2023年9月29日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈056〉百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈056〉百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは
シーサイドももち地区で開催された博覧会といえば、お馴染み1989(平成元)年に開催されたアジア太平洋博覧会、通称「よかトピア」が有名ですが、それよりもっと前に百道の一角で博覧会が開催されていたことをご存知でしょうか?
福岡では明治20(1887)年の第5回九州沖縄八県連合共進会を始まりとして、大正、昭和と数々の博覧会が開催され、そのたびに福岡のまちは発展を遂げてきましたが、そんな中でもこの博覧会の存在は意外と忘れられているかもしれません。
博覧会の名は「大東亜建設大博覧会」。太平洋戦争に突入する前後から、国民の国威掲揚のために全国で数多く行われていた、いわゆる戦時博覧会の一つです。
この博覧会が開催されたのは、よかトピアからさかのぼること47年前。昭和17(1942)年9月末のことでした。
というわけで今回は、西新で初めて行われた大規模博覧会のお話です。
* * * * * * *
博覧会を主催したのはもちろん(?)、百道海水浴場と同じ福岡日日新聞社(以下、福日社)です。
そして開催地は百道。ちょうど今の西新公民館や、昨年惜しまれながら閉鎖されてしまった西新パレスがあるエリアです。
開催地はどの資料や新聞を見ても「西新」「百道」とあわせて、「元寇防塁の地」や「元寇殲滅の地」といった冠が付けられ、強調されています。「元寇」はこの時代、単に歴史的事象というだけにとどまらず、こうした国威掲揚の文脈で使われることがよくあったんですね。
さらに博覧会の計画要綱にはその目的について、「皇軍の赫々たる偉功勲績を讃頌しその驚異的戦果を洽く周知認識せしむると共に、科学の振興と技術の錬磨により益々生産の拡大充実に邁進し、対米英長期戦の総力態勢を整備する一方、共栄圏諸邦の緊密なる提携協力を強化促進し、相率ゐて大東亜建設の鴻業に貢献せんことを期す」と雄々しい文言が並んでいます。
開催に際して指導に当たった内閣の直属機関である情報局の「この博覧会はこれまで福岡でも数多く開催されてきた勧業博覧会とは一線を画す内容でなければならない」という、強い意志を感じます。
その証拠に、昭和17(1942)年5月20日付で情報局から福日社宛に発せられた文書には、次のような「お達し」がありました。
大東亜建設大博覧会指導要領
一、本博覧会ハ従来ノ企業、勧業又ハ興行的博覧会経営方針ヲ打破シ企画及ビ実施ニ当リテハソノ建造物展示内容ヲ通ジ真ニ戦時下ニ相応スル時局認識ノ啓発博覧会タラシムルコト
二、時局柄資材ノ節約ヲ計ルコト
(イ)会場構成ハ野外展示形式ヲ出来ル限リ採用シ各館建築ハ展観資料ノ性質上家屋ヲ必要トスルモノノミニ限ルコト
(ロ)右ノ場合ノ建築物ハ主催者ニ於テ保有セル資材ノ範囲内ニ止ムルコト
三、客寄セヲ目的トスル余興、演芸等ハ之ヲ一切行ハザルコト
但シ時局認識ニ相応シキ文化映画、ニユース映画ノ映写及講演会等ノ開催ハ差支ヘナシ
四、会場内ニ商品販売ヲ目的トスル売店等ヲ設置セザルコト
但シ最小限ノ食堂、喫茶店等ハ差支ヘナシ
五、社告、紙上宣伝等ハ博覧会自体ノ正シキ紹介宣伝ニ止メ露骨ナル自社ノ宣伝ニ陥ラザルコト
き、厳しいですよね…。ものすごくクギを刺してる感じがします。
それもそのはず、こうした大規模な催しでは誰をトップに据えるか、誰が参画するかが大事だったりしますが、この博覧会では名誉総裁に旧福岡藩主黒田家の当主・黒田長禮(ながみち)を迎え、陸軍省、海軍省、逓信省が後援し、先ほどのお達しを出した情報局が指導に入り、賛助として大政翼賛会も名を連ねています。
物々しいことこの上ない布陣です。
このような体制だったことでイベントに対して国や軍からの規制が厳しい中、このプロジェクトを企画し中心となって進めていったのが、当時福日社の企画部門にいた田中諭吉です。
ご存知の方も多いかもしれませんが、田中諭吉は今でも「博多の伝説のプランナー」と言われるほどの人物です。
