2023年8月11日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈049〉福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった ―よかトピアの松下館(2)―
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈049〉福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―
どこの博覧会でも人気なのは企業グループの大きなパビリオン。
特に家電メーカーのパビリオンは、生活に密着している技術と品々であるだけに、新しい暮らしを身近に感じさせてくれて、たくさんの観客を集めるスター的な存在でした。
〈045〉で紹介したアジア太平洋博覧会(よかトピア)の「松下館」もそうした1つ。
この「松下館」は松下電器産業を中心に、九州松下電器など全部で15社からなる松下グループが出展したパビリオンでした(松下電器は現在のパナソニック)。
http://fcmuseum.blogspot.com/2023/07/0452100paf5221.html
松下グループのパビリオンといえば、1970年の大阪万博では、奈良時代のような建物が池に浮かぶおごそかな概観や、5000年後の人々に残した「タイム・カプセルEXPO'70」が話題になりました。
その後、どの博覧会に出展しても注目される存在になっています。
1970年の大阪万博の松下館についてはこちらに説明があります。
https://www.expo70-park.jp/cause/expo/matsushita/
タイムカプセルはこのサイトがさらに詳しいです。中身のリストがすごい…。
https://panasonic.co.jp/history/timecapsule/
定期点検用のカプセルは2000年に一度開封されました。次の点検は2100年とのこと(私はもう点検すら見られないことが確定です…)。
https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/chronicle/2000.html
ただ、よかトピア(1989年)の頃はプラザ合意(1985年)から続く円高…。
自動車や電機メーカーなど輸出企業は厳しい時期でした。
よくバブル景気のときだから当時の博覧会は華々しかったと言われたりもしますが、業種によっては、必ずしもそうとは限らなかったようです。
しかもよかトピアが開催された1989年は博覧会ラッシュ。
これは1989年に市制100周年を迎える都市が多かったことが関係していました(100周年が各市で重なっているのは、1888(明治21)年に制定された市制によって、翌1889年に40近くの都市がいっせいに市になったからでした。これは仕方ない…)。
1989年に博覧会を開いたのは、たとえば横浜・堺・姫路・広島・名古屋・鹿児島・静岡・甲府などなど。
どの博覧会も集客を期待できる人気企業にパビリオンを出してほしいのですが、企業側はとても全部に応じる余裕はありませんでした。
出展するにしても、博覧会の規模によって予算に差をつけることは避けられません…。
当時のアジア太平洋博覧会協会の事務局長草場隆さん、アジア太平洋ゾーンを手がけた貞刈厚仁さんのそれぞれの回顧によれば、よかトピアでも特に大企業へ出展をお願いするには大変な苦労があったようです。
特に福岡市よりもはるかに規模が大きく、開催期間も重なっている横浜市や名古屋市がよかトピアの前には立ちはだかっていました。
たとえば、松下館は名古屋市の「世界デザイン博覧会」にも出展しています。
「世界デザイン博覧会」は「ひと・夢・デザイン―都市が奏でるシンフォニー―」をテーマに、1989年7月15日から11月26日まで開催されました。
「世界デザイン博覧会」の公式記録からごく簡単にまとめると、名古屋の松下館はこのような内容でした。
「宇宙から地球への冒険旅行」
メインショーは、アドベンチャー・スペースシップ・シアター(巨大3面マルチスクリーン)での「宇宙から地球への冒険旅行」の上映。最初にパナソニックのロボット「スパーキー」から諸注意を受けて、いよいよ乗船(上映)。
時空は2100年の宇宙コロニー。人類は地球を休ませるために宇宙で暮らしていました。地球の様子を見るために、観客は宇宙船「パナファンタジア号」に乗り込みコロニーを出発。ところが突然の磁気嵐により、過去の地球に不時着してしまいます。故障を修理して、もとの時代にタイムトラベルしたものの、着いたのは何と1989年の「世界デザイン博」の会場でした…。(総入館者は121万5236人)
ん?
