、数々の小説やマンガ、そしてゲームの題材になり、年齢を問わず人気を博しています。
最近では脚本家で演出家、映画監督でもある三谷幸喜さんが主宰する伝説の劇団「東京サンシャインボーイズ」30年ぶりの復活公演が「元寇」を題材としたものと発表され、個人的にはひっくり返るほど驚きました(ちなみに舞台は壱岐だそうです)。
そんな、いつの時代も日本人の心を捉えて放さない(?)「元寇」ですから、防塁が発見された当初は西新町の一大トピックとして盛り上がりを見せていたようです。
西新と元寇とミヤ女史
百道(百道原)など西新に関する地名は絵巻「蒙古襲来絵詞」にも登場しますので、昔から西新の人々は元寇とのつながりを感じていたようです。
実は元寇防塁が発見される前から、すでに西新には「元寇神社」が建立していました。
現在も元寇防塁史跡の隣に建つ元寇神社ですが、同社を管理する紅葉八幡宮によれば、その始まりは大正7(1918)年といいます。
そこには西新出身の超有名人であった頭山満も関係していたそうで、元寇神社の建立はその頭山を筆頭に、西新町神道婦人会会長だった藤井ミヤさんら有志による発案と言われています。
さらにこの藤井ミヤ女史、なんとその翌年の大正8(1919)年には、時期は不明ですが、自身の夢枕に「白馬に跨がり修羅の姿で霊が現れ」たことから、現在の防塁跡がある北側の松林で慰霊祭を行うことにしたのだそうです(『西新―福岡市立西新小学校創立百周年記念誌―』)。
※ この年の6月には西南学院の敷地内で西新町の元寇防塁発見第1号となる防塁の痕跡が見つかっているので、ミヤ女史の夢枕の話はこの発見を受けてのことかもしれませんが、その辺をあまり突っ込むのは野暮というものかも…。
こうして持ち上がった慰霊祭の実現に向け、ミヤ女史たちは西新町の全戸を当たって寄付金を集め、また一部の篤志家から出資を募り、同年の10月20日には盛大な慰霊祭を成功させたのだそうです。
ちなみに大正8(1919)年の西新町の戸数は、『早良郡誌』の記述によれば1484戸だったそうなので、それを1戸1戸まわったと考えると、それだけでも相当な労力だったことが伺えます。
そして翌年の大正9(1920)年10月30日、のちに国史跡指定となる西新町の元寇防塁が発見されることになります。
突然の元寇神社建立から1~2年の間に防塁が発見される…。
しかも大正9年に見つかった防塁は、弘安の役が起こった10月に発見され、さらにその発掘事業は教育勅語下賜三十年を記念して行われた西新尋常高等小学校(現・西新小学校)の式典の一環で、実際に掘り出したのは西新小の児童たちだったというのですから、ここまで来ると、何とも出来すぎたお話のようにも感じてしまいます(心の目が曇っているので)。
この発掘を指揮したのは、当時筑前史談会のメンバーでもあり、今津史跡保存顕彰会会長として今津に元寇の碑を建てた郷土史家の木下讃太郎氏(かつて西新高等小学校の准訓導だったこともある)だったので、発掘自体は「たまたま」の発見ではなく、ある程度計画的なものだったのかもしれませんが。
とはいえ、西新町と元寇にとってこの時期は、まさに劇的な2年間だったということは間違いなさそうです。
元寇記念会による招魂祭
さて、こうして西新でもめでたく元寇防塁が発見されたわけですから、それを地元の皆さんが黙って見ているわけはありません。
実はこの掘り出された元寇防塁は私有地にあったため、当時からその保存について危惧する声が上がっていました。
そこで大正10(1921)年3月には当時の早良郡長である川端久五郎を会長として、早良郡の有志が集まり「元寇記念会」が発足しています。
記念会は主に西新町役場を会場として、その保存方法などについて協議が行われたそうです。
ちょっと話は逸れますが、この元寇防塁が見つかった「私有地」を所有していたのは、明治時代から百道松原の土地をいくつか所有していた代議士の藤金作です。
藤金作と百道についてはこのブログでもさまざまなところで紹介していますが(それだけ西新町と藤金作は深い関わりがあるわけでして…)、中でも元寇防塁の土地にまつわるお話はこちらで紹介しました。
さらにさらに、ここで登場する郡長の「川端久五郎」の名を覚えている方がもしおられたとしたら、それは相当の【別冊シーサイドももち】フリークですね(いるのか、そんな人)。
川端久五郎は以前こちらで紹介した「百道女子学院」を創設した調須磨(しらべ・すま)さんの伯父で、須磨さんを何かと支援していた人物でした(覚えてます??)。
こちらの話はまだ分からない事も多いのですがとても興味深いので、ぜひコチラをご覧いただければと思います。
閑話休題。
完全に話が逸れました。話は元寇記念会に戻ります。
こうして発足した元寇記念会は、史跡保存のほかにも、大規模な招魂祭の開催を計画しました。
招魂祭は会が発足した翌月に開催されているのですが、これがなかなか大規模なもので、百道松原を会場に、4月20日・21日の2日間にわたって開催されています。
元寇招魂祭の全貌
4月20日の招魂祭の様子は当時の新聞に詳しく紹介されています。
まず、冒頭からいきなり太刀洗飛行場より航空隊の飛行機2機が飛来、3千メートルの高さからの急降下や旋回飛行を繰り広げ祝意を表しました。
来賓は川端郡長のほか、当時の安河内県知事、町村長総代、軍からは旅団長や師団長などが臨席。
招魂祭の祭式は鳥飼八幡宮の宮司が執り行っています。
そして注目すべきは壱岐村の村会議員だった土斐崎三右衛門が「文永の役の〝遺族代表〟」(「筑前高祖城主原田種輝二十七代の末裔」とある)として臨席し、謝辞を述べていることです…!
