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更生保護の歴史

司法保護事業の時代

近代的な更生保護思想の源流は、明治21年に金原明善、川村矯一郎を中心とした慈善篤志家の有志が、監獄教誨と免囚保護を目的として設立した静岡県出獄人保護会社に求められます(注)。同保護会社の設立趣意書には「出獄人ノ内,不幸薄命ニシテ社会ノ門戸ニ入リ正当ノ職業ニ就ク能ハザルモノヲ保護シ,各其ノ所ヲ得,昭代ノ良民タラシメ……内ハ以テ吾人ノ幸福ヲ増進シ,外ハ以テ社会ノ安寧ヲ維持セン」とあり、現在の更生保護の基本法である更生保護法第1条「この法律は、犯罪をした者及び非行のある少年に対し、社会内において適切な処遇を行うことにより、再び犯罪をすることを防ぎ、又はその非行をなくし、これらの者が善良な社会の一員として自立し、改善更生することを助けるとともに、恩赦の適正な運用を図るほか、犯罪予防の活動の促進等を行い、もって、社会を保護し、個人及び公共の福祉を増進することを目的とする。」との目的規定とまさに一致します。
同会社の設立を契機として、各地に釈放者保護団体が、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派等の仏教教団、僧侶や一部のキリスト者によって設立されるようになりました。これらの団体は主として出獄人に衣食住を提供するいわゆる直接保護事業を行うものでしたが、明治30年の英照皇太后の御大喪恩赦によって出獄人が増加し、出獄人をその居所においたまま、訪問指導、通信指導をする間接保護や、旅費、衣料等を給貸与する一時保護を行う保護団体も設立されるようになりました。これは現在の保護観察の走りともいえるものです。中には、明治42年5月に福井県の浄土真宗本願寺派寺院を糾合して設立された福井福田会のように、直接保護事業を行う団体を中心として、間接・一時保護を行う支部を組織化したものもあり、この支部に保護司の原形ともいえる民間の司法保護委員を配置して事業実施に当たりました。
このように始まった日本の更生保護事業は、その後も民間の活力によって拡大する一方、次第に国の刑事政策の中に取り込まれ、旧少年法の少年保護司による観察、思想犯保護観察を経て、昭和14年の司法保護事業法によって、国の制度として明確に位置付けられました。同法は、司法保護のうち、収容保護と一時保護を司法保護団体に、観察保護を司法保護委員に当たらせることとしたが、実施主体はいずれも民間の団体と篤志家でした。


出獄人保護会社設立に関する書物

(注)吾作は身を投げた
当時、静岡監獄に、あらゆる罪科を重ねた吾作(仮名)という囚人がいた。多くの看守、押下がほとほと手を焼くほどの問題受刑者であったが、副典獄(今でいえば刑務所の副所長)であった川村矯一郎の熱心な訓戒が効を奏して心底悔悟するに至り、出所の時には川村副典獄に「今後は道に外れるようなことは、誓っていたしません」と必ず更生を遂げ再び監獄には戻らないことを誓って獄を去っていった。
吾作は、10年以上も獄にあった。喜び勇んで我が家あたりまで帰りついて見ると、背戸の柿の樹も、庭の木々も昔のままに繁っている。己が家も昔のままではあるが、中に住む人は変わっているらしい。様子をうかがってみると、もはや父母はなく、かつての我が妻は他人の妻となっているらしく、見知らぬ三人の子供たちと仲睦まじくしている。そのまま家に入っていくわけにもいかず、やむなく村内の親戚を訪ねて一夜の宿を乞うたが、「お前のような悪者は泊めるわけにはいかない」とにべもなく断られ、せめて一晩庭の隅なりと頼んだが、それさえもまかりならぬと追い返されてしまった。すごすごと引き返した彼は、警察署にゆき、その袖にすがろうともしたが、「放免になった者を手にかけるわけにはいかない」という。
寝るに宿なく、食するに一文の金もない。以前の彼だったら、たちまち悪事に走ったはずである。が、脳裏に浮かぶのは、川村副典獄の訓戒である。川村副典獄との約束である。二度と悪事はできない。彼は遂に川村副典獄にあてた長い書置きを残して、村外れの池に身を投じ、自らの命を断ってしまった。
矯一郎は、この報知を受け、書置きを手にすると長大息をついた。そして金原明善に会うと事の仔細を語った。話を聞いた明善は、「川村さん、あんたの名訓戒も、人を殺すに至っては功徳とはいえない。改心して監獄を出た者を社会の中でしっかりと保護する方法を考えなくてはいけません。常々、あんたは、欧米には出獄人を保護する団体があると言っているが、それをなんとか、静岡県にも作ろうではありませんか」と提案をした。この出獄人保護会社の設立の発端となる金原明善と川村副典獄とのやりとりは、明治20年中のできごとと思われる。ここに二人の行脚が始まり、県下の有力者を主唱者に依頼して、出獄人保護会社の設立を図ろうとする運動が始まったのである。

静岡県にある日本で最初の更生保護施設設立の契機となったエピソードです。「金原明善」は、実業家として、天竜川の治山・治水などの公共事業家として、また、教育者として、そして、更生保護事業の創始者として、人生を生きた人です(天保3年(1832年)生、大正12年(1923年)没)。


金原明善と静岡県出獄人保護会社

近代的社会内処遇への展開

第二次世界大戦の終了後、刑事司法の分野において、刑事訴訟法、少年法等が全面的に改正されるなどの大きな改革が行われ、更生保護に関しても昭和24年に犯罪者予防更生法が制定されて、新たな国家の制度として更生保護が成立しました。翌25年には更生緊急保護法、保護司法が制定され、更生保護会(更生保護施設)と保護司の民間における更生保護の実施機関の整備がなされ、やや遅れて昭和29年の刑法の一部改正、執行猶予者保護観察法の制定、昭和33年の売春防止法の制定をまって、成人、少年、仮釈放者、執行猶予者等広く保護観察の対象を広げて今日に至っています。
その後、平成8年には、更生保護法人制度の創設などを内容とする「更生保護事業法」が施行され、平成11年には、保護司法の一部が改正され、保護司組織である保護司会及び保護司会連合会の法定化がなされるなどの動きがありました。
そして、平成19年6月、従来の犯罪者予防更生法と執行猶予者保護観察法を整理・統合し、更生保護の新たな基本法となる「更生保護法」が制定され、平成20年6月1日から全面施行されました。更生保護法では、保護観察における遵守事項を整理・充実させるとともに、受刑者等の社会復帰のための生活環境の調整を一層充実させ、また、犯罪被害者等が関与する制度が導入されるなどしました。
以上のとおり、近代の更生保護は民間の篤志家の活力によって開かれたものであり、それは現在の更生保護においても保護司制度や、更生保護法人、更生保護女性会、BBSといった多数の民間団体に脈々と引き継がれています。更生保護法は、官民協働によって築かれてきた更生保護の理念と伝統を継承しつつ、その更なる充実発展を期すための基盤となるものであり、この法律の施行を機に、更生保護の対象となる者の再犯防止と社会復帰支援のための様々な取組について一層の充実が図られています。

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