2024年4月12日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈075〉百道に計画されていた幻の国際飛行場
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈075〉百道に計画されていた幻の国際飛行場
「むかし、百道の海岸には飛行機が離発着していた」
というお話は、以前こちらのブログでもご紹介しました。
今年は百道に水上飛行機が飛来して、ちょうど100年を迎えます。
100年前の4月11日、別府(大分)―百道(福岡)間の航空路開きが行われ、その4日後の4月15日には大規模な「披露飛行大会」も開催されました(この飛行大会の詳細は、上記のブログ記事をご覧ください)。
100年前の百道の春は、さぞかし飛行機フィーバーに沸いていたことでしょう。
福岡の飛行場といえば、現在はもちろん福岡空港です。住所としては博多区下臼井にあります。
福岡空港は市街地からとても近く、地下鉄に乗れば博多駅まで5分、天神まででも約10分で行くことができるという、全国でも有数のアクセスの良さで知られています。
空港が現在の場所に作られたのは、昭和19(1944)年。当時は陸軍の施設で「席田(むしろだ)飛行場」として建設されました。
戦後は周辺の土地とともに米軍に接収され「板付飛行場」となり(板付基地)、昭和47(1972)年の返還によって正式に「福岡空港」となりました(コールサインも「フクオカ」に)。
以前ご紹介した通り、そんな福岡の空港の歴史は、実は百道から始まっています。
1903(明治36)年にライト兄弟が有人飛行に成功してから後、大正時代になると日本でも民間による航空機飛行が行われるようになりました。
大正9(1920)年には陸軍省の外局として内閣航空局が設置され※、翌年には航空法(法律第54号)が公布。大正11(1922)年には日本航空輸送研究所ができて、水上飛行機による定期輸送が始まっています(堺―高松間)。
※ 内閣航空局はその後、大正12(1923)年には逓信大臣管理下に置かれ、翌13(1924)年には内閣航空局は廃止となり、逓信省航空局が設置されました。
百道に水上飛行機の発着場ができたのはそれから間もない大正13(1924)年のことですから、かなり早い時期に福岡にも飛行機がやって来ていたことになります。
ところがこの水上飛行場は、何度か飛行機の離発着はあったものの、航空路開きからわずか4ヶ月半の9月2日には発着場が入船町(現在の中央区港)に移転してしまいました。
以前のブログでは、百道では移転後も日本航空株式会社(現在の日本航空とはまったくの別会社です)による遊覧飛行が行われ、水上飛行機の離発着が行われていたことをご紹介しました。
ではなぜ日本航空は飛行場が移転した後も、百道で水上飛行機の離発着を続けていたのでしょう?
それには理由がありました。
百道に飛行場ができ、そしてなくなったのが大正13(1924)年ですが、その後、国は福岡に国際飛行場を設置する計画をたてており、実は百道はその候補地の一つに選ばれていたのです。
この辺りの経緯については、実は先日われわれが刊行した『新修 福岡市史』の「資料編 近現代3 モダン都市への変貌」(2024年3月、福岡市)に収録した資料に見ることができます(福岡県特定歴史公文書1-1-0005887『福岡飛行場事績』)。
今回は、これらの資料から分かった飛行場候補地選びの経緯を具体的にご紹介したいと思います。
* * * * * * *
大正15(1926)年、逓信省航空局長が福岡県知事に「福岡市付近に飛行場の候補地を探すために11月24・25日に視察官を出張させるのでよろしくね」といった主旨の文書を出しました(大正15年11月20日付/空監第929号)。
文書の中に具体的な地名は見られませんが、実際には百道が視察の対象の一つだったようで、この出張の後、12月4日に逓信省の航空官が県の土木課長に宛てた手紙には「西新町の飛行場予定地」という言葉を使っていて、出張の際のお礼とともに、土地の買収額などより具体的な話を進めていた様子が書かれています。
さらにそこには「議会通過の折は明年四月より着工致す見込」とまで書かれており、内々ではかなり具体的に百道への飛行場建設話が進んでいたようなのです。
それでもほかに候補地がなかったわけではありません。
この時点で、
【A】百道松原海岸
【B】福岡港(日本航空株式会社の飛行場地)
【C】博多港
【D】地蔵松原(箱崎)
【E】香椎潟(名島)
【F】奈多村
【G】海の中道
以上の7か所が候補地として挙げられています。
その中でも百道が有力候補地とされた理由は次のとおりでした。
・【B】【C】【D】【E】は、土地および埋立ての権利買収に莫大な費用がかかるうえに、周囲の地勢が良くない
・【F】【G】は、交通が不便で地均しのために費用を要する
これらの理由から、【B】~【G】はいずれも「国際飛行場候補地として不適」として、やはり【A】の百道松原が最適!と結論付けています。
実はこの資料には図面までつけられており、そこには百道の海岸に具体的にどのような施設を建てるのかということまで示されていました。
こちらが当時の百道周辺の様子です。
この図面に飛行場の計画地を加えたものがこちら。
壮大!!