これって、よかトピアと同じではないです???
これ!
最後に不時着するのが、よかトピア会場か、デザイン博会場かの違いです…。
ちなみに横浜市の「横浜博覧会」の松下館も見てみます。
「横浜博覧会ーYES'89ー」は「宇宙と子供たち」をテーマに、1989年3月25日から10月1日まで開催されました。
「横浜博覧会」の公式記録によると、横浜の松下館はおおよそこのような感じです。
「スペース・マジカル・ショー 光と闇の伝説」
観客は宇宙船で宇宙旅行に出発。航行の様子はスクリーンに写し出されます。目的地の人工の光の楽園「ライトピア」に着く直前、隊員アイとノアに緊急避難の連絡があり、宇宙船はライトピアに光エネルギーを供給しているスペースコロニーへ。
ここでスクリーンが撤収され、ライブショーのシアターが出現します。以降は舞台で役者がアイとノアを実演。戦闘用ロボットに変身するクラスタービークル号が、舞台下から現れた光エネルギーを食べる怪物と戦います。そのなかで行方不明になってしまうノア。
舞台はライトピアへと移り、エレクトロニクスを駆使したステージ演出で、最後はライトピアに光エネルギーよみがえり、ノアも生還してめでたしめでたし。(総入館者は224万2926人)
よかトピアよりも演出が凝ってます…。
よかトピアのように映像だけじゃなくて、実演や光の演出もステージを盛り上げていたようです。
貞刈さんの本によれば、企業がパビリオンを出展する際の予算は、開催地周辺の人口から入場者数を仮定し、1名あたりいくらでかけ算をして算定されていたのだとか。
貞刈さんは横浜博を実際にご覧になり、企業パビリオンの規模の違いに、福岡の都市としての現状を実感されたそうです。
円高による輸出不況のなかで、出展が同時期に重なった松下館。
松下館の入場者は、よかトピアは116万人。世界デザイン博では121万人、横浜博では224万人ですから、福岡・名古屋が同じコンテンツ、横浜がオリジナルステージだったのは、やむを得ないことだったと言えます。
もちろんこうしたことは博覧会の企画当初から想定されていました。
そのため、よかトピアではアジア太平洋ゾーンの本物志向、海の会場化、大量のイベントなど、会場での体験を重視する独自のコンセプトを打ち出して、弱点をオリジナリティに変換していきました。
では、福岡と名古屋の松下館はただのコピーだったのかというと、福岡市と松下電器との歴史をふまえると、必ずしもそうとも言えないように思っています(結果はコピーには変わりないのですが…)。
ここで時代は遡って、1928(昭和3)年。
この年、福岡県久留米市の日本足袋株式会社が、福岡市大字住吉(現在の福岡市博多区美野島4丁目)に福岡工場をつくりました。ここでは最盛期には数千人が働いていたといいます。
なお、日本足袋からはタイヤ部門がのちに独立し、現在のブリヂストンができました。日本足袋は昭和12年に日本ゴム、そのあとアサヒコーポレーションを経て、現在はアサヒシューズになっています。
この日本足袋の工場案内(1937・昭和12年発行)に、当時の福岡工場の写真が載っていました(これは社名を日本ゴムに改める直前に発行されたようです。映画フィルム風のデザインが楽しいです)。
特殊ミシンを使って、数十種類の靴類を仕上げていたようです。
まさか紙からつくっていたなんて…。説明書きにある
「包装は商品の外出着です」という言葉が、製品への
誇りと、それを手にした人への気遣いを感じさせます。
ところがこの工場、1954(昭和29)年に久留米工場と合併して閉鎖されてしまいます…。
当時の福岡市は博多港を活かすために、輸出製品の工場(特に加工業)を誘致していました。1950(昭和25)年につくった工場設置奨励条例の該当第1号として、九州製糖の工場が東浜の埋め立て地にできています。
そんななかでの日本ゴムの工場撤退でした。
残ったのは、空き家になった鉄筋5階建ての大きな工場と6万9000㎡の広大な敷地…。
福岡市は、改正した工場設置奨励条例などを適用して、ここに松下電器を積極的に誘致しました。
松下電器はこの誘いに乗り気ではなかったそうです(役員会の大部分が反対だったとのこと)。福岡は家電生産に必要な関連産業が十分ではなく、九州での製品販売数も全国の1割にも満たなかったことがその理由でした。
