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堀井恒雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(堀井幹夫から転送)
堀井 幹夫(堀井 恒雄)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府 城陽市
生年月日 (1958年11月15日) 1958年 11月15日(65歳)
身長
体重
183 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1980年 ドラフト2位
初出場 1981年 4月8日
最終出場 1990年 5月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
この表について
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しかくプロジェクト:野球選手  しかくテンプレート

堀井 恒雄(ほりい つねお、1958年 11月15日 - )は、京都府 城陽市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ解説者1984年から1990年の登録名は「堀井 幹夫」(読み同じ)。

経歴

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プロ入り前

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実家は1887年代々続く宇治茶の栽培農家で、幼少の頃から玉露煎茶を当たり前のように飲み[1] ジュースは飲んだことが無かった[2] 。「体を動かすのが好きで」と小学校まで柔道、中学ではクラスメートに誘われて野球部に入部し、入部後間もなくの強さを買われ、投手に転向[1] ノーヒットノーランを達成するなど才能を開花させ[1] 大谷高校卒業後の1977年大阪商業大学へ進学。

関西六大学リーグでは1年次の同年からマウンドに上がったが、3年次の1979年にはベンチ入りメンバーからも外れてしまった。その1年間をひたすらランニングに費やし、その甲斐あってか4年次の1980年春季で4勝1敗、防御率1.15を記録し、一気にドラフト上位候補になった。在学中2回の優勝を経験し、リーグ通算7勝6敗、大学同期に山田和英がいる。

プロ入り後

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同年のドラフト2位で横浜大洋ホエールズに入団し、1年目の1981年は開幕一軍を果たしたが、6試合登板で二軍に降格。二軍でも2勝10敗、防御率7.29と結果を残せなかった。1984年の春季キャンプで痛めていたを庇いながら投げていた所、右も痛めてしまった。治り切らないうちに投げ込みを開始し、二軍で復帰したが、再び右肘痛でリタイヤしてしまう。8月下旬に復帰するも、またも右肘痛と結局1年間を棒に振ってしまった。肘痛の不安を抱えたまま迎えた秋季キャンプで小谷正勝投手コーチから、腰の回転が向いているとサイドスロー転向を進められ、堀井は数日間悩んだ後にサイドスロー転向を決意。1985年より投球フォームをサイドスローに変更すると、難点であった制球力が安定し頭角を現す。同年6月8日阪神戦(札幌円山)で初勝利を挙げ、同年は肘痛も無く1年間を通して活躍し、先発陣の一角として5勝とブレイク。1986年には主に中継ぎとして起用され、自己最高の7勝2セーブを記録した。

1987年オフ、小山昭晴と共に石川賢との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。肘との故障を抱えながら臨んだ1990年4月30日西武戦(川崎)では4.2回を投げて11安打と猛打を浴び、敗戦投手とはならなかったが無残なKOとなり、試合後に金田正一監督から監督室に呼び出された[2] 。いきなり待っていたのは「引退せい!」という痛烈なひと言で、続けて「コーチになれ!」とも迫られた。堀井はまだ続けたいとも言えず「考える時間をください」と言えただけであり、当時は金田を恨んだ[2] 。理不尽とも思える引退勧告であったが、生前の金田は「何事にも耐えて黙々と努力する姿が脳裏に残っていたからだ」と後日談として残しており、堀井も後に「若かったからね。結局、あのひと言で引退が決まりましたが、冷静に考えたらコーチ職なんて、なかなか言ってもらえませんからね」と振り返っている[2] 5月6日ダイエー戦(平和台)が最後の登板となり、同年限りで現役を引退。

