2024年10月30日水曜日
特別展「大灯籠絵」を楽しむために その25(最終回かも) まだまだ成長していきます
いよいよ11月4日(月・振休)まで
会場:福岡市博物館 特別展示室
特別展「大灯籠絵」、いよいよ最終日が近づいてきました。
早いものです。
このブログも25回目。長かったような、瞬く間だったような……
さて、ブログその23では、成長する展示についてお伝えしました。
実は、その後も「成長」がとまらないのです。
先日は、福岡市東区の方から、
「むかしお地蔵様のお祭りで飾っていたかもしれない大灯籠絵みたいなのがでてきました」
とご連絡をいただき、担当学芸員Kが小躍りしながら調査に出かけました。
拝見したところ、まさに「大灯籠絵」だと判明し、
あらためて詳しく調査するお約束もでき、
担当学芸員Kはよく分からない歌をくちずさみながら、大興奮で帰ってきました。
また、三大「大灯籠絵」絵師(一得斎高清、海老﨑雪渓、白水耕雲。筆者が勝手に選定。)の一人、海老﨑雪渓の子孫の方からもご連絡をいただきました。
なんと「雪渓の遺品の羽織がある」とのこと。
みせていただくと、羽織の裏には、龍が描かれています。
雪渓のサインはないものの、
ブログ23で紹介した子ども用の山笠法被の龍とも雰囲気が似ていて、
「雪渓が自分で描いた絵かも?!」と、期待が膨らんでいます。
このように、この特別展「大灯籠絵」、まれにみる成長を続けています。
成長は展覧会閉幕後も続いていきそうです。
成長の成果は、また改めて、何らかの形でご報告ができるのではないかと思います。
どうぞ、お楽しみに!!
その前に、「大灯籠絵」が一堂に集まる希少な機会ですので、
ぜひぜひ、特別展「大灯籠絵」の会場へもお越しください。
11月4日(月・振休)まで開催中です。
(by おーた)
2024年10月24日木曜日
特別展「大灯籠絵」を楽しむために その24 「大灯籠絵」の飾り方
11月4日(月・振休)まで
会場:福岡市博物館 特別展示室
特別展「大灯籠絵」の会期も2週間をきりました。
みなさま、ご覧いただけたでしょうか?
さて、この展覧会には、
①「大灯籠」を飾る行事や「大灯籠絵」について多くの人に知ってもらうこと
②「大灯籠」を飾る行事を継承していくためのさまざまな課題の解決策をさぐること
というねらいがあるのです。
①の「多くの人に知ってもらう」については、
プレイベントのワークショップの参加者や展覧会にご来場いただいた方から、
「初めて知った」ということばをよくお聞きすることができ、
担当学芸員Kはニンマリしています。
②の「課題の解決策を探る」について、いろいろな試みをしてみました。
ブログのその14で紹介したワークショップもその一つで、
「大灯籠」を飾る行事の未来の担い手へのアプローチでした。
その他、地味に反響が大きかったのが、
「大灯籠絵」をどうやって飾るか?についての試みです。
通常、「大灯籠絵」を飾るときは、木枠に釘でうちつけて灯籠にしたてます。
これだと、飾るたびに穴があいてしまい、
大事にしたいのに、使うと傷んでしまう……
という悩みを、担い手のみなさんは抱えていました。
担当学芸員Kは、この課題を解決すべく、
これまでの福岡市博物館の展示のノウハウを活用しつつ、
最新アイテムを探索し、1年間試行錯誤を繰り返して、
文化財でもある「大灯籠絵」を傷つけることなく安全に飾る手法を開発しました!!