「文永の役の〝遺族代表〟」とはなかなかのパワーワードですが、ここから昭和10年代に行われた元寇にまつわる慰霊祭や招魂祭ではたびたびこうした「遺族」という立場で式に参列する例が見られます。
いまではとても想像できませんが、かつては元寇ももっと地続きなものだったのかもしれませんね。
そして式典に多くの集まった一般参拝者以外に、多くの児童・生徒たちが動員されました。
福岡師範学校のほか、近隣の中学修猷館(現・修猷館高校)や西南学院をはじめ、早良郡内の小学生らなんと約3千人が学校単位で参拝したといいます。
さらに午後からは福岡聯隊第一大隊による大規模な攻防演習が百道松原を舞台に行われ、2日間は大熱狂のうちに幕を閉じたということです。
元寇殉難者のための言わば慰霊祭なのでしょうが、まるでお祭りのようですね。
また「招魂祭」ということから、西新町では各地区ごとに「曳台」と呼ばれる飾り物を用意し、町内を練り歩きました。
新聞記事に残る各地区の曳台は次のようなものが紹介されています。
亀山上皇の宇佐八幡宮祈願
力士に見立てた日本と蒙古(日本山と蒙古山)が相撲を取り、日本山から蒙古山が投げられる場面
将軍北条時宗凱旋の光景
鎧武者が牛の子を突き殺す場面(牛の子=モウ子=蒙古)
なぜ「招魂祭といえば曳台」?
またまた話はわき道に逸れますが、福岡で「招魂祭」と言えば、もともとは明治28(1895)年11月に行われた、日露戦争の戦病死者のための鎮魂祭がその始まりと言われています。
当時の鎮魂祭は福岡城跡を主会場に歩兵第二十四聯隊主導で行われ、儀式だけでなく競馬や花火、さらには舞台や見世物興行が行われたのですが、そこに町の人々による「曳台」が登場します。
曳台は主に軍事や故事、また武将や合戦などに題材をとり、その場面を人形や背景の書き割りで表現した飾り物です。
町ごとに趣向を凝らした曳台は町々を練り歩き、以後鎮魂祭には欠かせないものとなりました。
この鎮魂祭は明治34(1901)年からは「招魂祭」と名前を変え、また日程も年々変わって、西新の元寇招魂祭が行われた大正10(1921)年には、靖国神社の春季大祭日である4月30日・5月1日の実施となっていました。
こうしたことからも、当時は「招魂祭といえば曳台」ということで、元寇招魂祭でも西新町の人々が曳台を作ったのだと思われます。
また、この年に元寇招魂祭が行われたのが4月というのもちょっと気になります。
元寇に関係する日付と考えると10月や11月に行いそうなものですが(実際に現在の元寇神社の祭礼日は10月20日に設定されています)、この頃はもしかしたら招魂祭にあわせて4月に実施したのかも…と思ったのですが、実際のところはよく分かりませんでした。
(後で出てきますが、今津の招魂祭は逆に10月から4月に日程を変えていますし…謎です)
いったん整理しましょう
ここまで見て来た元寇発見とそれにともなう元寇ブームですが、時系列で見ると次のようになっています(国史跡指定まで)。
ここでいったん整理しておきましょう。
10月
※大正15年からは4月20日に改め「元寇記念祭」として実施
11月
7月1日
非常にざっくりですが、こんな感じでしょうか。
…おや? まだこれまでにご紹介していない話がいくつか出て来ましたね。
ご紹介したように、西新町では(比較的)平和に盛り上がった元寇ブームなのですが、その一方で、元寇論争はさまざまな騒動(ケンカ)を巻き起こしていたようなのです。
そのお話については、またいずれ「元寇防塁今昔④」としてご紹介できればと思います。
・大正8年6月25日『福岡日日新聞』朝刊4面「福岡百道松原に元寇防塁発掘 西南学院敷地内の史跡 高四尺五寸幅一丈二尺五寸の石塁」
・大正8年10月26日『福岡日日新聞』朝刊7面「元寇襲来活動撮影」・大正9年10月31日『九州日報』朝刊5面「元寇防塁を掘出した 昨日の記念式挙式の記念に昨日見事なものを発掘」・大正10年3月17日『福岡日日新聞』朝刊3面「元寇防塁保存の為記念館(会ヵ)を組織」・大正10年4月19日『福岡日日新聞』朝刊7面「元寇殉難者招魂祭 明日百道浜にて執行 二機の弔魂飛行」・大正10年4月20日『九州日報』朝刊4面「元寇招魂祭の造り物の意匠 各町の肝煎り 中々に素晴らし」・大正10年4月21日『福岡日日新聞』夕刊2面「百道の元寇祭 防塁前に殉難招魂祭式 早良全郡の賑ひ」
・国立国会図書館「近代日本人の肖像」 https://www.ndl.go.jp/portrait/
・「元寇殲滅之處」碑文(福岡市西区今津)・「元寇神社由緒」(元寇神社御朱印)