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平常澄

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(2017年4月)
 
平常澄/上総常澄
時代 平安時代後期
別名 常隆、常高、常尊、佐賀六郎、相馬六郎
官位 上総権介
主君 源義朝
氏族 房総平氏上総氏佐賀氏
父母 父:平常晴
兄弟 戸気長実常澄
伊西常景印東常茂匝瑳常成佐是円阿大椎惟常埴生常益天羽秀常
上総広常 相馬常清臼井親常
時田為常金田頼次
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平 常澄(たいら の つねずみ)は、平安時代後期の武士上総氏3代当主。平常晴の子。子に上総広常などがいる。諱は常隆常高常尊、また名を上総常澄とも。生年は不明。確実な史料には「前権介」としかみえないが、諸系図には「上総介」とみえる[1]

略歴

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佐賀六郎、もしくは相馬六郎と号した(このことから六男であることが分かる)。実父である常晴との折り合いが悪かったのか、常晴は兄・常兼の三子・千葉常重養子として先祖代々の下総国 相馬郡の地及び房総平氏惣領の座を譲った。

ところが、常重は不手際を起こしたため、下総国守 藤原親通に拠って保延2年(1136年)7月15日に逮捕・監禁され、相馬立花郷を強奪されてしまう。常澄はこれを好機と捉え、折から坂東に赴任していた源義朝に取り入った(義朝の腹心である三浦義明の娘と常澄の末子・金田頼次の縁組はその一環と考えられる)。義朝も房総半島に自己の勢力を伸ばす好機と捉え、常重から布施郷を奪取している。所領を巡る争いは、常重の息子である千葉常胤の代まで持ち越されることになる。

また、常澄には多数の子息がおり、上総氏の分流が形成されるが(広常は八男)、相続を巡って上総氏内部でも抗争が起きることになる。

系譜

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偏諱を与えた人物

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脚注

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注釈

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  1. ^ 常澄は、三浦義澄の元服の際に加冠役(=烏帽子親)を勤めたとされている[2] 。元服にあたっては、それまでの童名(幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名(通称名)と実名()が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多く[3] 、常澄と義澄に共通する「澄」の字がそれにあたることが分かる[4]

出典

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  1. ^ 野口実「平家打倒に起ちあがった上総広常」(『千葉史学』20号、1992年)
  2. ^ 野口 1994.
  3. ^ 山野 2012, p. 162.
  4. ^ 山野 2012, pp. 163–168.

参考文献

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先代
相馬常晴
上総氏歴代当主
-
次代
伊西常景

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