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地蔵院 (亀山市)

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地蔵院

本堂
所在地 三重県 亀山市 関町新所1173
位置 北緯34度51分10.9秒 東経136度23分21.4秒 / 北緯34.853028度 東経136.389278度 / 34.853028; 136.389278 座標: 北緯34度51分10.9秒 東経136度23分21.4秒 / 北緯34.853028度 東経136.389278度 / 34.853028; 136.389278
山号 九関山
院号 地蔵院
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗御室派
本尊 地蔵菩薩
創建年 (伝)741年(天平13年)
開基 (伝)行基
正式名 九関山宝蔵寺地蔵院
別称 関の地蔵、関地蔵院
札所等 三重四国八十八箇所 28番札所
文化財 本堂・愛染堂・鐘楼(国の重要文化財)
法人番号 8190005003286 ウィキデータを編集
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地蔵院(じぞういん)は、三重県 亀山市 関町新所1173にある真言宗御室派寺院

本尊は地蔵菩薩。山号は九関山(きゅうかんざん)、寺号は宝蔵寺(ほうぞうじ)。九関山宝蔵寺地蔵院と号するが、通常は院号の地蔵院として呼ばれる。関の地蔵、関地蔵院とも称される。関町関宿伝統的建造物群保存地区の中央部にある[1]

歴史

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創建

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東海道の関宿に位置し、古くから関の地蔵と呼ばれて信仰されてきた。創建については判然としないが、元禄8年(1695年)成立の『地蔵院略縁起』によると、天平13年(741年)に行基によって創建されたと伝える。享保3年(1718年)成立の『関地蔵菩薩瑞像記』によると、大同元年(806年)に最澄の弟子によって地蔵堂が建てられ、久冠山宝蔵寺と号したとある[2]

近世

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二代目歌川国輝『末廣五十三次 関』における地蔵院

元禄10年(1697年)、関地蔵院の中興の祖である宣雅僧都は、国司護持院隆光大僧正のとりなしによって、江戸 出開帳を行った[3] 本尊江戸城の三の丸に安置され、5代将軍徳川綱吉やその生母桂昌院が本尊に拝礼した[3] 。本尊が関に戻ると綱吉や桂昌院から寄進を受けており、元禄11年(1698年)に本堂の建設に着工すると、元禄13年(1700年)3月に竣工した[3] 。この際に旧本堂が護摩堂となり、愛染明王が安置されて愛染堂と呼ばれるようになった[4] 。これ以後は諸大名からの参拝も受けている[5]

父の仇討ちを果たした人物として関の小万(関の小萬)がいるが、小万が養われていた旅籠山田屋(後の会津屋)は地蔵院に向かいにあった[6]

近代

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1868年(明治元年)と1869年(明治2年)には明治天皇東京行幸を行ったが、往路の1868年(明治元年)9月23日と復路の同年12月19日、伊勢神宮を参拝した1869年(明治2年)3月9日には関地蔵院が行在所となった[7] 。1880年(明治13年)7月には大阪鎮台名古屋鎮台の対抗演習が行われたが、再び関地蔵院の奥書院が行在所となった[7]

1907年(明治40年)頃には本堂の屋根瓦が葺き替えられた[8]

境内

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関宿の町並みと地蔵院
  • 本堂
  • 愛染堂
  • 鐘楼
  • 社務所
  • 手水舎

文化財

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愛染堂の内陣

重要文化財

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地蔵院 3棟
  • 本堂 附:棟札下書、地蔵堂再興日記、地蔵菩薩本堂再興之由縁、勘定帳、江戸開帳願之記
    • 桁行5間、梁間4間。寄棟造、向拝一間、本瓦葺、背面後陣、側面脇間付[9]
    • 元禄13年(1700年)建立[9] 。1988年(昭和63年)5月11日に重要文化財に指定された[9]
  • 愛染堂(あいぜんどう)
    • 桁行3間、梁間3間。寄棟造、向拝1間、本瓦葺[1] 内陣の天井は彩色紋形格天井であり、厨子には草花の深肉彫がなされている[4]
    • 寛永7年(1630年)建立[1] 。1920年(大正9年)4月15日に国宝(旧国宝)に指定された[1] 。1950年(昭和25年)に文化財保護法が施行されると重要文化財に指定された。
  • 鐘楼 附:棟札、三町普請鐘楼堂修覆記
    • 桁行1間、梁間1間。切妻造、本瓦葺[10] 。意匠が優れているとされる[10]
    • 寛永21年(1644年)建立[10] 。1988年(昭和63年)5月11日に重要文化財に指定された[10]

その他

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本堂天井画
174枚。寺伝では作者は狩野永敬とされ、京狩野風の表現が随所に見られる。しかし、元禄15年(1702年)に亡くなった永敬と、享保7年(1723年)頃に完成した本天井画には20年以上の開きがあり、18世紀初頭の京狩野周辺の制作と見られる[11]

札所

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かつて所属していた札所

脚注

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  1. ^ a b c d 地蔵院 愛染堂 文化遺産オンライン
  2. ^ 『日本歴史地名大系 三重県の地名』平凡社、1983年、p.238
  3. ^ a b c 松阪青渓『関地蔵院案内記』関地蔵院、1943年、pp.13-14
  4. ^ a b 松阪青渓『関地蔵院案内記』関地蔵院、1943年、p.13
  5. ^ 松阪青渓『関地蔵院案内記』関地蔵院、1943年、pp.14-19
  6. ^ 松阪青渓『関地蔵院案内記』関地蔵院、1943年、pp.25-26
  7. ^ a b 松阪青渓『関地蔵院案内記』関地蔵院、1943年、pp.5-8
  8. ^ 『目で見る 鈴鹿・亀山・関の100年』郷土出版社、1993年、p.43
  9. ^ a b c 地蔵院 本堂 文化遺産オンライン
  10. ^ a b c d 地蔵院 鐘楼 文化遺産オンライン
  11. ^ 蒲田大輔「作品紹介 関地蔵院本堂天井画 狩野永敬と十八世紀初頭の京狩野家について」『学習院大学人文科学論集』学習院大学大学院人文科学研究科、第19号、2010年、pp.65-94。
  12. ^ 第10番札所の変更があります 西国愛染十七霊場

参考文献

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  • 松阪青渓『関地蔵院案内記』関地蔵院、1943年
  • 滝本昭二『三重四国八十八ヵ所霊場』三重四国八十八ヵ所霊場会、出版年不明。

外部リンク

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