塚本哲也
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
塚本 哲也(つかもと てつや、1929年 4月29日 - 2016年 10月22日 [1] )は、日本の新聞記者、作家、大学教授。
来歴・人物
[編集 ]群馬県 館林市生まれ。旧姓・木村。木村裕主は実兄。1954年東京大学経済学部卒、毎日新聞社に入社[2] 。政治部記者として岸信介を担当する。1959年、オーストリア政府給費留学生としてウィーン大学に留学することになる。ウィーン留学経験のある人に話を聞きたいといって紹介されたのがピアニストの塚本ルリ子であり、哲也に続いてルリ子は二度目のウィーン留学をする。1962年に結婚し塚本姓となった。ルリ子の父(塚本憲甫)は国立がんセンター総長などを務めた医師だった。
ウィーン大学 法学部で国際法を学び、1963年毎日新聞ウィーン支局長として再度渡墺。1968年、プラハ支局長として「プラハの春」を取材した。その後、ボン支局長を経て帰国。1978年に論説委員となり、東洋大学ほかでの講師にも就き始める。
新聞社退職後は、防衛大学校 教授を務めながら、執筆活動を行う。1992年、防衛大学校図書館長。1995年、東洋英和女学院大学 社会学部教授。1999年より2003年まで、同大学学長を務めた。
受賞など
[編集 ]- 新聞記者としては、毎日新聞連載企画「学者の森」(共同執筆)にて1963年度の日本新聞協会賞を受賞。
- 1987年、『ガンと戦った昭和史:塚本憲甫と医師たち』(文藝春秋、1986年)で第8回講談社ノンフィクション賞(これはルリ子の父を描いたものである)。兄・木村裕主も1990年に同賞を受賞しており、兄弟受賞となった。1993年には『エリザベート:ハプスブルク家最後の皇女』(文藝春秋、1992年)で第24回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
- 1965年、オーストリア共和国文化功労勲章。2000年、オーストリア共和国有功大栄誉銀章受章。
晩年
[編集 ]2002年、脳出血で倒れ、右半身麻痺となる。群馬県のケアホーム新生会に移住し、リハビリを兼ねて左手で打つパソコンを始め著述活動を再開。『マリー・ルイーゼ』を執筆中の2005年に、ルリ子夫人は、腹部大動脈瘤破裂で急逝している。
著書
[編集 ]- 『フィンランド化:ソ連外交の論理と現実』(教育社入門新書、1978年)
- 『ガンと戦った昭和史:塚本憲甫と医師たち』(上・下)文藝春秋、1986年。
- 同(再編版)文春文庫、1995年。ISBN 978-4-16-757401-7
- 『平和ドイツの時代』(文藝春秋、1991年)
- 『エリザベート: ハプスブルク家最後の皇女』(文藝春秋、1992年/文春文庫(上・下)、2003年)。電子書籍で再刊
- 『わが青春のハプスブルク:皇妃エリザベートとその時代』(文藝春秋、1996年/文春文庫、1999年)。
- 『マリー・ルイーゼ:ナポレオンの皇妃からパルマ公国女王へ』(文藝春秋、2006年/文春文庫(上・下)、2009年)。
- 『メッテルニヒ:危機と混迷を乗り切った保守政治家』(文藝春秋、2009年)ISBN 978-4-16-371920-7
- 『我が家の昭和平成史:がん医師とその妻、ピアニストと新聞記者の四重奏(カルテット)』(2巻組)文藝春秋企画出版部、2016年6月。ISBN 978-4-16-008869-6
翻訳
[編集 ]- ゲルハルト・ダンプマン『孤立する大国ニッポン』TBSブリタニカ、1981年。
脚注
[編集 ]- ^ 塚本哲也氏死去(作家、元東洋英和女学院大学長)時事ドットコム 2016年10月25日付
- ^ 「東洋英和の先生がた(1)塚本哲也先生」『東洋英和女学院:史料室だより』91号、2018年。