満良親王
満良親王 | |
---|---|
続柄 | 伝・後醍醐天皇第十一皇子 |
全名 | 満良(みつよし/みつなが) |
称号 | 花園宮 |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
不明 |
死去 |
不明 |
父親 | 後醍醐天皇 |
母親 | 五辻親子 |
テンプレートを表示 |
満良親王[1] (みつよししんのう・みつながしんのう、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝 皇族。後醍醐天皇の第十一皇子で、母は参議 五辻宗親の女・中納言典侍親子であるとされる。花園宮(はなぞののみや)と号し、土佐南軍の統率に当たった。名前の読みが2種類あることについては、後醍醐天皇の皇子名の読みを参照。
経歴
[編集 ]南朝再建計画の一環として、延元3年/暦応元年(1338年)9月牧宮懐良親王とともに伊勢 大湊から出港して土佐に入る。新田綿打入道・金沢左近将監など四国の南軍を従えて、延元5年/暦応3年(1340年)正月大高坂松王丸の救援のため潮江山に布陣し、細川定禅の要請を受けた北軍と交戦するも、遂に敗北して大高坂城は陥落した。興国3年/康永元年(1342年)頃にはほぼ勢力を失って、西国へと落ち延びたらしい。その後の消息は不詳だが、遠江 方広寺を開山したとされる臨済宗の無文元選 や、正平6年/観応2年(1351年)周防で盛んに令旨を発給している常陸親王(ひたちのしんのう、以下の節で記述)は、花園宮の後身であるとする説がある。
常陸親王
[編集 ]常陸親王は、正平6年/観応2年(1351年)2月から正平10年/文和4年(1355年)3月にかけて、現在確認されているだけでも37通の令旨(うち30通は正平6年のもの)を発給しており、その宛所は、石見国の内田・伊藤、出雲国の諏訪部・中沢、安芸国の熊谷・城・三戸・田所、周防国の横山などの国人武士が占める。令旨の内容には軍勢催促と軍忠・安堵・恩賞に関わるものが多く、恐らく親王は観応の擾乱に便乗して周防に入り、中国地方における南朝方の挽回を画策したのであろう。
この常陸親王については、『毛利家文書』正平6年7月30日付常陸親王御使交名に、後醍醐天皇4皇子の1人として、「はなそのゝミや、とさよりすハうへ御入ある、/いまハひたちのしんハうと申候也」と記載されているので、土佐から逃れた花園宮と同一人であるように思われる。しかし、花園宮と常陸国との関係が今一つ明白でないことから、先の交名を毛利家による誤認と切り捨て、常陸合戦において北朝方と交戦した興良親王(護良親王王子)を常陸親王の候補に考える説も有力である。
脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 秋山英一 『四国に於ける後醍醐天皇の諸皇子』 燧洋出版社、1940年、NCID BA37265629
- 『高知県史 古代・中世編』 高知県、1971年、NCID BN05408229
- 新井孝重 「興良・常陸親王考」(『獨協経済』第74号 獨協大学経済学部、2001年9月、NCID AN10392436)
- 森茂暁 『皇子たちの南北朝 ―後醍醐天皇の分身』 中央公論新社〈中公文庫〉、2007年、ISBN 9784122049307
- 藤井讓治・吉岡眞之監修 『天皇皇族実録74』 ゆまに書房、2009年、ISBN 9784843320082