彼の名前には聞き覚えはなくとも、たとえば節分の時に櫛田神社に登場する巨大なお多福面や、山笠が福岡のまちを走る「集団山見せ」、あるいは太宰府天満宮の「曲水の宴」など、現在も福岡県内で季節の風物詩として行われているこれらの行事は、どれも田中諭吉の発案によるものなのです。
絵がうまく、福日社に入社してからしばらくは絵画部に所属していましたが(昭和3年入社)、のちに企画部門でその本領を発揮しました。
そんな田中諭吉が昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦を受けて企画したのが、この博覧会でした。
戦時博覧会や展覧会は昭和13(1938)年頃から全国で行われており、福日社でもその前から戦争に関する展覧会などをいくつか行っていました。その時々の時流や市民感情を敏感に捉え、それを形にすることに長けていた田中諭吉はこれを見逃さず、それまでの戦時展覧会の成功を経て、大規模な博覧会の開催を企画したのでしょう。
西新・百道を会場に選んだのも田中諭吉だといいます。
西新はそれまでも北筑軌道や福博電車の路線があり、修猷館や西南学院によってすでに学生街となっていましたし、何より福博電車の本社も会場のすぐ近くにありました(→〈038〉)。
さらに博覧会開催直前の5月には、福博電車に西新町―高等学校前の複線化の認可が下り、より一層繁栄への道をたどっていく最中ともいえる時期だったので、西新にとってこの博覧会は、まちが勢いづく一つの契機となったことでしょう。
ちなみに「高等学校前」とは六本松と草香江の間にあった停留所ですので、現在の城南線方向への路線が複線化したということになります。
実際、福博電車は来場者のために会場前に臨時停留所を置き、さらに専用電車を走らせ、1日25万人の輸送計画を立てていると報道されたほどの力の入れようでした。
そんな先見の明にも長けた田中諭吉を中心に、博覧会の準備は着々と進められていきます。
大東亜建設大博覧会に関する記事が初めて『福岡日日新聞』紙上に登場したのは(確認できた限りでは)、昭和17(1942)年4月26日。
博覧会ポスターの懸賞募集の社告がその始まりでした。
大東亜建設大博覧会ポスター図案懸賞募集 主催 福岡日日新聞社
【応募規定】
型 四六判截型(新聞紙二頁大縦型)
配色 三色以上六色以内
挿入文字 【大東亜建設大博覧会、九月二十日より十月二十九日迄(四十日間)福岡市百道元寇防塁の地西新の浄域、主催福岡日日新聞社】
申込 五月末日迄に本社内博覧会本部宛
賞金 壹等貳百円、貳等五拾円、参等参拾円(以上一名宛国庫債券)佳作五名(記念品)贈呈
審査 本社員及博覧会係員(応募作品は一切返却せず、作品全部は陳列展覧す)
(昭和17年4月26日『福岡日日新聞』朝刊4面より)
大東亜建設大博覧会ポスターは、現在2種類の現物が確認できています。
それぞれ力強いモチーフとインパクトのある色味で、非常に目を引くものです。
1枚目のポスターはよく見ると「島井印刷所」のクレジットが見えます。
これは、博多の中呉服町にあった「嶋井精華堂」という、当時の福岡では大手の印刷所のこと(現在、嶋井精華堂は南区柳河内に移転)。こういったカラフルな図版の印刷も得意としていました。
余談ですが、嶋井精華堂はまだ作家になる前の松本清張が、昭和8(1933)年の半年ほど見習いとして働いていたことがある印刷所でもあります。
2枚目のポスターは、よく見ると背景に軍馬の行列が描かれています。
大東亜建設大博覧会では、馬政局・馬事協会・競馬協会が協力した「馬事館」という、まさに軍馬に特化した館があり、これは戦死した軍馬の忠魂碑を中心に構成されたものでした。
また会期中には馬に縁のある神社ということで愛宕神社の宮司が斎主を務めた軍馬三千頭の形見の鬣(たてがみ)納めも行われています。
偶然にもこの博覧の会場自体、元はといえば競馬場! それを意識してかどうか分かりませんが、会場自体がまさに馬に縁のある場所だったんですね。
そして、いずれのポスターにもよく見ると「納税済」という検印が押されています。
これは、昭和17年に施行された広告税法による広告税を納付しましたよ、という印でしょう。この広告税とは、戦力増強や戦時財政強化を目的に徴収されるようになったものです。
ポスターのモチーフだけでなく、こうしたところにも戦争の影響、当時の世相を見ることができます。
ところがこれら2つのポスター、実はどちらも先の懸賞募集で1等となった作品とは違うポスターなのです。