思ったよりもかなり広大な土地を計画地としています。陸上飛行場(予定)にいたっては、ペイペイドームの面積の約2倍にあたる広さです。
ちょうど現在の福岡市博物館南口(正面)あたりが水上飛行場の場所になります。
先ほどの計画図を見ても分かるように、水上飛行場(B地点)だけでなく、隣には陸上飛行場(A地点)も建てようとしていたんですね。
大正15(1926)年の逓信省の計画では、大正17(1928)年に水上飛行場が、翌18(1929)年には陸上飛行場を完成させる予定だったようです。
計画地のうち陸地の北側が民有地、南側は県有地でした。
西から、県有地→県庁官舎建設予定地→小学校(西新小学校)と続く部分は、元々陸軍の射撃場があった場所に当たります。
逓信省では、この時点で必要な土地の買収についての調査も進めていました。
土地の取得について逓信省では、坪単価「買収価格12円付近」で購入したいと再三言っており(本当に何度も資料に出てくる)、さらに飛行場建設に関して逓信省が視察をしている事についてはくれぐれも内密にし、また陸上飛行場建設が決まった暁には室見川河口の埋立の権利を民間に許可しないようにとも指示しています。
視察についてはこの件が外に漏れると地価の引き上げにもつながるかもしれず、そうなると坪12円での取得が難しくなるかもしれない、といった思惑があったからでしょう。
かなり本気で百道に飛行場を建設しようと根回ししていたことが分かります。
この辺りの土地の話は、これまでこのブログの記事でご紹介してきた、明治~大正時代の百道松原の土地のお話ともつながりそうですね。
土地のお話についてはこんな感じで少々込み入っていますので、また改めて詳しくご紹介したいと思います。
さて、翌年から工事を開始する予定だっただけに、水上飛行場(B)については大正15(1926)年の時点で、すでに「どの辺りにどういった施設を作るのか」といった計画まで作られていたようで、資料にはそのための簡易な図面も残されています。
具体的に水上飛行場内に建設を予定していた施設は次のようなものでした。
道路 750坪(幅5間の道路150間)
滑走台 3個
信号柱 1本
事務所 60坪
格納庫 500坪
倉庫 40坪
自動車庫 10坪
ガソリン個 5坪
飛行機付属設備(井戸、計量器、修正台)
無線電信庁舎 120坪
無線電信官舎 240坪
気象観測所庁舎 100坪
気象観測所官舎 250坪
これらを先ほどの地図に落とし込むとこんな感じの配置です(主なもののみ)。
なかでも目を引くのは「鉄塔」です。
これは無線電信のための鉄塔で、50mのものを1本、60mのものを2本建てようとしていました(手前の60m鉄塔は県庁官舎予定地と小学校のいずれかに1本建て、これがいずれもできなければ水上飛行場予定地内に建設する、ということだったみたいです)。
60mの鉄塔て!
ビルにすると20階ほど、福岡市内だとアクロス福岡くらいの高さです。
よく山間部などに建っている、送電用の鉄塔の中サイズ(220kV程度)がだいたい50mだそうですから、その大きさが分かると思います。
それが百道の海岸に3本も4本も建っていると思うとかなり異様ですし、「白砂青松」とは真逆の光景です。
この点については文書でも「多少風致を害するやも知れず」と触れられているのですが、その後に続くのは「承知置かれたし」の一言のみ…。
しかもこれ、計画地は西新小学校の真裏に当たりますが、騒音なんかもありそう…と思ったところ、それについても言及がありました!
