紀元前49年
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
世紀 | 前2世紀 - 前1世紀 - 1世紀 |
---|---|
十年紀 |
前60年代 前50年代 前40年代 前30年代 前20年代 |
年 |
前52年 前51年 前50年 紀元前49年 前48年 前47年 前46年 |
紀元前49年(きげんぜん49ねん)は、ローマ暦の705年である。
他の紀年法
[編集 ]この節は、ウィキプロジェクト 紀年法 のガイドライン に基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。
凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
[編集 ]ローマ
[編集 ]- 執政官 - ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスとガイウス・クラウディウス・マルケッルス・マヨル
- ローマ内戦が起きる。
- 1月1日 - 元老院はガイウス・ユリウス・カエサルから、カエサルとグナエウス・ポンペイウスが同時に指揮権を放棄するとの提案を受け取る。元老院はカエサルに直ちに指揮権を放棄するよう回答。
- 1月10日 - カエサルの率いる軍が、カエサルが総督を務めるガリア・キサルピナと本国イタリアの境界であるルビコン川を渡る。これにより内戦開始。元老院はカエサルに対して「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」(元老院最終勧告)を発する。
- 2月13日 - カエサル軍、コルフィニウム(現在のコルフィーニオ)を包囲。19日に陥落。
- 2月20日 - ポンペイウスは元老院議員の大半とともにギリシア西部のイピロスに脱出。
- 3月9日 - カエサルはポンペイウス軍に向かいヒスパニアに進軍。
- 4月19日 - カエサルはポンペイウス麾下のルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスが護るマッシリアを包囲(マッシリア包囲戦)。包囲は後にカエサル麾下のガイウス・トレボニウスが指揮。
- 6月 - カエサルがヒスパニアに到着。ポンペイウス軍のルキウス・アフラニウス、マルクス・ペトレイウスに対し、ピレネーの山岳路を制する。
- 6月7日 - マルクス・トゥッリウス・キケロがイタリアからテッサロニキに脱出。
- 7月30日 - カエサルがイレルダ(現在のリェイダ)にてアフラニウス、マルクス・ペトレイウスの軍を包囲(イレルダの戦い)。
- 8月2日 - ポンペイウスがイレルダにてカエサルに降伏し、恩赦を受ける。
- 8月24日 - カエサル麾下の将軍ガイウス・スクリボニウス・クリオが、北アフリカにてポンペイウス麾下のプブリウス・アッティウス・ウァルスとヌミディア王ユバ1世の連合軍に敗れ、戦死(バグラダス川の戦い)。
- 9月 - カエサル軍のデキムス・ユニウス・ブルートゥスが、マッシリア包囲戦でポンペイウスとマッシリアの連合海軍を破る。一方、アドリア海のカエサルの艦隊はクリクタ(現在のクルク島)近くで敗れる。
- 9月6日 - マッシリアが、ヒスパニアから帰還したカエサルに降伏する。
- 10月 - カエサルがローマで独裁官に任命される。
誕生
[編集 ]→「Category:紀元前49年生」も参照
死去
[編集 ]→「Category:紀元前49年没」も参照
- 8月24日 - ガイウス・スクリボニウス・クリオ、共和政ローマの政治家・軍人(* 紀元前90年)
- 宣帝 - 前漢の皇帝(* 紀元前91年)
- ルクレティウス - ローマの詩人・哲学者(* 紀元前99年)
脚注
[編集 ]注釈
出典
[脚注の使い方]
関連項目
[編集 ]ウィキメディア・コモンズには、紀元前49年 に関連するカテゴリがあります。
紀元前1世紀の十年紀と各年 | |
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