6月14日の紙面には「大東亜建設博ポスター決る」という見出しで、大名町の「西本茂」という人物が描いたポスターが、写真付きで紹介されています。もちろんモノクロなので色味などは分かりませんが、明らかにこれら2枚とは違うデザインです。
こうした印刷物、とくにポスターなどは消耗品でもあるので、会期が終われば捨てられてしまうことが常なのですが、ぜひどこかに残されていることを祈るばかりです。
もう1つ。ちょっと余談ですが、このポスター懸賞には、のちに「うまかっちゃん」のネーミングおよびパッケージデザインや子供たちの「童画」などでも有名な西島伊三雄も、トヨタ図案社在籍時に応募して佳作に入選していました。これは新聞に載った名前で初めて知ったのですが、当時どのような作品を作っていたのか、こちらも気になるところです。
当時、デザイナーは「図案屋」と呼ばれていて、いわば職人のような立場でしたから、作品にサインを入れたり、「○○作」といって名前が出ることなどほとんどない時代でした。現存する2枚のポスターも、一体誰の作なのか分かりません(なので「もしかしたら西島伊三雄作かも…」という妄想も勝手に広がります)。
この時期、東京・大阪、そして福岡でも、戦後に大活躍するデザイナーが、実はすでにその活動をはじめていて、戦時博覧会や国策イベントへ参加・協力することで、力をつけていったこともまた事実でした。
※ この辺りの戦前~戦後の福岡の都市デザインのお話については、ぜひ前回の市史講演会をご覧ください(映像です)。
市民への宣伝手段はほかにもありました。「博覧会の歌」の制作です。
この辺りは今もイベントにあわせた「イメージソング」を作る発想と同じですね。
規制がある中ですが、この場合「国威を高揚させる」という意味でも歌は重要な要素でしたので、制作については許されたようです。いつの時代も規制だけではなく、それと表裏一体に「楽しさ」というのがプロパガンダにとって大事な要素でもありました。
博覧会ソングは紙面で一般から歌詞を募集しましたが、このとき「行進曲風」のものと「歌謡曲風の小唄」の2パターン募集しています。
8月には小唄の歌詞の当選者発表があり、一等には福岡市の渋田文一郎さんと青木昇さんという方による合作の歌詞が選ばれました。その歌詞がこちらです。
栄ゆる福岡 御稜威に晴れて
花のアジヤは ここから明ける
サッサ百道の 松原越しに
仰げ興亜の 旭が昇るソラ
東亜建設博覧会の
絵巻彩なす 大殿堂
(2番)
燃ゆる火の雲 大陸千里
怒濤さか巻く ■海かけて
サッサ皇軍 武勲の■は
やまとの桜の 花と咲くソラ
東亜建設博覧会の
今日も賑はふ 人の波
(3番)
錫の山から ゴム林はるか
遠い万里の 島々までも
虹と■きたつ 油田の宝庫
サッサ協和の 火華と汗で
拓く楽土の 大資源ソラ
東亜建設博覧会の
生気湧きたつ 博多湾
(4番)
輝く日の丸 漲る希望
サッサ一億 総力あげて
築く世界の 新秩序ソラ
東亜建設博覧会の
旗に世紀の 風が鳴る
※■は判読不明
(昭和17年8月6日『福岡日日新聞』朝刊4面より)
福岡の特徴も織り込んだ、なかなか勢いのある歌詞ですね。
「博覧会の歌」の方の当選歌詞は、確認した限りでは公表されていないのですが、結局、民謡歌人の原善麿(はら・よしまろ)の詞を採用したようです。
「小唄」は先ほど紹介した当選歌詞に、なんとあの服部良一が作曲し、当時コロムビアに所属した歌手・菊池章子の歌によって発表され、また「博等会の歌」は原善麿の歌詞になんとなんとあの古関裕而が曲を書き、古関とゴールデンコンビと名高い伊藤久男の歌で、どちらもコロムビアからレコード化されました。
そして実際の博覧会の会場設計は、建築家で当時帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)校長や造型美術学園学園長を経て、国民生活科学文化協会常任理事となっていた山脇厳らが担当し、設営はそれまでも多くの博覧会会場を手掛けていた乃村工藝社が担当しました。
これ、実は結構すごいことで、山脇厳は夫人とともにドイツに留学してバウハウス(工芸・写真・デザイン・建築など総合的な教育を行った世界でもトップレベルの美術学校)でモダニズム建築を学び、帰国後はニューヨーク万国博覧会で国際館日本部の設計を手掛けるなど、国際的に活躍した建築家であり、著名な写真家でもありました。