釘を使わずに巨大な「大灯籠絵」を飾る手法は、
「大灯籠」を飾る地域の方々にも歓迎され、
今年、早速、取り入れてくださった町もあります。
また、ほかの博物館や美術館からの問い合わせや視察も相次ぎました。
特別展「大灯籠絵」もそろそろ終盤
どうぞ会場で、担当学芸員Kのさまざまな試みをご覧ください。
(by おーた)
2024年10月23日水曜日
初めての総館長「講演会」を終えて
福岡市博物館総館長を仰せつかって、あっという間に半年が経ちました。まだまだ不案内なことばかりですが、新しい環境にもだいぶ慣れてきました。
さて、既に終了してしまいましたが、9月28日(土)に「大灯籠絵にみる娯楽としての“歴史”」という演題で講演会を開催いたしました。特別展「大灯籠絵」関連事業の一環をなすものでした。
ようやく総館長として市民の皆さんの前に立つことができ、ささやかなデビュー戦となりました。「講演会」とはいいながら、会場は当館二階の喫茶・談話室でしたので、気軽な感じの会となりました。事前に配られたものには「歴史学の視点から、「大灯籠絵」に描かれた“歴史”の魅力を深く掘り下げる」という概要が語られていましたが、実際にはそこまで大仰なものとはなりませんでした。
「大灯籠絵」の画題となっているのは史実そのものというより、お芝居や講談などからの取材されたものが大半です。これらが人気の「飾り物」として受け容れられたことを考えると、興行される芝居や講釈などを通じて、民衆社会ならではの“歴史”リテラシーが涵養されていたとみるべきであり、芸所・芝居所としての博多・福岡という視点を抜きに「大灯籠絵」は語れないのではないか・・・。講演の骨子はこうしたところです。
ただの歌舞伎好き・寄席好きが自分の趣味に引き寄せて、話をこしらえたと言えなくもありませんが、大学教師とは違うスタンスで“歴史”を考えるきっかけにもなり、準備の段階から楽しい時間を過ごすことができました。関係者の皆様に篤くお礼を申し上げます。
さて、前振りが長くなりましたが、実はここからが本題です。この講演会でも館蔵の「大灯籠絵」はもちろんですが、少し珍しいものとして博多・福岡で開催されたお芝居の番付などを紹介してみました。福岡市博物館は、平成2(1990)年の開館以来、多様かつ膨大な質量の資料を収集してまいりました。いうまでもなく、それらの収蔵資料のすべてが展示の対象となる訳ではありません。今後、展示に限らず資料を公開・活用する術をいろいろと考えていく必要がありますが、まずはこうした館蔵資料を積極的に紹介する場を設けていきたいと考えています。今回の芝居番付はその先駆けのような位置づけとなります。具体的にどういうかたちを採るかまだ確定はしておりませんが、なるだけ早い時期に実現したいと考えています。今回はその予告ということでご理解いただければと存じます。
令和6(2024)年10月
福岡市博物館総館長 中野 等
2024年10月18日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈095〉防塁線を駆け抜けろ! 観光コンテンツとしての元寇 ―元寇防塁今昔①―
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
第1回(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回 (「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回 (「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回 (「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回 (「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回 (「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回 (「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」
第41回 (「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回 (「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回 (「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回 (「百道海水浴場はどこにある?」)
第45回 (「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」)
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)
第49回(「福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―」)
第50回(「百道から始まる物語 ~「水泳王国・福岡」の夜明け前 ~」)
第51回(「よかトピアのトイレと日陰の話」)
第52回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正編~」)
第53回(「リゾートシアターは大忙し ―よかトピアのステージ裏―」)
