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利根軌道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
利根軌道
路線総延長21.3 km
軌間 762 mm
電圧550V 架空電車線方式(直流)

路線休止時(1924年)を示す
駅名は今尾(2008)による

鉄道省 上越南線
鉄道省渋川駅 / 東京電燈渋川駅前
東京電燈 伊香保軌道線
0.0 渋川 東京電燈新町
北新道
阿久津
2.7 鯉沢
吾妻軌道
中郷
敷島
長坂
伊熊
津久田
暮沢
桜ノ木
綾戸
岩本
岩本
広瀬
屋形原
新橋
八幡
21.3 沼田
上越南線工事中

利根軌道(とねきどう)は、かつて群馬県渋川から沼田の間を現在の上越線に並行するルートで結んでいた鉄道である。

1911年4月に渋川 - 沼田間を馬車鉄道として開業させた後、1918年には全線を電化し、電気機関車が馬車鉄道時代の客車を牽引する電気鉄道となった。

国道17号に沿ったルートで敷設され、上越線清水トンネルの資材輸送のための軽便線が沼田 - 土合間に敷設されてそれとの連携によりトンネル工事の資材輸送を行ったこともあるが、1924年の上越線(当時の呼称は「上越南線」)開業により使命を終え、開業の翌日休止、1925年廃止となった。なお、渋川 - 鯉沢間に関しては1912年に鯉沢 - 中之条間を開業させていた吾妻軌道に引き続がれて運行が続けられ、1933年に廃線となった。

路線データ

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地図外部リンク
利根軌道
廃止鉄道ノート 東武鉄道 伊香保線
地形図上にカーソルをかざすと表示される「利根線」が利根軌道
地図の不具合を報告

廃止時点

  • 路線距離(営業キロ):21.3km
  • 軌間:762mm
  • 複線区間:なし(全線単線)
  • 電化区間:全線電化(直流550V)
    • 岩本変電所、三相電動変流機(交流側2200V直流側575V)直流側の出力75KW、製造所芝浦製作所、三相電動変流機(交流側2200V直流側550V)直流側の出力130KW、製造所芝浦製作所[1]

運行および車両

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  • 旅客列車本数:日9往復程度
  • 所要時間:全線に1時間30分 - 40分程度

なお、渋川を深夜の午前0時に出発する列車も存在した。

電気機関車についてはメーカー・性能などの詳細な資料や精細な写真が残されていないため不明点が多い。鉄道統計では機関車数は1917年度5両、1918 - 1920年度は記載漏れ、1921年度は6両、1922 - 1924年度は10両となっている。ただ小林の調査によればNo.1 - 4は高崎市の小島鉄工所が製造し、木鋼合造車体で形状は凸型、30馬力の電動機が1個でロッド駆動。No.5.6はドイツ製で形状はL型20馬力の電動機が2個。No.7は鋼製車体で凸型12馬力の電動機が2個。東京電燈合併後に雨宮製が7両増備されたとしている。廃線後に1両(雨宮製)が元吾妻軌道線に移った。

また現存するわずかな絵はがき写真によれば、鉱山用機関車の類とおぼしき小型狭幅のB型機であったようである。運転台前面は2枚窓、前照灯は窓下1個装備、路面走行のため前面下部に救助網を装備していた。車高全体は比較的低いため、運転室屋上に搭載した大型のポールで集電していた。

歌人若山牧水は1922年10月、北上州の山岳地帯を横断する旅の途中で本路線を利用しているが、これを記録した紀行文「みなかみ紀行」の中では「渋川から沼田まで、不思議な形をした電車が利根川に沿うて走るのである」との一文があり、路面電車が普及していた当時の一般的な感覚でも風変わりな外観の車両であったことがうかがわれる。