その山脇の設計で作られた正面入口は、竹材や白壁を使った和風なもので、門をくぐるとすぐに大パノラマや南洋のジャングル模型などがあるという、資材不足の中でも工夫を凝らしたものだったようです。
博覧会会場の広さは約2万坪、建物面積は約3千坪に及ぶもので、当時の地方博としてはなかなかの規模だったようです。
ちなみに2万坪とはだいたい福岡PayPayドームの建物部分と同じくらいの広さに当たります。
(『博展』第71号掲載会場図と絵葉書を基に作成)
この会場図は、開会後に作られた記念絵はがきにあった会場図面を基に作成したものですが、実は当初はこれとは少し違うレイアウトだったようなのです。
というのも、先ほど登場した山脇巌が、日本博覧会協会という団体の機関誌である『博展』に寄せた会場解説を寄稿しているのですが、それとあわせて掲載された会場図はこちらです。
この図では正面入口付近に「子供遊園地帯」がありますし、その他の建物も微妙に位置が違います。
絵葉書には「子供遊園地帯」はありませんでした。
ただ、博覧会を実際に見学した東京商工会議所の宇野正寬のレポートによれば、「余興場、食堂、子供遊園地等、博覧会場としての面目は十分である」(『博展』1942年11月号)とあり、やはり子供遊園地は存在していたのかもしれず、実際どうだったのかは分からずじまいでした(書籍『シーサイドももち』では遊園地のない図を採用しました)。
最初に会場図が掲載された『博展』は、開会4カ月前の5月発行なので、このあと計画変更が行われたのかもしれませんし、何より開会直前に福岡を襲った台風被害の影響があったのかもしれません。
数々の規制や資材不足を乗り越えながらもせっかく準備を進めたにもかかわらず、8月27日夜の暴風雨でほとんど完成していた建物のうち、なんと8棟が倒壊してしまったのです。
なんとか復旧したものの、鉄道の不通で出品物が届かず、やむなく開会日を4日ほど遅らせたほどの被害があったといいます(当初はポスターのとおり9月20日開会予定だったのが、9月24日開会に変更)。
そういった事情から、計画が一部変更となってしまったのかもしれません。
* * * * * * *
こうした困難を乗り越えながら、百道での初の博覧会「大東亜建設大博覧会」は開会しました。
当初、「宣伝禁止!」「過度なイベント禁止!」と規制された中で始まった博覧会ですが、実際にはさまざまな催しが連日行われ、また整備された電車の効果もあって、多くの人が訪れ大盛況だったようです。
50日間におよぶ会期の中でどんなことが行われ、どんな展示がなされたのか、その内容はまた次の機会に詳しくご紹介していきたいと思います。
・田中諭吉『企画奥の手 アイデアを生んで成功させるまで』(積文館、1961年)
・『70万時間の旅―Ⅱ』(株式会社乃村工藝社、1975年)
・「松本清張記念館館報」第15号(2004年3月)
・西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会『西日本鉄道百年史』(西日本鉄道株式会社、2008年)
・福間良明『「聖戦」の残像 知とメディアの歴史社会学」(人文書院、2015年)
・昭和17年4月26日『福岡日日新聞』朝刊4面「[社告]大東亜建設大博覧会ポスター図案懸賞募集」
・昭和17年5月16日『福岡日日新聞』朝刊3面「[社告]征戦完遂の豪華大絵巻 今月末に会場で厳かな地鎮祭 準備進む大東亜建設大博覧会」
・昭和17年6月14日『福岡日日新聞』朝刊6面「大東亜建設博ポスター決る」
・昭和17年7月3日『福岡日日新聞』朝刊4面「[社告]大東亜建設大博覧会歌詞・スタンプ・標語懸賞募集 応募規定
・昭和17年8月6日『福岡日日新聞』朝刊4面「本社募集 博覧会小唄当選発表」
・昭和17年9月3日『西日本新聞』朝刊3面「戦勝の秋に贈る豪華版 大東亜建設大博覧会開幕迫る」
・昭和17年9月15日『西日本新聞』朝刊3面「博覧会ダイヤを編成 早くも申込み殺到」
・昭和17年10月19日『西日本新聞』朝刊3面「高鳴る日満進軍 大東亜建設博・満州日の盛況」
・雑誌記事
・『博展』第69号/5月号(日本博覧会協会、1942年)
・『博展』第70号/6月号(日本博覧会協会、1942年)
