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魚崎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

魚崎(うおざき)は、神戸市 東灘区の地名で、住吉川河口両岸から天上川右岸、北限を国道2号とする範囲。元・武庫郡 魚崎町であったのが昭和25年(1950年)に神戸市に編入された。町名では魚崎南町魚崎中町魚崎北町魚崎西町魚崎浜町の各全域と甲南町の西部(中学校区基準では4丁目と5丁目。旧町域は4・5丁目の南半分と3丁目の南西半分)に相当。

海岸はかつて"雀の松原"として古くから知られた景勝地であった。江戸時代中期より酒造素麺製造が盛え、特に酒造では醸造時の温度調節に「ぎり酛」という手法を発明して味を向上させ、灘五郷のうちの一つ魚崎郷(東郷)の中心地となった。阪神電鉄開通後は邸宅地となるも、神戸大空襲により焦土と化し、屋敷の跡にはマンションが進出し、工業中心の復興計画で海岸は埋め立てられ、以前の面影は失われた。

由来

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住吉川の西の地は900年頃「佐才郷」として集落を作っていたが(『新撰姓氏録』)、洪水により川東へ移り、今の魚崎となったという[1]

古くは五百崎(いおざき、旧仮名遣:いほざき)と呼ばれ、大阪湾にせり出た住吉川扇状地の先端・河口部にあったである。俗に「与佐喜」(『摂陽群談』)、「伊與佐喜」[1] とも呼ばれた。

五百崎の名前のおこりは神話時代に遡り、確実なものではない。『日本書紀』巻十に応神天皇31年(300年?)に伊豆国から献納された枯野という船が老朽化したのでこれを薪として塩を焼いたところ500籠の塩ができ、諸国に配る代わりに船を造るよう命じたところ、500隻の船が一挙に武庫の水門(みなと)に集まったとあり、この話をもとにして五百崎の名がついたという。また、一説には神功皇后 征韓の際、諸国に命じて船を作らせ、武庫の水門に500隻が集まったからだともいう。

五百崎(イホザキ)住吉川の東にあり。又魚崎とも書す。諺に云ふ。むかし神功皇后三韓を征し給ふとき、諸国に詔して艟(イクサブネ)五百艘を造らせ給ひ、此浦にて艤(フナヨソホヒ)ありて、武庫水門より出帆し給ふ。五百艘の集へるゆえ五百崎と名によぶ — 摂津名所図会

『西摂大観』には、この付会説の他、このあたりが漁業を行った所から、魚の集う崎=魚崎というようになったのであろうとある。

魚崎は魚崎と横屋の2つの村が明治22年(1889年)の町村制施行の際に魚崎村となったものである。横屋とは「神主」を意味する言葉であり、五百崎八幡(魚崎横屋八幡神社)との関係が示唆される[2]

歴史

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施設・公共機関

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交通

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教育

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脚注

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  1. ^ a b c d 魚崎町誌
  2. ^ 新 神戸の町名
  3. ^ 『武庫郡誌』
  4. ^ 『灘酒沿革誌』
  5. ^ 灘五郷の伝統と革新酒文化研究所

参考文献

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  • 『魚崎町誌』魚崎町誌編纂委員会、1957年。 
  • 神戸史学会 編『新 神戸の町名』神戸新聞総合出版センター、1996年。ISBN 978-4875212041 
  • 道谷卓 編『日本史の中の東灘』(財)神戸市民文化振興財団、神戸市立東灘文化センター、1989年(平成元年)。 

外部リンク

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