「飛行場付近の学校に対し、飛行機の爆音が教務時間中多少の邪魔をなす恐れあり」
そうでしょう、そりゃそうでしょう。
ですが、その後に続くのはやっぱり「予め承知置かれたく」で終わり。
現代では考えられませんよね。
このように、大正15(1926)年の年末までは順調に計画されていた百道の国際飛行場ですが、年が明けた昭和2(1927)年になると風向きが変わってきます。
同年の8月、逓信省航空局長から福岡県知事に出された「水上飛行場設置に関する件」という文書(昭和2年8月18日付/空監第510号)を見ると、またもや「福岡市付近に飛行場の候補地を探すために8月22日頃に職員を出張させるのでよろしくね」と書かれています。
…あれ?? 話、最初に戻ってない????
これは最初に紹介した文書(大正15年11月20日付/空監第929号)と同じ内容じゃないですか…。
これ以降の資料では、百道は一切なかったことになっており、昭和2(1927)年8月31日の逓信省航空官から県の土木課長に宛てた手紙では「名島黒崎北岸(当方電力発電所裏)に水上飛行場設置に関し…」と、完全に候補地が「名島」に変わっているのです…!
これは最初に出された候補地のうち、「香椎潟」にあたります。
名島が選ばれたのには理由がありました。
そもそも名島沖は東邦電力が発電所建設のために埋立てを計画しており、周辺の漁業権者との交渉も済み、用地買収や補償についても話し合いが完了していました。
そこへ飛行場を作るに際して多少の費用はかかるものの、なにより権利関係が整理されているというのは、逓信省にとっては魅力だったのでしょう。
こうして結局昭和2(1927)年の11月には名島に飛行場が作られることが決定し、動き始めたのでした。
* * * * * * *
またもや「幻の百道開発史」に加わった「百道に国際飛行場があったかも」というお話。
これらの資料だけでは、具体的にいつ百道案が廃案になったのか、その具体的理由ははっきりとは分かりません(名島決定のポイントとなった権利関係がネックだったのかもしれませんが…)。
でも、もしこれが実現していたら、百道の浜には60mの鉄塔や格納庫が林立していたかもしれず、そうなると百道が誇った「白砂青松」はすっかり消え、百道海水浴場、ひいては現在のシーサイドももちも、今とはまったくちがう姿になっていたかも…。
そう考えると、これもまた良かったのかもしれませんね。
#シーサイドももち #百道 #水上飛行機 #福岡飛行場 #名島飛行場 #あったかもしれない歴史
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
2024年4月5日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈074〉最初の海の家「設備屋」の行方と西南学院のキャンパス
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈074〉最初の海の家「設備屋」の行方と西南学院のキャンパス
埋め立て地のシーサイドももちは、かつての百道海水浴場の姿を読み込んでできたまちです。
百道海水浴場は大正7(1918)年に登場して以来、時代ごとに流行りのエンタメをつめこみながら、おおいに賑わいました。
その様子は『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』に載せた「百道海水浴場年表」でふり返ることができます(57年分の新聞をひっくり返して調べあげた大労作です!)。
年表のうち、大正時代はこちらのブログでもご紹介。
ところが、昭和40年代に水質の悪化が深刻になって、ついに昭和50(1975)年には開場できず、百道海水浴場は事実上の閉鎖になってしまいます…。
その景色と賑わいを、かつての海水浴場の海を埋め立ててできたシーサイドももちに投影したのが、マリゾンがある海浜公園というわけです。
めでたしめでたし。
いやいや、いやいや。
そうなると、海は埋め立てられましたけど、浜辺にたち並んで、たくさんの海水浴客を迎え入れていた海の家がどうなったのか、その行方が気になってしまいます…。
海水浴客の思い出によく登場する「ピオネ荘」のことは、その変わった名前の謎解きとともにこのブログですでに紹介しましたね。
平成もミレニアムも超えて、最後まで残った海水浴場旅館でした。
詳しくはこちらをどうぞ。
そういう海の家のその後の姿は、本では紹介するページが足りなくて、あまり触れられなかったのです(残念…)。
なので、今回はその一例をご紹介。