・国税庁Webサイト「広告税の課税物件」/https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/quiz/1406/index.html
・「大東亜建設博覧会後援の件(防衛省防衛研究所)」(Ref.C04014947000)
・田中美帆
#シーサイドももち #大東亜建設大博覧会 #戦時博覧会の様相 #田中諭吉 #西島伊三雄 #松本清張 #山脇巖 #服部良一 #古関裕而 #伊藤久男
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
※誤字を修正しました(2023年9月29日.16:30)
2023年9月22日金曜日
【別冊シーサイドももち】〈055〉34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした ―電話やカメラや灰皿の話―
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回 (「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回 (「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回 (「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回 (「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回 (「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回 (「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回 (「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回 (「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回 (「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回 (「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈055〉34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした─電話やカメラや灰皿の話─
アジア太平洋博覧会(よかトピア)は1989年に開催されました。
34年が経った今、あの景色が当たり前ではなくなったというものもあるようです。
と言うのも、先日よかトピアのトイレと日陰について調べるために『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』をめくっていたときに、「あー、これ今は見ないなー」と思わず手を止めた写真や記述があったからでした。
トイレと日陰は今でも必須ですが、その反対に過去のものになりつつある景色…。
今回はそんな話を集めてみました。
まずは、よかトピアの会場を写した1枚の写真から。
公衆電話がこんなに並んでいる姿、最近は見なくなりましたよね…。
よかトピアでは、ずらりと並んだこの公衆電話から国際電話もかけられたそうです。
この公衆電話は緑色ですので、テレホンカードが使えるタイプ(そうそう、テレホンカードってテレカって略してましたよね)。
確かによかトピアでは、博覧会協会の公式グッズにも、パビリオンを出展している企業ものにも、テレカがたくさんあるのです。
実は私もまだその全種類を把握できていないほどです…。
福岡市博物館に収蔵されているよかトピア資料のなかにも、テレカがいくつもあります。
今回あらためて探してみました。
たとえば、これ。
博覧会の記念テレカと福岡を紹介するリーフレットがセットになったものです。
開くとこうなってます。
入っていたテレカは、違う絵柄で3枚。
105度数が2枚と50度数が1枚でした(度数という言い方も懐かしいですね!パンチの穴が0に近づいていくたびにドキドキしていました)。
携帯電話を誰もが持っていなかった時代に、財布などにテレカを1枚入れておいて、もしもの連絡に備えていたのを思い出しました(よくかける電話番号も暗記してましたよね)。
