「昭和42年の印旛沼の渇水さわぎのときであったと思う。八幡製鉄の幹部の方が県庁に見えて、豊英ダムは着工することに決まったが、その次の計画どうなっているのかと心配された。漠然と「湊川と小糸川を結べばいくらかの水が」としか考えていなかった。その後、八幡製鉄と共同で調査隊を編成していくつかのダムサイトを調査した結果、現在の湊川から取水し、トンネルで郡ダムまで持ってきて、水量調整のうえ、小糸川(郡川)へ放流する案が採用されたのである。」即ち、小糸川上流の豊英ダム(工業用水道用)により85 000m3/日、湊川導水計画により10万m3/日、小糸川下流地域の農業用水の転用により21 000m3/日と合わせて206 000m3/日の工業用水を供給する計画とされた。