阿部彦太郎 (2代)
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2代 阿部 彦太郎[1] (あべ ひこたろう、前名・龍蔵[2] [3] [4] 、1879年(明治12年)4月1日 [5] - 1965年(昭和40年)10月25日 [6] )は、日本の商人(米穀商)[2] [5] [7] 、実業家、大阪府多額納税者[2] [8] 。族籍は大阪府平民 [4] [5] [9] 。
人物
[編集 ]滋賀県・阿部市蔵の長男[2] [3] 。1898年、大阪高等商業学校を卒業[3] [7] [10] 。慶應義塾大学に学ぶ[1] 。先代・彦太郎の養子となり、1904年、家督を相続し、前名・龍蔵を改め襲名する[2] [3] 。米国に2年留学し、帰途欧州各国を巡歴して英国に至り、5年滞在して研学に費やす[1] 。
米穀商を営み、会社の重役である[2] [3] 。角一山林土地会長[2] 、大阪阿部代表社員[3] 、内外綿、豊国火災保険、日本生命保険、大阪商船、住友信託各取締役 [2] [4] 、東洋紡績、大阪製麻、角一ゴム各監査役などをつとめる[2] [4] 。
住所は大阪市天王寺区堂ヶ芝町[2] [3] 、同市北区堂島浜通 [5] [7] 。大阪府在籍 [3] [7] 。
家族・親族
[編集 ]- 阿部家
- 養父・彦太郎 (1840年 - 1904年、近江商人)
- 養母・チエ(1844年 - ?、阿部市太郎の叔母)[9]
- 妻・シン(1886年 -1956年、大阪、弁護士・渋川忠二郎の三女[9] 、弁護士・渋川千之助の養妹[4] )
- 長男・正彦[3] (1908年 -1963年)
- 二男・良彦 4代目角一株式会社 社長 堅実な経営を行い現在の角一の礎を築く(日経新聞より)1991年自社ビル竣工 (1910〜1999年)[7]
- 三男・良三 (1910〜1993年)[7]
- 孫 晴彦(〜2022年 8月)[2]
- 孫 洋子
- ひ孫 元彦
脚注
[編集 ]- ^ a b c 『関西名士写真録』実業家 阿部彦太郎氏(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月23日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第14版 上』ア29 - 30頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月22日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第13版 上』ア29頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月22日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第6版』あ17頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月22日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第3版』あ25頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月23日閲覧。
- ^ 「阿部 彦太郎氏(元東洋紡績監査役、元大阪商船取締役)」『朝日新聞』1965年10月27日、15面。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第8版』ア26頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月17日閲覧。
- ^ 『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月19日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第4版』あ6頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月18日閲覧。
- ^ 『大阪商科大学一覧 昭和4年5月』297頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月22日閲覧。
参考文献
[編集 ]- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1903 - 1911年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 大阪商科大学編『大阪商科大学一覧 昭和4年5月』大阪商科大学、1929 - 1930年。
- 交詢社編『日本紳士録 第37版附録 多額納税者名簿』交詢社、1933年。
- 『関西名士写真録』国勢協会、1935年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
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