ただ、最終的には社長だった松下幸之助さんの決断によって、日本ゴムから工場を買い、1955(昭和30)年に独立会社「九州松下電器株式会社」を発足させました。
独立会社にしたのは、福岡市が要請していた地元に利益を還元するためだったそうです。
社長は高橋荒太郎さん。松下幸之助さんは会長に就任しました。しばらくして、現場の運営は、のちに社長となる青沼博二さんに任せられたとのこと。
ちなみに福岡進出前に来福した松下さんから、青沼さん(当時は久留米にあった松下の乾電池工場にいらっしゃったそうです)は、工場をつくることを「どう思う?」と聞かれたそうです。青沼さんはそのときは「ここでやるのは不得策だ」とお答えになったのだとか(松下さんはそれを覚えていらっしゃって、あとでばつが悪かったとふり返っておられます)。
それほど、会社としては良い話ではなかったということなのでしょう。
青沼さんいわく、工場の建物は戦時中の迷彩塗装のままだったそうで、まずはそれを真っ白に塗り替えることから始めたとのこと(建て変わった今でも、建物は真っ白です)。
株式会社になっています。写真は今の様子(福岡市博多区美野島4丁目)。
建物は創業時とは変わっていますが、その白色は今も那珂川をわたる
清美大橋の目印。
ここから博多方面に向かって道が高架になっていますが(写真奥方面)
1983年まではその下に国鉄筑肥線が交差して通っていました。
今は緑道になっています。高架下あたりに「筑前簑島駅」があって
日本足袋時代から工場で働くたくさんの人を運んでいました。
このモニュメントは目的のない階段状になっているので、
福岡の「トマソン」としても有名です。
※写真はすべて筆者撮影。
なお、発足した九州松下電器の経営方針は次の3つでした。
・九州各県へ工場を展開して地域財政に寄与し、雇用を増やす。
・日本経済の課題でもある輸出を振興し、目標を輸出比率50%とする。
・それらを具体化するための人材を育成する。
操業は1956(昭和31)年からはじまりました。
小型モーターなどの生産からスタートし、自社でもその技術を応用した小型電気掃除機・カークリーナー・低価格の電気鉛筆削りなどを次々と開発しました。
電気鉛筆削りは九州松下電器の最初の海外輸出品になり、1984(昭和59)年にはアメリカ市場での占有率が70%にまで達したといいます。
高度経済成長期にラジオが急激に売れ、アメリカへの輸出も伸びるようになると、九州松下電器の自社開発ラジオ第1号「R-240」をはじめとして、独自の製品を生み出していきました。
レトロフューチャーなデザインの「パナペット・クルン(R-72)」(280万台も売れたそうです)、防水ラジオ「マリン1号(RF-622)」、当時流行したラジオと時計を合体させたクロックラジオの低価格機「RC-6030」(200万台を販売)などを自社開発して、ヒットさせています。
1964(昭和39)年からは、松下電器の真空管式ポータブルテレビをつくりはじめ、1971(昭和46)年になると輸出用の8型サイズのカラーテレビ「CT-771」を自社開発しました。
テレビがお茶の間でみんなで見るものから個人で使うものになり、さらには屋外に持ち出したり、車に載せたりすることを予見していた製品でした。
先ほどの日本足袋の言葉「包装は商品の外出着です」
を思い起こさせます。
見えない形。ちなみに丸い穴は腕を通して持ち運べるように
しているそうです…。斬新。
ちなみに色は赤のほかに白・黄・青・緑がありました。
選局します。数字の通りAMのみです。
九州松下電器の製品はユニークな機能はもちろん、デザインも優れていて「グッドデザイン賞」を受賞したものも多いです。さきほどの「パナペット・クルン」はその新鮮なデザインが評価されて、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されています。
GOOD DESIGN AWARD
https://www.moma.org/collection/works/3443
さて、こうしてみると、九州松下電器は松下グループの企業ではあるのですが、戦後の福岡市の工業を支えてきた地元企業だったことにあらためて気づきます。
その製品が世界で高く評価されている、福岡市を代表する企業だったのですよね(いまさらで、すみません…)。
