リューリク朝
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リューリク朝(リューリクちょう、ウクライナ語: Рюриковичі、ロシア語: Рюриковичи、ベラルーシ語: Рурыкавічі、ポーランド語: Rurykowicze)は、リューリクを始祖とする公家で、9世紀から16世紀半ばにかけてキエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国、モスクワ大公国などの東欧諸国を統治した君主の公朝である。
概要
[編集 ]伝説によると、リューリク朝の創立者はリューリクというノルマン人の長である。ロシアの諸族は互いに争って秩序がなかったため、862年、バリャーグのルーシに使者を送り、彼らを統治してくれるように頼んだ。これに応じてリューリク以下3人の兄弟がロシアに来て、ロシアを治めた。彼はスラヴ人の町であったノヴゴロドを支配下に置き、キエフ現地の大公朝を滅ぼし、自分の幼い息子イーゴリをキエフの統治者にした。その摂政であったオレグ公は、キエフのもとでキエフ大公国(ルーシ)を建国し、死後にイーゴリに譲った。
イーゴリの息子、スヴャトスラフ1世はキエフ大公国をさらに拡大させた。その数人のキエフ支配者の中でスヴャトスラフ以外は半伝説的人物であり、『ルーシ年代記』にしか出てこない。それゆえに、スヴャトスラフ1世は多数の史料で裏づけることができる「リューリク朝」の初の代表者、もしくは創立者であるかもしれない。
スヴャトスラフ1世の息子であったウラジーミル1世からリューリク朝は初めて支流に分かれた。それはヴラジーミル1世の息子、イジャスラフの子孫からなるポロツク大公朝の分流であった。ポロツク大公朝からさらに、現在のベラルーシの諸大公家が誕生した。
ウラジーミル1世のもうひとりの息子、ヤロスラフ賢公の子孫たちはリューリク朝の分流を広げた。ヤロスラフ賢公の三男であったスヴャトスラフ2世の子供・子孫たちはチェルニーヒウ大公家、ノヴゴロド・シヴェルスク大公家とムロム・リャザニ大公家という3つの大きな大公家に分かれた。ヤロスラフ賢公の四男であったフセヴォロド1世の子供・子孫たちはモノマフ大公家という嫡流で、ハールィチ・ヴォルィーニ大公家、スモレンスク大公家とスーズダリ大公家に分かれた。
12-13世紀になると、その多数の支流の間にキエフ大公国の全土の支配とキエフ大公の称号をめぐる争いが絶えず行われていた。その紛争の中で、ルーシの西部にハールィチ・ヴォルィーニ大公国を本拠にしていたハールィチ・ヴォルィーニ大公家と、北東のウラジーミル・スーズダリ大公国を本拠にしていたスーズダリ大公家は力をつけて、ルーシの最強の家柄となった。1240年にモンゴルの侵略によってキエフ大公国が滅ぼされた結果、前者はルーシの王朝となり、後者はモスクワ大公国のリューリク朝となった。1340年代にはハールィチ・ヴォルィーニの王朝は絶え、1598年にフョードル1世の死によりモスクワのリューリク朝も断絶した。間もなくロシアは動乱時代を迎える。
断絶により、リューリク朝の嫡流はなくなったが、男系子孫の家系はあり、そのひとつがウラジーミル大公アンドレイ2世の直系子孫にあたる大貴族シュイスキー家で、その当主ヴァシーリー・シュイスキー(ヴァシーリー4世)は動乱時代最中の1606年ツァーリに即位するも、国内の支持を得られず、短命の政権に終わった。
1613年動乱時代末期に成立したロマノフ朝は、リューリク朝とは直接の血縁関係になかったが、イヴァン4世の妃アナスタシア・ロマノヴナがロマノフ家の出身であり、それもあってミハイル・ロマノフが帝位を継承するにいたった。なお、ミハイル・ロマノフの父方祖母のヴァルヴァラ・イヴァノヴナ・ホヴリナはシュイスキー家の血統であったため、女系かつ傍流であるが、ミハイル自身もリューリク朝の血統を受け継いではいる。また、エカチェリーナ2世はリューリク朝のトヴェリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチの子孫のひとりであった[1] 。