このリーフレット、裏面には会場内の公衆電話の位置まで書いてあります。
これを見ると、広い会場内にまんべんなく配置されていて、どこかの公衆電話にはすぐにたどり着けるようになっています(この図で人工海浜の端っこにもあったのを知ってびっくりでした)。
会場内の公衆電話は、こういう感じでボックス型のものもありました。
最近はまちで電話ボックスを見かけることもすっかり減ってきましたね…。
公衆電話の次はカメラです。
よかトピアの会場には、カメラに特化した売店がありました。
フィルム・カメラを販売する「フィルムセンター」(広さは6㎡)は全部で7店舗。
会場をおおよそ7つのブロックに分けて、どこにいても近くで購入できるように配置されていました。
当時はデジタルカメラではなく、フィルムカメラ。
フィルム時代は撮りたいと思ったときに限って「あー、フィルムの残りがない…」なんてこともありましたから、これだけお店があると、とても便利だったはずです(逆にフィルムが数枚だけ余ってしまって、家に帰ってから無駄なものを撮ったりすることもありましたけど…)。
特にこのころはレンズ付きフィルム(「使い捨てカメラ」なんて呼ぶ人も多かったです)が大人気。
カメラを持っていかなくても出先で買うことができるので、こうしたフィルム販売店は博覧会には必須になっていました。
よかトピア会場には次のような配置でメーカーが「フィルムセンター」を出店していました。
【西ゾーン】
フジ・フィルムセンター
コダック・フィルムセンター
【プレイゾーン(遊園地)】
コダック・フィルムセンター
【グルメワールド東】
フジ・フィルムセンター
【グルメワールド西】
コダック・フィルムセンター
【リゾートシアター付近】
コダック・フィルムセンター
コニカ・フィルムセンター
コダック、コニカ、フジ。
どれも当時のカメラ・フィルムの主要メーカーですけど、今ではカメラにとどまらない幅広い商品を扱うブランドになっています。
加えて、このほかの2か所に置かれた「写真総合サービスステーション」(広さは15㎡)では、フィルム・カメラ・カメラの付属品の販売だけではなく、フィルムの即時現像・プリントアウトや、カメラについての相談まで受け付けていました。
場所は南ゾーンと東ゾーンです。
【南ゾーン】
コダック・写真総合サービスステーション
【東ゾーン】
フジ・写真総合サービスステーション
どちらも入場ゲートがある場所で、誰もが駆け込みやすい目立つところに置かれていたことが分かります。
そう思って、写真をよく見直してみると、ありました!
ここは南ゲートから入ってすぐの場所で、テーマ館(現在の福岡市博物館)の正面なのですが、写真の左端の方を見てみてください。
拡大してみます。
確かに「Kodak」の文字とそれを表す黄色いカラーのお店があって、「カラープリントスピードセンター」と書いてあります!
「写真総合サービスステーション」の現像・プリントコーナーのようです。
お客さんもけっこういらっしゃいますね。
何度も見た写真なのですが、これまでまったく気付いてなくて、見逃していました…。
(そしてこの前調べた日陰をつくるシェルターも何気に写っていました。売店に来るお客さんの日除けにも使われていたのですね。これもあらたな発見でした)
福岡市博物館には「フィルムセンター」「写真総合サービスステーション」で売られていた、よかトピア特別仕様のレンズ付きフィルムやそのサンプルが残されています。
『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』には、「若者や団体客を中心に爆発的な売れ行きを示し、会場の至るところで使い捨てカメラによる撮影風景を見ることができた」とわざわざ書いてあるほどの人気ぶりでした。
黄色いコダックの方は箱のサンプルのみです。
背面の使い方の説明が80年代風でかわいいですよね。
最近若い世代を中心にまた流行っていますので、昔使っていた方には懐かしく、当時を知らない方には昔はこんなデザインだったのかと新鮮かもしれないですね。
この写真は3点とも『シーサイドももち』の本をつくる時にカメラマンの加藤淳史さんに撮ってもらったものです。
「懐かしいですねー」と作業の手を止めてお話ししたことを思い出します。
本には載せなかった別角度のアウトテイクをここでやっとご披露できました(加藤さん、あらためてあのときはありがとうございました!)