地方の博覧会が重なった1989年、大きな企業グループへの出展要請は博覧会の成功を左右する、失敗が許されない大仕事でした。
アジア太平洋博覧会協会の事務局長だった草場さんの回顧によれば、よかトピアではこの大仕事を、九州松下電器への訪問からスタートしています(1986年5月27日)。
担当部門を介して、企業のトップへ直接出展をお願いしたのも、やはり九州松下電器が最初でした(1986年8月12日)。
このときのよかトピア側のメンバーは、博覧会協会副会長の桑原敬一さん(福岡市助役)、常任顧問の渡辺哲也さん(九州電力副社長)、専務理事の武田隆輔さん、事務局長の草場さんでした。(肩書きは当時のもの。桑原さんはのちには市長になり、よかトピアの宣伝に努めました)。
訪問した相手は、このときはすでに社長になっていた青沼さんです。
こうした交渉を積み重ねて、さらに松下グループのトップへの要請が叶ったのは1986年11月のことでした。これをうけて、1987年3月2日に松下グループが、よかトピアに出展することをおおやけに表明しました。
出展を要請する側にとって、最初にアプローチした企業でつまずくことは、その後にも影響を及ぼす可能性があります。たとえば、草場さんが別の企業の会長と面会した際には、その方は九州松下電器にはお世話になっていると雑談しながら、出展の段取りをつけてくれたそうです。
博覧会ラッシュですので、どの会社も、どこの企業がどこの博覧会にどのような形で出展するかが、大事な判断基準の1つになっていたと思われます。
そうしたなか、博覧会を成功に導くにあたって、九州松下電器が地元企業であることは福岡市にとって心強かっただろうと思います。
思い返せば、博覧会のテーマには「であい」や「まつり」が掲げられていました。
博覧会でのさまざま「であい」が、人びとの結びつきや新たなエネルギーを生み出して、さらにそのエネルギーが博覧会終了後も持続して未来をつくっていくこと、それを「まつり」と表現していました。
よかトピアを成功に導くために地元が一緒に盛り上げていくプロセス自体も、博覧会の大事な一場面だったと言えそうです。
その意味で、福岡市の工業を支えてきた九州松下電器と「まつり」を生み出せたことは、よかトピア独自の成果でした。
(それに、名古屋と同じ映像だとしても、福岡で「宇宙から地球への冒険旅行」が見られたことはありがたかったです。当時はLCCも新幹線のネット予約割引もありませんでしたので、今ほど気軽には福岡から名古屋まで見に行くということはできませんでしたから…)
よかトピアの成功のかげには、こうした地元企業の協力がたくさん積み重なっていたようです。また調べてご紹介したいと思います。
【参考文献】
#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #松下館 #パナソニック #九州松下電器 #パナペット #日本足袋 #アサヒ靴
[Written by はらださとし/illustration by ピー・アンド・エル]
※リンクの不備を修正しました(2023年8月14日)
2023年8月4日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈048〉〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈048〉〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち
7月14日に開幕した世界水泳2023福岡大会も、30日の競泳決勝と閉会式をもって無事閉幕。現在は8月2日から世界マスターズ水泳選手権2023九州大会が始まっています。
シーサイドももち地区では、以前こちらのブログでもご紹介した世界水泳2023福岡の「オープンウォータースイミング」と「ハイダイビング」に続き、マスターズでも8月2日と3日に「オープンウォータースイミング」(男女3㎞)が行われました。
【別冊シーサイドももち】では過去2回、〔世界水泳2023福岡大会応援企画〕と題して、今回の世界水泳とシーサイドももちの歴史についてご紹介しています。
※〔世界水泳2023福岡大会応援企画〕についてはコチラをご覧ください。
今回はこれらを踏まえて、実際に地行浜で行われた競技の様子を「シーサイドももちの最新の歴史の一部」としてお伝えできればと思います!
