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蓬萊昭彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
蓬萊 昭彦
2010年11月23日、横浜スタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県 熊本市 中央区
生年月日 (1957年04月24日) 1957年 4月24日(67歳)
身長
体重
166 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1979年 ドラフト4位
初出場 1980年 4月5日
最終出場 1987年 8月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
この表について
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しかくプロジェクト:野球選手  しかくテンプレート

蓬萊 昭彦(ほうらい あきひこ、1957年 4月24日 - )は、熊本県 熊本市出身(岡山県 岡山市生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・コーチ解説者

来歴・人物

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岡山で生まれ、国体にも出場した父に野球を教わる。中学1年時に熊本へ移り、投手となる。熊本工業高校では最初は一塁手であったが、監督の指導で再び投手となり、瀬高啓介(熊本鉄道管理局-熊本工監督)と投の二本柱を組む。3年次の1975年には春の選抜に出場し、2回戦(初戦)で杉村繁を擁する高知高を相手に先発するが、延長11回の末に4-5で敗れた。高知高はこの大会で優勝。同年夏は県予選を勝ち抜き中九州大会に進むが、準決勝で津久見高谷崎浩二に抑えられ惜敗、甲子園出場はならなかった。高校卒業後は1976年西南学院大学へ進学し、2年上にエース・門田富昭がいたため外野手に転向。1年次の同年からレギュラーとなり、首位打者を獲得するなど活躍。九州六大学リーグでは優勝に届かず、2位4回に留まった。ベストナイン2回。

1979年のドラフト4位で西武ライオンズに入団。入団発表の前日に、上京したホテルで父が急死している。1年目の1980年のキャンプでは首脳陣や評論家からもその素質を高く評価され[1] 、開幕から外野の準レギュラーとなる。4月5日日本ハムとの開幕戦(後楽園)で7回裏に左翼手で途中出場し、プロ入り初出場を果たした。同8日南海戦(西武)に8番・左翼手でプロ入り初の先発出場を果たし、2回裏に佐々木宏一郎から犠飛を放ちプロ入り初打点を記録。12日近鉄戦(西武)で2回裏に村田辰美から先制適時打を放ちプロ初安打を記録し、5月11日の近鉄戦(藤井寺)では途中出場ながらも3打数3安打を放つと、翌12日の近鉄戦(日生)では先発で起用され3回表に柳田豊から同点2ランを放ちプロ初本塁打を記録。その後は、打撃面では特に目立った活躍はできなかったが、外野守備では99回のあった守備機会で僅か1失策と堅守を見せた。外野の守備で首脳陣からの信頼を得て、シーズン終了まで一軍に定着し続け新人ながら109試合に出場、シーズン最終盤には1番に起用され、近鉄の後期優勝がかかった10月11日の試合では鈴木啓示から先制3ランを放つなど活躍した。2年目の1981年には34試合に先発出場、15試合に1番打者として起用される。3年目の1982年には「大型野球」から「緻密な野球」を目指す広岡達朗新監督の方針もあり、6月から2番・中堅手に定着。シーズン終盤には失速し先発から外れるが、19年ぶりのリーグ優勝と24年ぶりの日本一に貢献[2] 。同年の中日との日本シリーズでは第3戦、第5戦に代打として起用される。1983年以降は出場機会が漸減し、1985年には打率.346でイースタン・リーグの首位打者を獲得するも、1986年オフに金銭トレードで中日ドラゴンズへ移籍。新天地では計14試合の出場に留まり、1988年に現役を引退。

引退後は故郷の熊本に戻り、家業であるの製造販売業を継ぐ傍ら、衛星チャンネル→朝日ニュースター「サテライトナイター」解説者(1990年 - 1993年)も務めた。その後は東尾修から「シニアリーグを立ち上げるので監督をしてみないか」と誘われ、1994年から世田谷西シニアリーグ監督を務める[3] 。また、自ら運営に参加する加圧ジムトレーナーも兼務し、プロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスの選手としても活躍した。2010年からはシニアリーグでの選手育成手腕を買われ、横浜ベイスターズ二軍「湘南シーレックス」育成コーチに就任し22年ぶりに球界に復帰。2013年からは一軍外野守備・走塁コーチを務めたが、2014年 10月8日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された[4] 。DeNA退団後は世田谷西シニアでの指導に戻り、総監督を務めている[5]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1980 西武 109 137 121 20 25 2 1 2 35 9 2 4 4 1 11 0 0 13 4 .207 .271 .289 .560
1981 74 147 130 24 32 8 2 1 47 7 1 3 4 0 11 0 2 10 1 .246 .315 .362 .676
1982 80 218 180 22 39 1 1 2 48 15 3 5 16 2 17 0 3 16 2 .217 .292 .267 .559
1983 29 33 27 4 6 2 0 1 11 4 1 0 4 1 1 0 0 2 1 .222 .241 .407 .649
1986 3 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1987 中日 14 23 20 5 5 2 0 0 7 1 0 0 1 0 2 0 0 5 0 .250 .318 .350 .668
通算:6年 309 559 479 76 107 15 4 6 148 36 7 12 29 4 42 0 5 46 8 .223 .291 .309 .600

記録

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背番号

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  • 43 (1980年 - 1986年)
  • 14 (1987年 - 1988年)
  • 70 (2010年 - 2011年)
  • 74 (2012年 - 2014年)

著書

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脚注

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  1. ^ 1980年ライオンズファンブックより。
  2. ^ 週刊サンケイ、1982年4月15日号、32頁
  3. ^ 西南学院大学広報誌 SEINAN SPIRIT
  4. ^ 2015年度 コーチ契約についてDeNA球団公式サイト2014年10月8日配信
  5. ^ "東京都 中学硬式 世田谷西リトルシニア 蓬莱総監督インタビュー". 少年野球情報・監督インタビュー. 2023年8月19日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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