というのも、このブログではシーサイドももちが参照したまち=西新が百道松原から、だんだんと今の姿に近づいていく様子をここしばらく調べてきました。
海の家がそれにも関係していたことに気づいたからです。
最近調べた西新のことはこちらをご覧ください。
そのなかでキーパーソンとなっていたのは西南学院でした。
徐々にキャンパスを広げていくなかで、藤金作の松原が高騰していたり、元寇防塁が見つかって国の史跡になったり、西新とシーサイドももちをつなぐ現在のメーンストリート「サザエさん通り」ができたりと、いろいろな出来事が派生して起きていました。
そのしだいに大きくなっていったキャンパスは、現在では西南学院大学の東キャンパス・中央キャンパス・西キャンパスにそれぞれ受け継がれています。
位置関係はおおよそこのようになります。
なかでも東キャンパスは西南学院が西新にはじめて校舎を建てた場所です。
大正6(1917)年に九州電灯鉄道(現在の西鉄の前身会社の1つ)からこの土地を購入しました。
ただ、このときの校地は現在の東キャンパスの全部ではなくて、南側半分の1万98000㎡(6000坪)だけでした。
今の大学博物館(当時はここが本館)や西南クロスプラザ(一般利用も可能な食堂があります)などが建っている場所ですね。
西南学院大学のキャンパスマップはこちらをご覧ください。
さて、ここからが今回の話。
昭和4(1929)年、校地に隣接していた東邦電力の土地が住宅として一般に売りに出されるという話がもちあがりました。
東邦電力は、先ほどの九州電灯鉄道が合併してできた会社です(なのでこちらも西鉄の前身会社の1つ)。
西南学院ではこの土地の購入を急ぎます。
翌年の昭和5(1930)年には、東邦電力から約3000㎡(899坪)を購入するよう進めましたが、当時は世界恐慌と昭和恐慌のころ。
寄付金が思うように集まらず、購入費の調達にはかなりのご苦労があったそうなのです。
福岡市にも補助金を要請していて、『西南学院七十年史』にはその要望書が掲載されています。
それによると、数回にわたって西南学院と福岡市との間でやり取りがあったようで、順に概要をまとめるとこのようなことでした。
なるほど、西南学院としてはまとまった土地が必要になる運動場を増やすには、小規模の住宅が建て込む前のこのタイミングを逃すわけにはいかなかったのですね。
ところが西南学院と東邦電力との契約証書によれば、土地代金は約2万5000円と巨額だったそうです。
大正のころから西新の土地がさらに値上がりしていますし、ただでさえ時代は恐慌下…。
十分な寄付金が集まるはずもなく、福岡市からの補助金を頼るのも無理はない話でした。
結果ですが、西南学院は東邦電力に約1万4000円を内金として支払い、残金は昭和8(1933)年11月までの3回払いにしたとのこと。
この内金も銀行から借り入れたそうです(大変…)。
結局、このとき福岡市の補助金は実現しませんでした。
そこで西南学院は再度福岡市に願い出ています。
これに対して、福岡市からは次のような返答がありました。
ようやく補助金が約束されましたが、これだと1回限り、500円のみの補助。
そのため西南学院は補助の継続を願い出ましたが、それは実現しなかったようです。
補助金を得たとはいえ、先ほどの巨額な購入費と比べれば微々たるもので、借り入れの返済にあたっては大変な苦労があったことが想像されます。
当時、東邦電力はおおよそ900坪を2万5000円で売っていますから、西新の1坪の値段は27~8円くらいの計算。
そうすると、西南学院が無償で提供した土地が128坪なら、福岡市からはせめて128坪×28円で3500~3600円くらいの補助金はほしかったところではないでしょうか。
ところで、西南学院は補助金を要請した際に、かつて無償で提供した道路用地のことを考慮してほしいと言っています。
これは現在の「サザエさん通り」を指しています。
西新小学校を建設するにあたって道をつくったものでした。
そして結果的にはこの道が、今では西新とシーサイドももちをつなぐ重要な幹線道路、そしてまちを特徴付ける「サザエさん通り」に成長したのでした。
こうして世界恐慌のなか、なんとかキャンパスの拡張を果たした西南学院でしたが、これでも現在の東キャンパスすべてではありません。
この時点では、現在の東キャンパスの北側部分がまだ校地になっていません。
西南学院の運動場は中学部と高等部、それに夜間の商業学校が使うため、その後も変わらず手狭だったのですが、先ほど購入費の調達に苦労があったように、さらなる拡張は実現できないまま時間は過ぎていました。
ようやくあらたな運動場が取得したのは、昭和19(1944)年5月。
面積は1万9800㎡(約6000坪)でした。