※ 今回はあまりお古いお話はありませんので、あしからず…。
オープンウォータースイミングを観戦する
オープンウォータースイミング(OWS)は前回の2001(平成13)年世界水泳でも行われた競技です(→〈043〉)。
今回は一般の観戦エリアがないため、なんとか見られるところはないかと探した結果、会場の近く、地行浜と百道浜をつなぐなぎさ橋と向かい側の百道浜から観戦することに。
7月18日(火)、朝8時スタートに合わせて早朝からカメラをスタンバイして出かけました。
この日はまず女子5㎞のレースから。この距離でもカメラのおかげで思いのほかちゃんと観戦できそうです。よかった!
赤い「スイムブイ」が各所にあり、これを目印に回ります。
そんなところもマラソンと似ています。
奥に薄ーく見えるのは香椎かもめ橋、右に見切れる山は立花山です。
なんというか、漠然と想像していたよりもかなり速い…。
観戦しているなぎさ橋から選手たちまで距離はあるのですが、そのスピード感はしっかり感じる事ができました。
女子の結果は、ドイツのレオニー・ベック選手が59分31秒7の記録で優勝。これが世界水泳2023福岡大会初の金メダルとなりました(1時間以上いましたよ、橋と浜に…)。
続く男子の部(同じく5㎞)までは1時間ほど時間が空いたので、もしかしたら上から見えるのでは? と思い立ち、福岡タワーへと移動。優雅に?地上123mから観戦することにしました。
上(タワー)から見てみると、案の定コースが分かりやすい!(そして涼しい!)
軽い気持ちでのぼってみましたが、結果はかなり良い観戦ポイントでした(観光客の皆さんのお邪魔にならないよう、ひっそりと観戦&撮影させていただきました)。
(音など聞こえないので突然始まってビックリする)
鵜来島との距離感もこんな感じです。
ようやくゴールへと向かいます(スタートと同じ地点)。
選手が通過するスイムブイの周辺はもちろんですが、選手が通るルートの周辺にはいくつもの救護船やサップボード、水上バイクなどが控えていて、選手たちを守っていたのが印象的でした。自然を相手にしている以上、何が起こるか分かりません。選手の安全が第一です。
筆者も何の力にもなれませんが、上(タワー)から1時間、選手たちをひっそりと見守らせていただきました。
男子の結果は、こちらも女子と同じくドイツのフロリアン・ウェルブロック選手が53分58秒で金メダルでした。
レースとは関係ないのですが、上から見てみて個人的に感激したのは、OWSで選手たちが泳ぐ姿が、書籍『シーサイドももち』制作時にピー・アンド・エルさんに描いていただいた「遠泳するこどもたち」のイラストと一致したこと!
