河越高重
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 円重(法名) |
官位 | 従五位下、三河守 |
幕府 | 鎌倉幕府→室町幕府 |
氏族 | 河越氏 |
父母 | 父:河越貞重 |
子 | 直重 |
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河越 高重(かわごえ たかしげ)は鎌倉時代末期から南北朝時代の武蔵国の国人。武蔵河越氏当主。河越貞重の子。河越直重の父。河越館主。
生涯
[編集 ]北条氏 得宗家当主・鎌倉幕府第14代執権・北条高時より偏諱を受けて高重と名乗る[注釈 1] 。
元弘3年(1333年)、幕府の西国討伐軍として従軍していた父・貞重が近江で自刃すると、幕府方から転向して上野国の新田義貞の挙兵に加わった。入間川を越え小手指原(埼玉県 所沢市小手指町付近)に達した新田軍には武蔵七党もこれに加わり、数十万という大軍にふくれあがった。
5月11日小手指原の戦い、5月12日久米川の戦い、5月16日分倍河原の戦いで桜田貞国・北条泰家率いる幕府軍に勝利し、5月22日、鎌倉幕府は新田軍によって滅亡した(東勝寺合戦)。
その後は、鎌倉の留守居として派遣された足利直義に従った。
脚注
[編集 ]注釈
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出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年。
- 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年。