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富士の国 やまなしの魅力
山梨県の大地では、約3万年前から人々が生活していたことがわかっています。12世紀には甲斐源氏が興り、16世紀の戦国時代には武田信玄が天下統一を目指します。19世紀に鎖国が解かれると、明治元年に甲府から甲府県を経て山梨県となり、急速に近代化が進み現在に至ります。
山梨県の大地に人々の営みが認められるのは、約3万年前からです。原始社会は狩りや魚とり、木の実を採取する段階から、やがて米作りの段階へと進み、ムラが統合されてクニが形成されます。4世紀末から大丸山古墳や銚子塚・丸山塚古墳が造られ、甲府市中道地区の曽根丘丘陵に大きな勢力が存在していたことが伺えます。8世紀の山梨は甲斐国といい「山梨・八代・国麻・都留」の4群からなり、その中心は国府・国衛の地名や国分寺があることから、今の笛吹市春日居町、御坂町、一宮町付近にあったといわれています。12世紀に入ると公家による古代国家の体制は揺らぎ、その中から台頭してきたのが武士でした。1131年ころ、甲斐国には源義清、清光の親子が入り、甲斐源氏を興します。
甲斐源氏の諸氏のうち、武田氏や小笠原氏、南部氏などは後世まで繁栄します。16世紀の武田氏は、戦国大名として発展し、甲府につつじヶ崎館や要害城を築き、ここを拠点に四隣経路を進め、天下統一を目指しました。1582年に武田氏が滅亡すると、甲斐国は織田・豊臣・徳川と支配が移り、江戸幕府の下で甲府藩(国中)、谷村藩(郡内)が成立しますが、1724年は幕府直轄地となります。甲州街道や富士川舟運の発達は、物資の流通や文化の流入を促しました。19世紀に入ると、幕藩体制の矛盾から各地に一揆が多発し、山梨県でも天保騒動が起こりました。このころ、日本は欧米諸国の圧力により鎖国を解き、近代国家への道を歩み始めることになります。
甲州は明治元(1868)年3月、官軍の甲府城入城後、甲斐府から甲府県を経て、同4年11月20日に山梨県となります。明治前半は、藤村県令の勧業政策により、製糸業やぶどう酒醸造業が育成されます。後半は中央線が開通し、産業や文化が進展します。農家は小作地率が高く、大正から昭和にかけて小作争議が多発しています。富士川舟運は中央線の開業によって急激に衰退し、身延線の開通する昭和初期にはその歴史を閉じます。昭和20(1945)年、終戦を迎え、戦後の農地改革によって自作農中心の体制となり、その後の農業経営は果樹への転換が著しくなります。高度経済成長期には商工業が発達しました。さらに昭和57年(1982)年の中央自動車道の全線開通後は物流に拍車がかかり、ますますの工業化が進んで今日に至っています。
山梨県庁舎別館は昭和2年から建設が始まり、昭和5年に完成しました。意匠はルネサンス様式を平明にした清新なもので、平面の形や軒瓦の文様を山乃寺にかたどるなど郷土性豊かで、重厚な外観と静的な内部空間を持っています。平成21(2009)年12月24日、県議会議事堂とともに県の有形文化財に指定されました。
別館は貴重な文化遺産であるとともに、山梨県の発展を支えてきた幾多の先人達の思いが詰まった建物でもあります。先人達が山梨県を舞台にどのような活動をしたのか、時代を超える記憶が刻まれています。旧知事室や旧正庁等を当時の雰囲気を感じていただけるよう再現した「山梨近代人物間」では、概ね明治時代から戦前までの間、山梨県の発展に貢献した人物や、山梨県出身の国内外で活躍した人物を紹介しています。農林業、政治・経済、国際交流、教育、芸術、学術など幅広い分野から50人の人物を選定しており、毎年2回ずつテーマに沿って9人の人物を紹介しています。