歴史

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馬車鉄道時代

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岩室発電所

利根軌道の計画は1909年に茂木蕃栄と久米民之助の両名が馬車軌道の計画をたてたことからはじまる、その後有志があつまり1910年9月5日に群馬県群馬郡渋川町を起点とし白郷井村を経て利根郡沼田町にいたる馬車軌道を国道上及び県道上に敷設し、運輸営業をすることを目的とした利根軌道株式会社[2] の創立総会を開いた。資本金は14万円に決定し社長は池田村出身の松井八十吉、支配人は茂木蕃栄が就任した。そして1910年10月より用地買収や道路の拡張工事がすすめられた。1911年3月31日に試運転がおこなわれ、4月15日にまず渋川 - 屋形原(川田村→沼田市)[注釈 1] 間が営業開始となり沼田までは馬車で連絡した。続いて7月に沼田まで延長し全線開業となった[注釈 2] 。当初は吾妻橋の流出や綾戸隧道の岩石崩落や長距離と勾配のため遅延が発生したが馬を購入したり急勾配区間は2頭牽きにするなどして定時運転に努めたり、1時間ごとの運行にしたため乗客も増加していった。1912年2月に松井にかわり社長に利根発電社長の葉住利蔵が就任し、発電所工事の資材運搬も請け負うようになった。岩室発電所[注釈 3] の建設では高崎まで国鉄が開通していたので飯塚駅(北高崎駅)で高崎水力電気(のちの東武鉄道高崎線)の電車に積み替えて渋川まで輸送し、渋川から沼田の間は利根軌道により輸送。沼田から岩室までは軌道を延長して対応していた。ただし発電機や水車などの超重量物は馬力ではとうてい無理で渋川からはカグラサン(人力ウインチ)でころ引きをして運んだという。

電気軌道以降

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1916年6月の株主総会では電気軌道を敷設すること、電燈電力の供給事業を始めること、増資して資本金を24万にすることを決議した。1917年9月より自前の発電所を持たず利根発電より電気の供給をうけ電気事業を開始した。利根発電は利根電力を合併した際引継ぎした後、休止していた永井沢発電所(久呂保村川額)を再稼働させこの電力を利根軌道に給電し久呂保村への電気の供給と軌道への電力に使用することにした。この電気事業は1917年末現在で利南村、久呂保村の546戸に供給し、1921年の東京電燈合併時点には白郷井、敷島、久呂保、川田糸之瀬、利南の6ヵ村に拡大した。1917年12月に電気軌道工事施行の認可がおり、1918年1月15日には竣工し21日より運転を開始した。電化により不要になった馬50頭は家畜市場などで競売したという。電化後の成績であるが営業報告書によれば1920年3月から8月まで乗客大人75,803人小人2,899人貨物積載量6,063トンで開業当初と比較して乗客は2.12倍、貨物は1.45倍の成績をあげたという。また3月の株主総会では事業に化学工業[注釈 4] を追加した。

1921年になり利根軌道は利根発電とともに東京電燈に合併され、その前橋支社となった。そして社長の葉住は東京電燈の取締役となった。

国鉄上越南線が渋川に到達したのが1921年7月のことであった。渋川-岩本間の工事は1920年6月に着工となり、遂に1924年3月に沼田まで開通した。これにより並行線となった東京電燈の軌道線(旧利根軌道)は営業を廃止し、地方鉄道法における補償をうけることになった[注釈 5] 。補償金額は578,150円であった[3]

輸送・収支実績

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年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 収入(円) 支出(円) 益金(円) 雑収入(円) 雑支出 (内利子)(円)
1911年(明治44年) 49,736 2,800 18,732 23,917 さんかく5,185 0 7,278(7,278)
1912年(大正元年) 65,252 7,118 34,189 27,711 6,478 0 5,347(5,347)
1913年(大正2年) 75,722 5,694 47,259 36,856 10,403 0 5,020(5,020)
1914年(大正3年) 65,740 18,306 125,899 98,070 27,829 0 4,079(4,079)
1915年(大正4年) 58,302 3,460 39,477 32,016 7,461 206 2,596(2,596)
1916年(大正5年) 57,208 2,412 36,372 29,614 6,758 0 2,214(2,214)
1917年(大正6年) 67,948 782 37,735 35,755 1,980 0 0(0)
1918年(大正7年) 99,843 9,520 60,712 37,795 22,917 11,773 13,215(9,273)
1919年(大正8年) 150,325 9,628 93,454 65,688 27,766 42,954 45,152(18,129)
1920年(大正9年) 150,930 12,872 121,887 102,877 19,010 44,850 49,684(19,535)
  • 1911 - 1915年度は鉄道院年報、1916 - 1919年度は鉄道院鉄道統計資料、1920年度は鉄道省鉄道統計資料より
  • 1918年度以降の雑収入は電気供給及び化学工業
  • 1921年度以降は旧高崎水力電気線と合算のため省略