引退後

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引退後はロッテ二軍投手コーチ(1991年 - 1992年)→一軍投手コーチ(1993年 - 1994年)、台湾CPBL時報イーグルス投手コーチ(1995年 - 1996年)を務めた。帰国後はテレビ神奈川YOKOHAMAベイスターズナイター」解説者(1997年)を経て、古巣・横浜一軍ブルペンコーチ(1998年)→二軍[3] 投手コーチ(1999年 - 2004年)を務め、1998年には38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。二軍コーチ時代は教えるのではなく、一軍に早く上がるように手助けをすることに生き甲斐を感じた[2] 2005年には1年だけアメリカ独立リーグのジャパン・サムライ・ベアーズ投手コーチに就任し、この時はミールマネーだけで給料は無く、90日間で100試合というハードさであった[2] ウォーレン・クロマティ監督とはチームの方針を巡って毎晩のようにやり合っていたが、クロマティは堀井について「いいコーチだった。いつもスマイルね。彼はホエールズでプレーしてたんだろ?。私の記憶にはないけれど、私と同時期にセ・リーグにいたんだ。彼とはホテルなんかでもよく野球のことを話したよ」と振り返っている[4]

2006年に帰国し、横浜のスカウトに就任。チーフスカウト[5] を経て、DeNAでは編成部専任部長を務めた[6] 。要職を務めた一方、ある時に海外で飲んだ日本茶の不味さに驚き、「世界の日本茶に対するイメージをどうにか変えないといけない」と感じた[1] 。半ば使命感のように「いつかはお茶に携わる仕事を」と思い続け[2] 、現在は横浜市 保土ケ谷区 天王町で宇治茶を販売する製茶店「又兵衛」を経営している[7]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1981 大洋 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 32 6.2 8 2 4 0 0 5 0 0 4 4 5.14 1.80
1982 6 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 44 11.1 5 0 8 0 1 6 0 0 4 4 3.27 1.15
1983 13 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 104 21.1 27 1 13 2 0 12 2 0 13 9 3.80 1.88
1985 40 14 0 0 0 5 8 0 -- .385 545 123.0 136 10 49 4 4 48 3 0 73 68 4.98 1.50
1986 47 1 0 0 0 7 4 2 -- .636 301 71.0 82 8 15 3 0 45 1 0 34 31 3.93 1.37
1987 23 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 133 27.1 35 3 18 1 1 13 2 0 24 15 4.94 1.94
1988 ロッテ 12 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 70 16.0 15 3 8 0 1 9 1 0 10 10 5.63 1.44
1989 18 0 0 0 0 1 1 0 -- .500 117 27.0 30 2 11 0 3 18 2 0 14 11 3.67 1.52
1990 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 37 6.1 14 0 3 0 0 4 0 0 10 2 2.84 2.68
通算:9年 168 16 0 0 0 15 17 2 -- .469 1383 310.0 352 29 129 10 10 160 11 0 186 154 4.47 1.55

背番号

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  • 14 (1981年 - 1982年)
  • 11 (1983年 - 1987年)
  • 16 (1988年 - 1990年)
  • 83 (1991年)
  • 76 (1992年)
  • 88 (1993年 - 1994年)
  • 2 (1995年 - 1996年)
  • 74 (1998年 - 2004年)

登録名

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  • 堀井 恒雄 (ほりい つねお、1981年 - 1983年、1991年 - )
  • 堀井 幹夫 (ほりい つねお、1984年 - 1990年)

メディア出演

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出典

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  1. ^ a b c d 世界緑茶コンテストで金賞に輝いた 堀井 恒雄さん 天王町在勤 59歳 - タウンニュース
  2. ^ a b c d e f g 日本茶の世界へ-華麗なる転身を遂げた元サイドスロー投手 「世界緑茶コンテスト」で金賞受賞歴も /あの人〜ネクストステージ/オピニオンD/デイリースポーツ online
  3. ^ 2000年からは湘南シーレックス
  4. ^ クロマティが嘆く日本プロ野球の組織図。夢を追い海を渡った若者と孤立した指揮官の溝【『サムライ・ベアーズ』の戦い#5】 | ベースボールチャンネル(BaseBall Channel) - Part 2
  5. ^ 横浜:ドラフト3位の荒波にあいさつ、河本明取締役と堀井恒雄チーフスカウトら | ベイスターズ | カナロコ by 神奈川新聞
  6. ^ 唐津商・北方投手、横浜と仮契約 背番号28「大黒柱めざす」(朝日新聞デジタル)
  7. ^ 又兵衛|横浜市保土ヶ谷区のお茶屋さん|はまれぽ

関連項目

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外部リンク

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