また、フョードル1世の大叔母エウドキヤ(1492年以前 - 1513年。イヴァン4世(雷帝)の父方の叔母、ヴァシーリー3世の同母妹)の血筋が残り、その末裔にはロマノフ朝の第12代ロシア皇帝・アレクサンドル2世の愛人で、後に2番目の妻となり、2男2女を儲けたエカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ(没落貴族であったドルゴルーコフ家出身)がいる(エカチェリーナの曾祖父アレクサンドル〈1717年 - 1782年〉の祖父グリゴリー〈1656年 - 1723年〉がエウドキヤの子孫マリア・イヴァノフナ・ゴリツィナと結婚し、息子のひとりであるアレクセイ〈1734年没〉がアレクサンドルの父)。マリアの血筋が入ったゴリツィン家はロマノフ朝支配の中で政治家や軍人を輩出し、エカチェリーナの実家ドルゴルーコフ家も同様であり、その血筋はエカチェリーナの子孫も含めて現在に至るまで存続している。
系図
[編集 ]祖家
[編集 ]ポロツク公
ポロツク公
ノヴゴロド公
トゥーロフ公
スモレンスク公
スモレンスク公
ハールィチ公
ハールィチ公
チェルニーヒウ公
ハールィチ公
トロペツ公
プスコフ公
トゥーロフ公家
[編集 ]チェルニーヒウ公家
[編集 ]ルーツィク公
ムーロム公
チェルニーヒウ公
チェルニーヒウ公
クルスク公
チェルニーヒウ公
チェルニーヒウ公
チェルニーヒウ公
チェルニーヒウ公
チェルニーヒウ公
チェルニーヒウ公
スノフスク公
ヴィシゴロド公
ノヴゴロド公
ハールィチ公
ウラジーミル公
トルブチェフスク公
ムーロム・リャザン公家
[編集 ]リャザン公
リャザン公
リャザン公
ポロツク公家
[編集 ]ロストフ公家、ウラジーミル・スーズダリ大公家
[編集 ]- ウラジーミル大公
- モスクワ大公
- ツァーリ
ロストフ公
ヤロスラヴリ公
ウグリチ公
キエフ大公
トヴェリ大公
キエフ大公(4世)
ハールィチ公
ロストフ公
ベロオーゼロ公
ウグリチ公
スーズダリ公
トヴェリ大公
トヴェリ大公
ロストフ公
ロストフ公
ベロオーゼロ公
ウラジーミル大公
ウラジーミル大公
スーズダリ公
トヴェリ大公
トヴェリ大公
トヴェリ大公
トヴェリ大公
ウグリチ公
ロストフ公
ウラジーミル大公
ウラジーミル大公
トヴェリ大公
トヴェリ大公
カシン公
カシン公
ロストフ公
ロストフ公
ロストフ公
ウラジーミル大公
ホルム公
ホルム公
トヴェリ大公
カシン公
脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- Войтович Л. В Генеалогiя династii Рюриковичiв. К,, 1990.
- Войтович Л. В. Генеалогiя династii Рюриковичiв i Гедемiновичiв. X., 1992.
- Войтович Л. В. Удiльны князiства Рюриковичiв i Гедемiновичiв у XII—XVI ст. Львiв, 1996.
- Долгоруков П. кн. Российская родословная книга, ч. І. - М., 1854
- Власьев Г. Потомство Рюрика, т. І, ч. 1-3. - П., 1906-1907
- Baumgarten N. Généalogie et mariages occidentaux des Rurikides russes du X-e au XII-e siècle. - Roma, 1928
- Baumgarten N. Généalogie des branches reenantes de Rurikides du XIII-e au XVI-e siècle. - Roma, 1934
- 下津清太郎 編『世界帝王系図集 増補版』近藤出版社、1982年
- Jiří Louda、Michael Maclagan、Lines of Succession、Little、Brown & Company、1981.