第54回(「ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―」)
第55回(「34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした ―電話やカメラや灰皿の話―」)
第56回(「百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは」)
第57回(「キャラクターが大集合した「いわたや(岩田屋)こどもかん」と、ついでによかトピアの迷子事情も」)
第58回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編①~」)
第59回(「巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)―」)
第60回 (「西新町に監獄ができるまでの話」)
第61回 (「鳥のグッズを開封、そしてシンガポールからはバードショーもやってきた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(2)―」)
第62回 (「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈前編〉」)
第63回 (「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈後編〉」)
第64回(「よかトピアの海上レストラン ―マリゾン(1)―」)
第65回 (「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編②~」)
第66回 (「子象のタクシー、初乗り100円でシーサイドももちをご案内 ―よかトピアの象のはなし ―」)
第67回 (「船で、飛行機で、データで、電波で、人の手で、福岡と世界を結んだよかトピアのパビリオン ―マリゾン(2)―」)
第68回 (「よかトピアはドームつくりがち」)
第69回 (「シーサイドももちはMVステージ(その1)」)
第70回 (「シーサイドももちはMVステージ(その2)」)
第71回 (「百道松原を買った藤金作(その1)― 西新爆上がりの回 ―」)
第72回 (「百道松原を買った藤金作(その2)― 元寇防塁発見の回 ―」)
第73回 (「サザエさん通りの生い立ち ―「プレ・サザエさん通り」と波瀾万丈の元寇防塁 ―」)
第74回 (「最初の海の家「設備屋」の行方と西南学院のキャンパス」)
第75回 (「百道に計画されていた幻の国際飛行場」)
第76回 (「ガワラッパのネッキ、ミズチと戦う ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その1)―」)
第77回 (「ドラえもんが水のことを教えてくれた日 ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その2)―」)
第78回 (「修養の殿堂、百道に建つ~射撃場跡地にできた社会教育会館~」)
第79回 (「まっすぐ過ぎる道路~百道に残る四角い街区のナゾ~」)
第80回 (「シーサイドももちにはお金が置いてある ―ヤップカヌー外伝(その1)―」)
第81回 (「ルッパン船長とヤップのダンスチーム、よかトピアを飛び出してダイエーに行く ―ヤップカヌー外伝(その2)―」)
第82回 (「シーサイドももちの緑地さんぽ① ~地行浜&海浜エリア編~」)
第83回 (「小学校の体育用具倉庫で山笠のムルティをつくってほしい ―よかトピアで大活躍だったインド(その1)―」)
第84回 (「シーサイドももちの緑地さんぽ② ~百道浜エリア編~」)
第85回 (「あるときは少年が空中に浮き、あるときはバラタナティアムやカタックを舞う ─よかトピアで大活躍だったインド(その2)─」)
第86回 (「「この楽しさにあなたの首は耐えられますか?」─よかトピアの九州電力パビリオン(その1)─」)
第87回 (「スーパーシップ9、九州を乗せてフランスへ飛んでいく―よかトピアの九州電力パビリオン(その2)―」)
第88回 (「70年続く伝統の林杯ヨットレース ― 百道とヨット① ―」)
第89回 (「海水浴場の安全をまもった〝百道の王〟」)
第90回 (「スーパーシップ9の「9」は九州のキュー(たぶん)―よかトピアの九州電力パビリオン(その3)―」)
第91回 (「昭和20年代の博多湾クルージング─百道とヨット②─」)
第92回 (「え、今度はガメラとギャオスですか!?―屋根に穴があいた福岡ドーム(その1)―」)
第93回 (「百道良いとこ一度はおいで! ―福利厚生の場としての百道①―」)
第94回 (「四島さんの「二宮佐天荘」と百道 ―福利厚生の場としての百道②―」)
〈095〉防塁線を駆け抜けろ! 観光コンテンツとしての元寇 ―元寇防塁今昔①―
百道を語る上で、元寇防塁は忘れてはならない大事な要素の一つです。
13世紀、日本は元軍(モンゴル帝国)による二度の襲来を受けました。いわゆる「元寇(蒙古襲来)」です。
元寇防塁とは、文永11(1274)年の蒙古襲来を受けて幕府が博多湾の海岸線に築いた「石築地(いしついじ)」のことで、「元寇防塁」という名前は明治後期から昭和前期にかけての病理学者で考古学者でもあった中山平次郎が名付けたものです。