『西南学院百年史』によれば、第二次世界大戦のさなか学校教練などが強化されたことによって、広い運動場を得ることが急務になったためだそうです。
購入費は宣教師がアメリカに帰国する際に寄付した土地の売却費15万円をあてることにしましたが、不足した5万円は父兄会からの寄付でまかなわれたとのこと。
当初は将来大学に昇格することなども考慮して、別の場所の購入も検討されていました。
現在の東キャンパスの東に隣接する空き地3万3000㎡(1万坪)に、総合グラウンドをつくることを考えていたそうなのです。
この空き地は、古くは競馬場があった場所で、昭和17(1942)年にはそこで大東亜建設大博覧会も開催されました。
この競馬場と大東亜建設大博覧会はこちらのブログが詳しいです。
ただ、その購入には40万円が必要とのことで断念されたのだとか。
この場所は今ではマンションや戸建てがならぶ住宅地になっていますので、こちら側にキャンパスが広がっていたら、西新の町並みはまた違う表情を見せたかもしれませんね。
海の家の話を忘れてるんじゃないか、とお思いの方。
すみません、ようやくここからです…。
この昭和19(1944)年の運動場の拡張で、現在の東キャンパスがようやく揃いました。
その北側はわずかな松林を隔てて、海の家が建ち並ぶ浜辺です。
実はこの東キャンパスの東側に沿う道は、昔から海水浴場に向かうメーンストリートになっていました。
路面電車が通る明治通りからシャトルバスが走っていたこともあるほどです。
海水浴客が浜辺までどういう道を歩いていたかはぜひこちらをご覧ください。
(地図と一緒に、実際にその道を歩いてみた動画もあります!)
このメーンストリートを通って、ちょうど海水浴場の入り口にあったのが、海の家「(江藤)設備屋」です。
「設備屋」のことももちろんこちらの年表で触れています。
「設備屋」は大正時代から続いた、百道海水浴場で初めての本格的な海の家で、入浴場の煙突が目印。
脱衣所や着物の預かりなどの設備はもちろん、戦前は糸島にある芥屋の大門まで遊覧船を運航するなど、海水浴場を盛り上げた店です。
『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』には、当時の「設備屋」を写真入りで紹介していますので、そちらもぜひご覧ください(所蔵者のご厚意で本に載せるためにお借りした写真ですので、ここには勝手に載せられなくて…)。
ちなみに国土地理院がウェブサイトで公開している空中写真を見てみると、現在の西南学院大学東キャンパスと「設備屋」にあたる場所はこんな感じです。
まずは第二次世界大戦が終わって3年後の昭和23(1948)年。
写真の上が海で、砂浜と松原を隔てて西南学院の運動場が広がっています。
写真の一番下には学院の本館(現在の大学博物館)も見えていて、ここまでが現在の東キャンパスです。
海辺には海の家がほとんどなく、まだ戦時中の閑散とした海水浴場の姿を留めていますね。
そんななかで、西南学院の運動場の北側に見えている1棟が「設備屋」です。
このときはぽつんと寂しげですね…。
次は昭和31(1956)年。
「設備屋」が増築してます!
さらに一目でまわりにも海の家が増えていることが分かります。
続いて、その5年後の昭和36(1961)年。
さらに海の家が建て込んでいます。
これくらいの時期が海水浴場の最盛期でしょうか。
最後は昭和50(1975)年。
ちょうど水質悪化で海水浴場が閉鎖するころです。
それを物語るように、すでに「設備屋」はなくなっていて、まわりにも空き地が増えています。
実はこの写真の少し前、昭和48(1973)年に「設備屋」は売りに出されていました。
これを購入したのが西南学院でした。
細い道を隔てて、西南学院の敷地が東キャンパスからさらに海水浴場の方にまで延びたことになりますね。
このとき西南学院が買った旧「設備屋」の土地は955㎡(289.39坪)。
まだ建物も残っていました。
「設備屋」は西南学院大学のクラブやゼミの合宿・コンパでも利用されていた場所でしたので、老朽化によって取り壊すことにしていたものの、改修して合宿・研修所にしたいという要望も出ていました。
ところが昭和49(1974)年に、隣接していた西南学院のヨット部の倉庫から出火し、その火で旧「設備屋」の建物も焼けてしまいました。
時期からすると、先ほどの昭和50(1975)年の空中写真は火事をうけて建物が取り壊された後になりそうですね。
その後、昭和54(1979)年になると、この旧「設備屋」の場所に西南学院大学の合宿研修所が完成しました。
この合宿研修所は今もありますので、行ってみました!
