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浅野三平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅野 三平
あさの さんぺい
人物情報
生誕 (1932年02月26日) 1932年 2月26日
日本の旗 日本愛知県 名古屋市
死没 (2023年02月05日) 2023年 2月5日(90歳没)
日本の旗 日本東京都 新宿区
国立国際医療研究センター病院
急性くも膜下出血
出身校 東京大学大学院人文科学研究科
東京大学文学部国文学科
東海中学校・高等学校
配偶者 あり
子供 あり
学問
研究分野 近世文学上田秋成研究
研究機関 東京大学
京都女子大学
日本女子大学
博士課程指導学生 津田眞弓
学位 文学博士
称号 日本女子大学名誉教授
主な業績 上田秋成の研究
主要な作品 『秋成全歌集とその研究』
『雨月物語 癇癖談 新潮日本古典集成』
影響を受けた人物 植松寿樹(歌人)
影響を与えた人物 佐藤行雄(外交官)
津田眞弓(慶大教授)
学会 日本近世文学会
東京大学国語国文学会
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浅野 三平(あさの さんぺい、1932年昭和7年〉2月26日 [1] - 2023年令和5年〉2月5日 [2] )は、日本国文学者。専門は近世文学上田秋成研究の先駆者。学位は、文学博士(東京大学・1985年)。芝高等学校教諭・京都女子大学教授・日本女子大学教授を経て、日本女子大学名誉教授

経歴・人物

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1932年(昭和7年)2月、愛知県 名古屋市に生まれる[1] 愛知県私立東海学園旧制中学校 東海中学校に入学したが、戦後学制改革により旧制中学から新制高等学校へ移行した東海高等学校を1950年3月卒業した。同年4月 東京大学教養学部入学。1954年3月、東京大学文学部国文学科を卒業し[1] 、同年5月に出身高校の兄弟校である、芝高等学校に国語科教諭として赴任した[1]

1957年3月、東京大学大学院人文科学研究科修了(文学修士)[1] 。1959年4月、京都女子大学 文学部に講師として赴任[1] 。1965年同大学助教授[1] 、1971年同教授[1] 。1979年4月、日本女子大学文学部教授[1] 。1985年5月、東京大学より文学博士の学位を授与される[1] 。博士論文の題目は「上田秋成の研究」[3] [4]

2000年3月、日本女子大学を定年退職[1] 、同年6月日本女子大学名誉教授 [1]

歌人として、芝高等学校教諭時代の同僚:植松寿樹より指導を受けており、「植」の字から浅野直木の号を頂いて活動していた[5]

晩年は、近世古典文学研究書の追補版を出版する傍らで『スピリチュアル犬ジローの日記』など自らの文学作品を6点発表した[6] 。同著は愛犬であった柴犬のジローが6歳で急死したあと、飼い主の体に印される爪跡や、玄関の扉や部屋の壁や本棚などに刻まれる引っ掻きキズなど、すべては霊界から発信されるジローのシグナルと認識した体験を綴る。父と娘と霊犬の、ほのぼのと心温まる実録交流記を小説の形で著述した書。「命は尊い、そして霊魂は不滅である。」との真理を説き示す感動のスピリチュアル実録書である[7]

2023年2月5日、都内の自宅にて体調急変にて倒れて救急搬送され、新宿区国立国際医療研究センター病院にて、午後零時42分に逝去[8] 。死因は急性クモ膜下出血 [8] だった。同年2月7日、葬儀は浄土真宗の作法で行われ[8] 法名「秀學院釋三寶」が授けられた[9]

同年4月24日に納骨 法要が、西行法師に縁のある遊行柳にほど近い栃木県 那須町の霊園にて、満開の八重桜が咲くなかで行われた。これに際して、「故人はまた、和歌をこよなく愛しておりました」と遺族より下記の西行法師の歌を「辞世の代わり」として掲げられた[10]

願はくは 花の下にて 春死なむ
そのきさらぎの 望月のころ — 西行法師山家集

ところが、その後5月24日に浅野三平の霊からのインスピレーション(霊示)が下され、下記の歌を故人によりふさわしい「辞世の代わり」とした[11]

ひさかたの 光のどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ — 小倉百人一首 三十三
紀友則古今和歌集

交友録

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  • 法学者で東京大学法学部名誉教授の米倉明は、東海高校の後輩で、東大入学後の時期に家庭教師のバイト先を紹介するなど面倒を見ていた[12]
  • 東大卒業後、芝高等学校に新人教諭として赴任していた時期に、同じ国語・古文の先輩教諭の植松寿樹より、様々な指導を受けた[要出典 ]
  • 芝高等学校教諭時の教え子に、後に外交官となる佐藤行雄がいた。将来の希望から進路指導で東大進学を勧め、その合格への指導をした。その後佐藤は外交官になり、宮崎県警 本部長外務省大臣官房総務課長・外務省北米局長・国連大使などを歴任した。[要出典 ]

エピソード

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  • 芝高等学校の教諭時、篠山紀信の高校3年時の担任であった。篠山は模擬試験で立教大など充分合格圏内の実力があったのに受験では何故か全敗してしまい、その時期からでも受験できた日大芸術学部写真学科に出願し入学をした。[要出典 ]
  • 国文学者で大阪大学名誉教授の飯倉洋一は、同じ「上田秋成の研究」の先人である浅野に対して、多くの恩恵・指導を受けたと「忘却散人ブログ」に追悼文などを記して感謝を述べている[2]

著書

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論文

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CiNii 論文[13]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 「浅野三平名誉教授略歴ならびに著述目録  」『国文目白』第40巻、日本女子大学、2001年2月、135-140頁。 
  2. ^ a b "追悼浅野三平先生". 忘却散人ブログ (2023年3月6日). 2023年5月15日閲覧。
  3. ^ CiNii大学図書館所蔵 NCID BN01646688
  4. ^ 国会図書館 『上田秋成の研究』博士論文 授与大学名 東京大学、授与年月日:昭和60年5月13日
  5. ^ 歌誌『沃野』より
  6. ^ 「BOOK」データベースより
  7. ^ 幻冬舎『スピリチュアル犬ジローの日記』書籍紹介文より
  8. ^ a b c 喪主・長男 浅野聖太によるsns公表情報[出典無効 ]
  9. ^ 喪主・長男 浅野聖太による公表情報[出典無効 ]
  10. ^ 喪主・長男 浅野聖太による納骨法要礼状の公表情報[出典無効 ]
  11. ^ 喪主・長男 浅野聖太による公表情報 2023年5月24日の発信
  12. ^ 喪主・長男 浅野聖太による[出典無効 ]
  13. ^ CiNii浅野三平

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