また、この様子を描いた竹﨑季長の絵巻「蒙古襲来絵詞」は、一部でも教科書などで見たことがある方も多いのではないでしょうか。
元寇防塁は、今津から香椎浜の辺りまで、当時の海岸線に沿って約20kmにわたり築かれたとされていますが、西新・百道地区はそのほぼ中間に当たります。
こちらは、現在分かっている元寇防塁の位置を表したものです。
姪浜辺りまでは現在の海岸線に沿っていますが、とくに西新より東側は博多湾岸が相当埋め立てられているので、今の地図に落とすと場所によってはかなり内陸側にあるように見えます。
ですが、この元寇防塁のラインがだいたい当時の海岸線と考えられますので、そういう意味でも元寇防塁は福岡市にとって貴重な史跡の一つです。
元寇についてはご存知のとおり、一度目の襲来では上陸を許した日本ですが、この防塁の効果もあってか二度目の弘安の役(弘安4〈1281〉年)では元軍の上陸を許さず、そうこうしているうちに台風の暴風雨が吹き荒れて元軍が「覆滅」、やった! 神風だ!! …というお話としても有名です。
このように、「元寇」自体は歴史としても物語としてもかなり古くから一般にも知られていましたが、実際の「防塁(石築地)」は、大正時代になってから各地で発見されていきました。
元寇防塁の発見とその後の展開
西新を含む西部地区の元寇防塁発見から国史跡指定までの経緯を簡単に整理してみます。
最初に大正2(1913)年に今津村(現 西区今津)で元寇防塁が発見されました。
これを契機に「元寇」への関心が高まり、新聞社などが主催して一般向けの各種講演会や元寇防塁の見学会などが頻繁に開催されるようになります。
そして大正8年(1919)、ついに西新地区でも元寇防塁が発見されます。
西南学院の敷地内で、元寇防塁と思われる石塁が見つかったのです。
ちなみに現在も西南学院には元寇防塁の一部が構内に展示されており、誰でも見学することができますが、こちらは平成に入ってから校舎建築工事前の調査によって発見されたものの復元展示です。
さらにその翌年の大正9(1920)年10月には、「教育勅語御下賜30年記念事業」の一環として郷土史家・木下讃太郎指揮の下で西新小学校児童らが百道松原の一角を掘ったところ、見事な石積みが発見されました。
余談ですが、こちらの写真は大正9(1920)年の元寇防塁発見に際してよく紹介される写真なのですが、実はこの写真、初出は新聞記事だったようなのです。
こちらが元寇防塁の発見を報じた『九州日報』の紙面です。
見出しは「元寇防塁を掘り出した 昨日の記念式挙式の記念に昨日見事なものを発掘」となっており、よく見ると紙面には先ほど紹介したものとまったく同じ写真が載っています。
こちらが拡大したものです。比較してみます。
ちょっと画質が悪いですが、同じ写真ということが分かります。
閑話休題。
話を元寇防塁発見史に戻します。
大正15(1926)年、西新小学校が現在地に移転する際に現在のサザエさん通りが整備された時、工事の過程で遺構の断面が露出しました。
その様子は、工事を観察した島田寅次郎による観察記録が残されています。
この辺りのお話は、以前ブログでもご紹介しました。
そして昭和6(1931)年、ついに元寇防塁は国史跡に指定され、さらに注目を集める存在となったのでした(メデタシメデタシ)。
観光コンテンツとしての元寇
国の史跡となった元寇防塁は、一気に福岡市を代表する名所の一つとして扱われるようになります。
とくに百道松原で元寇防塁が見つかった西新町では、当時は一帯がまだ開発途上だったため、これを機に百道松原を開発しよう! あるいは観光客を呼ぼう! といった機運が高まりました。
以前ご紹介したコチラのお話も、その例の一つです。
何よりも元寇防塁が国史跡に指定された昭和6(1931)年は、2度目の蒙古襲来である「弘安の役」から650年とあって、全国各地で記念祭が行われて元寇への関心が高まっていた、まさにその年。
そして同年の9月には満州事変が勃発し、日本は戦争への道を進み始める時期でもあります。
国威掲揚と相性が良い元寇防塁の国史跡指定も、こうした国策の流れの一部と捉えることもできるタイミングでした。
さらに、ちょうど同時期には日本新八景や国立公園の誕生など、全国的にもいわゆる「観光ブーム」が起こっていたころ。
福岡市にも福岡市観光協会が設立(昭和7〈1932〉年)し、福岡市のことを紹介する観光案内などが盛んに作られていた時代です。
加えて昭和10(1935)年を過ぎると享楽的な観光よりも国策旅行として遺跡見学や聖地巡礼(今でいう聖地巡礼ではないですよ)などが推奨されるようになります。
そんな時代に、元寇防塁は福岡市にとって願ってもない絶好の観光コンテンツとして、各所で紹介されていきました。
その中でもちょっと珍しい例がこちらです。
こちらは昭和15(1940)年につくられた、観光案内のための鳥観図の原画です。
この時期、観光案内のためにこうした鳥観図は多く作られており、絵師としては吉田初三郎などが有名ですが、こちらはそのお弟子さんである前田虹映という人が描いたものです。
各所に名所などが描き込んであるのですが、ちょっと西新の部分を拡大してみます。
上半分は博多湾、下部に走る赤い線は路面電車です。
その沿道には「中学修猷館」があって、海側には「西南中学」が見えます。
海には当然、百道海水浴と思われる絵もありますね。
そして注目すべきはその隣…。
海水浴場の隣にはなんと元軍の船と戦う武士が描かれているではないですか…!