駅一覧

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電化時[16]
渋川 - 北新道 - 阿久津 - 鯉沢 - 中郷 - 長坂 - 伊熊 - 暮沢 - 桜の木 - 綾戸 - 岩本 - 広瀬 - 屋形原 - 新橋 - 八幡 - 沼田

渋川起点付近の変遷

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渋川付近の起点の位置は2度移動している。1911年の開業時は前橋電気軌道の終点・渋川新町、及び前橋電気軌道に接続している伊香保電気軌道の起点・渋川[注釈 9] の北側[注釈 10] に起点を置いた。その後高崎水力電気の終点(渋川長塚町)に接続するべく約180m(約9チェーン)[5] 延長した先[注釈 11] に起点を設置した。しかし利根軌道の開業時すでに高崎水力電気は渋川長塚町から下の町[注釈 12] を延長開業して伊香保電気軌道と接続しており、利根軌道は並行する渋川付近の延長区間を1915年に廃止して、渋川新町ターミナル内にループ線を設置して起点とした[12] 。高崎水力電気は1917年に渋川長塚町 - 下の町を廃止し、利根軌道の廃線跡を利用して渋川長塚町 - 渋川を延長開業して渋川新町のターミナルに接続した。これにより渋川新町は4方向(前橋、高崎、伊香保、沼田)へ向かう4社合同駅として完成した[17] 。さらに、1918年の利根軌道電化まで馬車鉄道で渋川に乗り入れていた吾妻軌道が1920年に電化の上で渋川まで乗り入れを再開し、中之条方面も合わせて5方面への分岐点になっていた[12]

廃線後の状況

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JR岩本駅より利根川に沿って沼田方面に1キロほど進むと川の中に橋脚が残されている。また、沼田の手前まで電車道という通称で廃線跡が存在する。