当時カメラが必携だったことは、その忘れ物・落とし物の多さでも分かります。
公式記録によれば、会期を通しての落とし物(拾得物)の数は6056件でした。
そのうちの529件がカメラです(8月は175件もありました…)。
このなかには先ほどのレンズ付きフィルムもかなり含まれていると思います。
当時のお出かけには何かしらのカメラを必ず持っていったものですから、忘れたりなくしたりした数が多いのも仕方のないことかもしれませんね。
ちなみに、よかトピアでの忘れ物や落とし物は、会場内の「忘れ物センター」で把握されていたとのこと。
ここで拾得物と遺失届を照合して、どうしても落とし主が分からないものは、毎週木曜日に福岡西警察署に届けていたそうです(当時のスタッフさんのご苦労をお察しします…)。
これは写真用のカメラの話でしたけど、会場ではビデオカメラのレンタルもやっていたようです。
詳しくは分からないのですが、南ゾーンで8ミリビデオカメラのレンタル店をソニーが出していました(「SONY8ミリビデオレンタルプラザ」という名前のお店)。
ビデオカメラがまだ大きくて値段も高いころですが、写真だけではなく、動画で思い出を残そうとした方も多かったのでしょうね。
よかトピアでは入場者の思い出作りにまで配慮しながら、店舗を配置していたことを今回あらためて知りました。
ところが、電話をかけることも、写真を写すことも、動画を撮ることさえも(何なら会場からリアルタイムで配信することだって)、今の私たちは自分のスマホで全部できてしまいます…。
こうしたよかトピアで見られた景色は、もうすっかり過去のものになってしまいました(こうしてあらためて調べた後だと、いろいろ思い出して何だかちょっと寂しく感じています…)。
よかトピアの写真を見ながら、今では少なくなった景色としてもう1つ気付きました。
たばこです。
会場内には、たばこと関連商品を販売する「たばこセンター」が1店舗ありました(リゾートシアター付近)。
カメラ店に比べるとずいぶん少ないのですが、広さが36㎡ですので、今コンビニのレジのうしろに並んでいる姿とはだいぶん違っていますよね(おそらく喫煙所を併設していたのだろうとは思うのですが、詳しくは分かりませんでした…)。
センターは1店ですが、会場にはたばこの自販機がありました(福岡たばこ販売共同組合が営業していました)。
会場内には清涼飲用水の自販機コーナーが17か所にあって、1か所に5~10台が並んでいたのですが、このうち10か所にはたばこの自販機も1台ずつ置いてありました。
カメラと同じで、よかトピア仕様のたばこ(マイルドセブン)も売られていました(公式記録に写真がありました!)。
これだけたばこが売られているのなら、会場内には灰皿もそれなりの数が必要になるはずです。
調べてみると、その数は全部で180個。
このほかに灰皿付きのゴミ箱も165個ありましたので、あわせると345個にもなります。
今では、たばこを自販機で買うには成人識別システム(タスポ)が必要になっていますし(日本たばこ協会によれば、タスポは今後終了の見込みとのこと)、まちではたばこの自販機や喫煙所もかなり減っています。
喫煙者自体が減少傾向ですし、吸う方でも電子たばこを使う人が増えています。
たばこの自販機や灰皿が会場のあちらこちらに置かれた博覧会の景色も、当時だからこそでした。
そうか、そうすると今はコンサートなどでは電子チケットを買うこともありますよね?
ネットで決済すると、スマホにQRコードが送られてきて、それを会場でピッとやって入場するのも普通の姿になっています。
よかトピアの入場ゲートにあったチケット売り場のこの写真、こういう様子も、もう見られない景色になるのかもしれませんね。
・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)
・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)
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[Written by はらださとし/illustration by ピー・アンド・エル]