ちょっと引いて撮ってみます。
写真左の赤煉瓦塀が西南学院大学の東キャンパス。
写真の奥に向かってのびている道がかつての海水浴場へ向かうメーンストリートで、ちょっと不自然に道が曲がっているのも当時の名残りです。
写真に写っているあたりが、ちょうど海水浴場への入り口でした。
現在の合宿研修所(旧「設備屋」の場所)と、東キャンパスとの境の道がこれ。
写真左の赤煉瓦塀や高いフェンスで囲まれているのが西南学院大学の東キャンパスです。
昔は写真の右側にたくさんの海の家が建ち並んでいて、海水浴場が広がっていたことになります。
こうして見ると、今も松が残っているのですね。
この場所は最初に載せた地図でいうと、薄い赤丸のところになります。
このブログの〈044〉には、西南大の東キャンパスに沿っているかつてのメーンストリートを海水浴の場所まで歩いてみた動画ありますので、ここでもう一度見てみます。
明治通りの地下鉄西新駅をスタートして、しばらくは住宅街、それから左に西南大東キャンパスの赤煉瓦塀が続いて、合宿研修所(旧「設備屋」の場所)が現れ、その脇を抜けて、すぐに海水浴場があった海辺にたどり着きます。
動画が最後にストップしたところが海岸線です。
その向こうはかつての海で、今は埋め立て地のシーサイドももちが広がっています(境目がよかトピア通りです)。
ところでこの動画の最後には、よかトピア通りの向こうのシーサイドももち(かつての海のなか)に赤煉瓦の建物が見えています。
これは西南学院の小学校・中学校・高校の建物です。
よかトピア通りに沿って、かつての海水浴場と対面する形で校地が広がっています。
その東西幅はおおよそ海水浴場と同じくらいです。
『博多港史』によると、西南学院がこの校地を購入したのは昭和62(1987)年でした。
西南学院は南から徐々に東キャンパスを海側(北側)に広げてきましたが、ついには海の家も海岸線も越えて、埋め立て地のシーサイドももちにまでたどり着いたことになりますね。
このブログの〈071〉 〈072〉 〈073〉で調べてみた西南学院大学の中央キャンパスや西キャンパスもそうでしたが、都会の中で校地を確保していく難しさを感じる歴史でした。
かつては西新が福岡市の郊外だったのですが、しだいに住宅地になり、土地の値段も上がって都市になっていくなかで、さらに郊外に移転することなく西新にキャンパスを維持しつづけた西南学院は、修猷館とともに西新=文教地区というイメージをつくりました。
そしてこの文教地区のイメージは、西新につながった埋め立て地にも西南学院が校地を構えたことで、シーサイドももちにまで及んでいます。
まちのブランディングにも一役買ったと言ってよいのではないかと感じました。
なるほど、こうしてあらためて調べてみると、シーサイドももちが西新を参照したのは海水浴場だけではなかったのですね。
ほかの海の家の行方も何か分かりましたら、このブログでお伝えしたいと思います。
・西南学院学院史企画委員会編『西南学院七十年史』(西南学院、1986年)
・西南学院百年史編纂委員会編『西南学院百年史』(西南学院、2019年)
・『西新―福岡市立西新小学校創立百周年記念誌―』(福岡市立西新小学校創立百周年記念会、1973年)
・『九電鉄二十六年史』(東邦電力株式会社、1923年)
・東邦電力史編纂委員会編『東邦電力史』(東邦電力史刊行会、1962年)
・九州電力株式会社編・財団法人日本経営史研究所『九州地方電気事業史』(九州電力株式会社、2007年)
・西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会『西日本鉄道百年史』(西日本鉄道株式会社、2008年)
・『博多港史 開港百周年記念』(福岡市港湾局、2000年)
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[Written by はらださとし/illustration by ピー・アンド・エル]