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坂内永三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
さかうち えいざぶろう
坂内 永三郎
本名 坂内 永二郎(さかうち えいじろう)
別名義 阪内 栄三郎
坂内 英二郎(さかうち えいじろう)
生年月日 (1907年01月11日) 1907年 1月11日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 福島県
身長 172.7cm
職業 俳優
ジャンル 劇映画(時代劇現代劇剣戟映画サイレント映画トーキー)
活動期間 1930年代 - 1960年代
配偶者 坂内 愛
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坂内 永三郎(さかうち えいざぶろう、1907年 1月11日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1] [2] [3] [4] 。本名は坂内 永二郎(さかうち えいじろう)。旧芸名は阪内 栄三郎坂内 英二郎[2]

人物・来歴

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1907年(明治40年)1月11日福島県に生まれる[1]

京都の新興キネマに所属し、1934年(昭和9年)10月11日に公開された寿々喜多呂九平監督の『七宝の桂』が、もっとも早い時期の出演記録である[2] [3] [4] 。1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)にマキノ正博が新しく撮影所を建設・設立したマキノトーキー製作所に、翌1936年(昭和11年)に第二期入社で参加する[2] [5] 。同社は1937年(昭和12年)4月に解散し、マキノ正博らは日活京都撮影所に移籍したが、坂内は東宝映画京都撮影所に移籍している[2]

第二次世界大戦終結後は、東宝、あるいは新東宝に所属した[2] [3] [4] 俳優座に所属した記録も残っている[6]

映画監督の中川信夫とは、坂内の妻・愛ともども、マキノトーキー以来の交流があり、1973年(昭和48年)6月には、手紙魔の中川が、坂内の妻が寂しそうだったので、という理由で、1年間毎日手紙を書く約束をし、中川はこれを実行した[7] 。1976年(昭和51年)発行の『映画年鑑 1977』には、川崎市 多摩区 登戸に在住している旨の記述があるが、それ以降の版には見当たらない[8] 没年不詳

フィルモグラフィ

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すべてクレジットは「出演」である[2] [3] [4] 東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9] 。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

新興キネマ

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特筆以外すべて製作・配給は「新興キネマ」である[2]

マキノトーキー製作所

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初期の特筆以外すべて製作・配給は「マキノトーキー製作所」である[2]

東宝映画京都撮影所

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特筆以外すべて製作は「東宝映画京都撮影所」、配給は「東宝映画」である[2]

戦後

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脚注

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  1. ^ a b 著作権資料協会[1972]、p.182.
  2. ^ a b c d e f g h i j 坂内永三郎日本映画データベース、2012年12月3日閲覧。
  3. ^ a b c d 坂内永三郎KINENOTE、2012年12月3日閲覧。
  4. ^ a b c d 坂内永三郎、映画データベース、東宝、2012年12月3日閲覧。
  5. ^ マキノ[1977]、p.338-374.
  6. ^ 春の囁き、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月3日閲覧。
  7. ^ 中川[1987], p.81.
  8. ^ 時事映画通信社[1976], p.311.
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 坂内永三郎、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年11月27日閲覧。
  10. ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 535, 「主要特撮作品配役リスト」

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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