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ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(ナポレオン4世から転送)
ナポレオン・ウジェーヌ・ボナパルト
Napoléon Eugène Bonaparte
ボナパルト家
ナポレオン・ウジェーヌ・ボナパルト(1878年)

全名 Napoléon Eugène Louis Jean Joseph
ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ジャン・ジョゼフ
称号 ピエルフォン伯
プランス・アンペリヤル
出生 (1856年03月16日) 1856年 3月16日
フランスの旗 フランス帝国
パリテュイルリー宮殿
死去 (1879年06月01日) 1879年 6月1日(23歳没)
ズールー王国
埋葬 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
ハンプシャー州ファーンバラ
聖マイケル修道院 (英語版)
父親 ナポレオン3世
母親 ウジェニー・ド・モンティジョ
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ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(フランス語: Napoléon Eugène Louis Bonaparte, 1856年 3月16日 - 1879年 6月1日)は、フランス第二帝政時代の皇太子1870年 9月2日から9月4日の2日間、父ナポレオン3世に代わって政務を執った(摂政皇太子)。ボナパルティストからはナポレオン4世(フランス語: Napoléon IV)と呼ばれた。寡黙な人柄であったという。

サイン

ナポレオン・ボナパルト大甥(弟の孫)にあたる。

生涯

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1856年3月17日、フランス皇帝 ナポレオン3世の嫡出子としてパリで生まれた。皇后ウジェニーが2度の流産の後、やっと授かった跡取り息子であったため、ナポレオン3世は彼を溺愛したという。普仏戦争初期、フランス軍が各地で劣勢となり、ナポレオン3世は捕虜となった。1870年9月2日から9月4日まで父帝は拘束状態であったため、2日間だけ皇太子が表面上政務を取り仕切った。しかし9月4日にパリで民衆の暴動が起こると、9月6日にイギリス亡命した。

イギリスではウーリッジ砲兵学校に入学し、好成績で卒業した。ヴィクトリア女王に愛称の「ルル」で呼ばれて寵愛され、末娘ベアトリス王女との縁談も持ち上がるほどであった。イギリスへの恩返しとして1878年に勃発したズールー戦争に従軍、1879年6月1日にズールー族の襲撃を受けて戦死した。子はなく、ナポレオン3世の直系は絶えた。これを聞いたボナパルティストたちは悲嘆に暮れたという。

天体

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1998年、母ウジェニーにちなんで命名された小惑星(45)ウージェニアに衛星が発見され、2003年に彼の愛称にちなんでプティ・プランス ((45) Eugenia I Petit-Prince) と命名された。

関連項目

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脚注

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  1. ^ ル・モンド・イリュストレ」掲載、メゾン・ボナパルト博物館 (フランス語版)蔵。上から順に左から右へと画像キャプションの日本語訳を記す。「ナポレオン1世の生誕100周年記念のために皇后がコルシカ島を訪問 - 1869年8月29日、皇后と皇太子がアジャクシオに上陸」「アジャクシオ港でフェルッカに乗るコルシカ島の農民のグループ」「バスティア - 皇后の一団を待つコルシカ島の農民たち」「シャンベリに到着 - 駅の出迎え」「バスティア - コルシカ島の少年大隊キャンプ - コルシカ島の少年兵駐屯地」「アジャクシオの祭りのために山から下りてきたコルシカ島の農民たちのキャンプ」

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