現代でいうアイコンのようなもの、あるいは観光地によくある「AR」のようなイメージかもしれません。
元寇記念防塁線走破マラソン大会
昭和16(1941)年、「元寇660周年」と銘打った、ちょっと変わったイベントが開催されました。
それはなんと元寇マラソン大会です。
福岡日日新聞社(以下、福日社)が主催したこのイベントは、昭和16(1941)年9月1日に開催されました。
これはその名の通り、元寇の往時を偲んで由緒ある元寇防塁線を走ろう! というもの。
レースは最初に元寇防塁が発見された今津からスタートし、最後は箱崎を目指します。
主催した福日社の運動部長であった納戸徳重氏は当日のあいさつで「文永、弘安の両役に吾等の先祖が元軍の中に斬り込んだ意気と同じ箱崎の決勝点目指して走り込め!!」と檄を飛ばしたとか…。
総距離は約25.5㎞。ルートはこのような感じでした。
【スタート】今津小学校(当時は今津国民小学校)校庭
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今津村警防団火見櫓下より右折
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弁天橋を渡り右に元岡国民学校を眺め元岡村太郎丸川昭代橋を通過
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周船寺村の国道に出て左折
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国道を東へ東へと邁進
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今宿村を経て左に博多湾、右に青木公園を見ながら筑肥線と併走
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生の松原を通過し姪浜より電車道へ
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愛宕神社、室見橋、修猷館前、今川橋を通過
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天神町東邦電力会社横の丸善理容院角より左折
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右折して松屋デパート前に出て再び電車通りへ
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須崎裏、築港口、国鉄新博多駅前を通過
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大学通りより左折し旧街道をまっしぐら
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医学部前、馬出踏切りを一気に通過し筥崎宮前より左折
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【ゴール】汐井浜式場前の決勝点へ
…以上が当時の新聞記事に書かれたルートです。
これに先ほどの元寇防塁の位置を重ねるとこんな感じ(もちろん、当時はまだ見つかってないものも含みます)。
香椎も大正時代からその存在(らしきものを含む)が確認されていたものの、このレースでは一応箱崎までとしていたようですね。
肝心のマラソンはというと総勢約90名が参加し、八幡製鉄の馬場崎文雄さんが1時間35分15秒で1位、続いて三井山野炭坑の古賀新三さんが1時間36分46秒、3位に同じく八幡製鉄の国崎静英さんで1時間38分46秒という結果でした。
そして、実はこの2位に入賞した古賀新三さんは、のちに第1回国民体育大会(昭和21〈1946〉年開催)の20㎞長距離走において1時間10分31秒8の記録を出して優勝した人物なのです!(しかも記録も良くなってる!!)
ところで福岡市内がメインに開催されるマラソン大会といえば、現在では福岡マラソンが有名ですよね。
すっかり秋の風物詩となり、今年も11月10日(日)に開催される予定ですが、こちらが今年の福岡マラソンのルートです。
せっかくなので(?)、元寇マラソンのルートと重ねてみました。
距離も短く、福岡マラソンは東→西、元寇マラソンは西→東という違いはあれど、福岡のまちの風景(とくに海沿い)を見ながら走るという点では一致しますね。
そういう意味では、今も昔も福岡市の見所はそれほど変化してないのかもしれません(海岸線は変わりましたが)。
今年は元寇750年
今年は蒙古襲来の一度目である文永の役から750年に当たります。
それにともなって、市内各所でも関連する祭礼やイベントが各種予定されていますので、最後に少しご紹介したいと思います。
◎元寇神社/元寇祭(紅葉八幡宮が祭主)
◎飯盛神社/飯盛宮当流流鏑馬
※ 今年は特別企画のため、11月に開催されます(通常は10月9日)
◎元寇750年記念事業実行委員会(事務局:西区役所企画振興課)
◎福岡市経済観光文化局地域観光推進課(共催)
◎福岡県立図書館
◎その他
弘安の役は旧暦の10月に起こったとされているので、祭礼やイベントなどもその前後に合わせて行われることが多いようですね。
また、元寇神社では今年は特別に「元寇750年」仕様となった記念の御朱印が頒布されていますよ(頒布場所は紅葉八幡宮ほか、紅葉八幡宮の頒布期間は令和6年9月9日~10月20日、500円)。
* * * * * * *
いかがだったでしょうか。
元寇防塁はその学術的価値のみならず、観光コンテンツとしても大活躍してきた歴史をご紹介しました。
でも、一筋縄ではいかないのがこの元寇防塁。
こうして一般に知られるようになるまで、あるいは知られるようになってからも、さらに一悶着も二悶着もあったようなのですが、その辺りのお話はまた次回ご紹介したいと思います。
【参考資料】
・『福岡市立西新小学校創立百周年記念誌「西新」』(福岡市立西新小学校創立百周年記念会、1973年)
・福岡市史編集委員会編『新修 福岡市史』資料編 考古1 遺跡からみた福岡の歴史―西部編―(2016年、福岡市)
・福岡マラソン2024(https://www.f-marathon.jp/ )
・国民体育大会の記録/JSPO国民スポーツ協会(https://www.japan-sports.or.jp/kokutai/tabid62.html )
・紅葉八幡宮(https://momijihachimangu.or.jp/ )
・飯盛神社(http://www.iimorijinja.jp/ )
#シーサイドももち #元寇防塁 #前田虹映 #観光コンテンツ #観光ブーム #元寇防塁線走破マラソン #元寇750年
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]