コチラがそのイラストで、海側(北)から見た様子を描いてもらっています(本当にこんな感じの写真が新聞に載ってるんですよ)。
そしてコチラが今回実際に見たOWSの風景。当然、陸側(南)からの様子です。
視点を合わせるためにイラストを反転させて並べてみると…。
一致! 完全に一致!! しかも船上にはためく旗まで一致!!(筆者の心の目で見れば)
時空を超えたシンクロ率に一人感動しながら、タワーを後にしました。
ハイダイビングを観戦する
7月25日~27日に行われたハイダイビングでは25日(火)のチケットをゲットし、ついに会場での観戦が叶いました。
ハイダイビングに関しては前回の福岡大会ではまだ競技になく、つまりこれが記念すべき日本で初めて開催されたハイダイビングの国際大会となりました(クリフダイビングの世界大会は和歌山県などでも開催されています)。
朝10時の開始に向け、少し早めに出発したのですが、ここで問題が発生。
地行浜の会場まで向かうルートは何となくのイメージしかなく(「まあ、行けば分かるだろう」と高をくくっていた)、結果実際に行ってみると普段ドームの周辺を車以外で通ることがあまりないことに気づき(遅い)、恥ずかしながらちょっと迷ってしまいました。
筆者は家の近くからシェアサイクル「チャリチャリ」を利用して移動してみたのですが(臨時でポートができていました)、中途半端に行き慣れた道という油断もあって、予定より時間がかかってしまったんですね。なんでも勘で動いてはいけないと反省しながら、まあこれも経験と気を取り直して会場に向かいました。
さらにちょっと分かりづらかったのは、飛び込み台とともによく事前紹介映像でも目にしていた観覧席。実はこれは関係者席で、われら一般客はよりプールに近いエリアでの観戦でした。イメージとしては、ライブ会場の関係者席(2階スタンド)とアリーナ席みたいな感じでしょうか。
暑さは覚悟していたので、万全の日焼けと日除け対策をしていったものの、スタンディングだったのは予想外。ですが、その代わりにとてつもない迫力と臨場感を心ゆくまで満喫することができました(ちゃんと事前に調べていた方は小さなイスを持参されていました…。勘だけで動いてはいけないパート2)。
とはいえ、1週間前にOWSの遠距離&スタンディング観戦を経験した筆者の前には無問題です。
座ると着水が見えないので、意地でも立ってました。
しかしこの飛び込み台、やっぱり間近で見ると迫力が違う!!
遠目で見ても規模の大きさは一目瞭然でしたが、真下から見上げるとさらにその異常なまでの高さを実感し、恐怖と緊張感が伝わってきます。
しかも風速17mまでなら競技を続行するのだとか。怖いよ!!!
海辺なので風もけっこう吹いています。
ハイダイビングは各選手が4回飛んで、その合計点数を競います。
その内容も、1・3回目のジャンプでは技の難易度に制限がありますが、2・4回目は制限ナシ(ある意味「何でもアリ」)といった具合に区別されます。難易度が低→高→低→高という順で飛ぶんですね。制限ナシの演技では、男子なら落ちながら5回転くらいしてしまいます。
選手側はフィギュアスケートのように自分が飛ぶ技を事前申告するので、審査員は内容を承知した上で審査します。また、難易度が回転数や体勢(「ひねり」や「抱え込み」、「まっすぐ」など)の組み合わせによって点数化され、これが得点に大きく影響します。
得点は、7名の審査員が付けた点のうち、上位2名と下位2名を外した中間3名の合計点×難易度で算出されます。
今回筆者は、1・2回目が行われた予選の様子を観戦することになりました。
ところでハイダイビングは飛び込み台からプールに飛び込みますが、プールには必ず救護ダイバーの方々が待機しています。飛ぶ前には選手が上から救護ダイバーさんたちが待機する位置を確認し、飛び込みの邪魔にならないよう指示を出していました。
競技が始まる際には必ずプールに入って待機します。
女子は20mの高さから飛び込みます。もちろん男子と比べると低い位置ですが、それでもビルの5階くらいの高さ…。
しかも逆立ちの場合はこの体勢で3秒静止がルールです。
唯一の日本人選手、荒田恭兵選手の姿もありました。荒田選手は現在日本人でただ一人のハイダイバーです。
ガンバレ!!!
男子は女子よりもさらに7m上からのダイブ。当然ですが、この塔のてっぺんから飛び込むわけで…。
大きな事故もなく、選手の素晴らしい演技には会場からも惜しみない拍手が送られましたが、とくに荒田選手が登場すると観客も増え、大きな歓声が上がっていました。
ハイダイビングは「高い所から飛び込む」ということに目が行きがちですが、実際に観戦してみると「着水」が見所だということにも気づきました。あれだけ高いところから飛び込んでも技術があれば水しぶきが出ないことも。
そして飛び込んだ時の音がすごい!! 音が大きいほどまっすぐ水に入った証拠で、水しぶきなく着水できているそうです。
結果は、女子はオーストラリアのリアンナ・イフランド選手が357.40点で優勝(このインフランドさんは女子ハイダイビングでは女王的存在なのだそうです)。
そして男子は、ルーマニアのコンスタンティン・ポポビッチ選手が472.80点での優勝となりました。
ちなみに男子金メダリストとなったポポビッチ選手の4回目(制限ナシ)の技は、「逆立ち後ろ宙返り3回半3回ひねり」。
筆者は決勝の様子をCSの中継で見たのですが、解説していた飛び込みの寺内健選手(オリンピック6大会出場)も「なんだこれ…」と絶句するレベルの技でした(逆立ちして飛んでから着水までずーっと回転している)。
ハイダイビングは高所から水に飛び込んでその技を競うのが目的ではあるのですが、まずは生きて帰ってくることが何よりもまず大事。
なので、ダイブ後には水面に顔を出し、救護ダイバーに必ず「大丈夫!」のサインを出さなければなりません。調べてみると、今回の大会でも着水の影響で腹部を打撲、呼吸困難になったケースが1件あったそうです。
そんな危険な競技ということもあってか、競技後には別の国の代表選手でもそれぞれが演技を称え、生還を喜んでいたのが本当に印象的でした。そのくらい危険と隣り合わせの競技ということなんですね。
このようなハイレベルな競技ができるのも、選手の日頃の技の訓練と努力、そして身につけた筋肉が身体を守ってくれているからなのだそうです。
当たり前ですが、素人が一朝一夕に真似できるものではないですよね。
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これまでもシーサイドももちは、ヨットのアメリカズカップ・ワールドシリーズやインターナショナル ライフセービングカップ2019、また数多くのアクアスロンやトライアスロン大会など、さまざまな国際スポーツ大会が行われ、世界のトップ選手たちがその技を競い合う舞台となってきました。
今回の世界水泳2023福岡大会も、とくにハイダイビングでは日本で初めての国際大会が開催された場所として「シーサイドももち」の名が刻まれたことは、このまちにとっても大きな意味があることでしょう。それが最終的にどういう評価をされるかはまた別の話としても、この状況をリアルタイムで記録し、実際に体験することができたのは幸運だったと思います。
余談ですがこの数日後、通勤中に昭和通りを通って福岡タワーに行くバスに乗っていたところ、ドーム西側の「九州医療センター前」バス停でハイダイビング会場に行くために迷っているボランティアの方と遭遇。
「九州医療センター前」といえば会場とはドームを挟んで反対側になるため、道を聞かれた西鉄バスの運転手さんもどうにも案内できずにいたため案内役を買って出まして、そこから会場までスムーズにエスコート。「これは迷いながら現地まで行った成果が試される時か?!」ということで、無事伏線回収となりました。
【参考文献】
・テレビ朝日 テレ朝水泳 世界水泳2023(https://www.tv-asahi.co.jp/swimming/sekaisuiei2023/)
・世界水泳2023福岡大会 救護業務参加のご報告[千葉大学大学院 医学研究院 整形外科学](http://www.ortho.m.chiba-u.jp/sports_drs_col/5032)
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[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]