注釈

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  1. ^ 屋形原の先に利根川を渡る戸鹿野橋がある。
  2. ^ 線路の開業については『沼田市史 通史3』219頁、『利根郡誌』は沼田が先に開業したように書かれている。
  3. ^ 利根郡白沢村大字岩室にあり、起工は1913年上期、使用開始は1915年7月17日。
  4. ^ 苛性ソーダの製造。中外商業新報の記事によると第一次世界大戦勃発により苛性ソーダの輸入が途絶し市場価格は高騰していた。そのため国内で製造しようとして参入した工場が続出した。ところが1918年11月休戦とともに製品の輸入が再開されると供給過剰となり、たちまち市場価格は暴落し、資本の脆弱な工場の操業停止は相次いだとある。またこれについて「専務の大澤という人の考えで化学工業会社を岩本停留所の変電所の側に造った。しかし戦争が終ってしまった。不況が訪れ、かかった6.7万の投資を全部建設費に組込んでいる」1925年3月18日の帝国議会での東京電燈(利根軌道)に対する補償についての審議での発言がみられる。
  5. ^ 1925年3月に開かれた帝国議会による軌道に対する補償についての鉄道省監督局長の答弁によると「東京電燈の軌道線(旧利根軌道)と上越線は交差する地点(新前橋起点16哩58鎖利根郡川田村字綾戸)がある」ことにより休止を要請した。補償についての正否について「東京電燈の軌道線(旧利根軌道)と上越線は利根川の対岸に敷設しているため途中では影響がないのだが軌道を利用する人の72.3パーセントは全区間乗車している。その渋川-沼田間の運賃は60銭余であり国鉄上越線の運賃は33銭なので軌道の経営に与える影響は免れない。」ことから補償することは妥当であると。
  6. ^ 統計(鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料)では1日開業(渋川町 - 沼田町)。
  7. ^ 『遠い日の鉄道風景』85頁では18日。
  8. ^ 参考文献[4] では利根軌道延長開業時の高崎水力電気との接続駅名を「渋川中塚町」としている。 しかしながら、
    • 参考文献[4] 内の年表では利根軌道による延長開業区間の廃止申請及び認可年月日まで明記されている事から、申請側の記録などの公文書あるいは二次資料を根拠にしていると思われるが、国立公文書館デジタルアーカイブでweb公開されている利根軌道関連の公文書や、鉄道統計と公文書を基にした参考文献[5] では利根軌道の営業区間については「渋川 - 沼田」で一貫していて「渋川中塚町」の駅名は見当たらない。「中塚」の掲載例としては参考文献[6] に、「利根軌道 明治40.6.4特許、区間群馬県渋川町中塚、同郡沼田町間」とある。ところが参考文献[7] には未開業線欄にも掲載なし。
    • 参考文献[5] [8] [9] [10] [11] によれば群馬鉄道馬車・高崎水力電気の渋川側の終端の駅・停留所の名称は「渋川」だが、参考文献[4] は延長開業後の「渋川長塚町」と記し、渋川新町のターミナル内の高崎水力電気の駅名についても東武鉄道時代の「渋川新町」を用いるなど時系列による駅・停留所名の変遷が反映されていない。
    • 参考文献[4] では渋川側の延長開業の時期を 以下引用大正元年9〜10月頃か 引用終了。 と推定しているが、参考文献[12] では、以下引用明治44年には、この接続点の南側にターミナルを作り(中略)明治45年には、この狭軌ターミナルから、吾妻温泉馬車軌道の中之条ゆき鉄道馬車も、利根のレールを使って出るようになりました。引用終了。 としている。参考文献[5] では1914年度・1917年度にそれぞれ路線短縮(-09C)が記録されているが、延長開業と延長先の駅名については特に記載なし。
    • 参考文献[13] によれば、合併以前の旧渋川市の地名(字)は伝統的に通称の町名を用いてきた。参考文献[14] によれば明治期、現地の地名(字)は群馬郡渋川町「南横町」であったが、明治末頃に「長塚町」が設置されている。地名と鉄軌道の駅・停留所名は必ずしも一致するものではないが、少なくとも当時、現地の地名(字)が「中塚町」と通称された事実はないと思われる。

    上記の通り参考文献[4] による利根軌道延長開業に関する記述内容は、
    • 当時の公文書や出版物[11] [10] [14] [6]
    • もしくは出典を示してある資料[5]
    • 利根軌道と接続していた高崎水力電気の路線を引き継いだ東武鉄道の資料[8] [9]
    • 出典が提示されていない資料[12]
    これらの渋川付近の利根軌道や関連する事項の参考文献と食い違いがある上に「渋川中塚町」の駅名に関する出典も明示されず、他の参考文献にも「渋川中塚町」という駅名を裏付ける記述は今までのところ参考文献[6] の特許「群馬県渋川町中塚」が唯一。利根軌道の営業区間については「渋川 - 沼田」で一貫している他の公文書や参考文献類を信用するならば起点は「渋川」ということになるが、それらに「渋川中塚町」・「渋川町中塚」の駅名を否定する記述はない。
    原書類から作成された印刷物は、誤記・誤植の可能性を捨てきれない。一般の書籍やパンフレット類に至っては、誤記・誤植はもとより事実誤認の可能性すらある。ともあれ、複数の根拠が確実な資料が提示されるか発見されない限り、延長開業当初の起点の駅名として「渋川」・「渋川中塚町」・「渋川町中塚」のいずれが正しいか断定する事は困難である。
  9. ^ のちの東武鉄道伊香保軌道線渋川新町。
  10. ^ 現在の新町五差路交差点北詰付近。
  11. ^ 高崎水力電気の終点・渋川(のちの東武鉄道伊香保軌道線長塚町)は現在の群馬県道25号高崎渋川線長塚町交差点から北に約30m行った地点で、利根軌道の延長区間と起点は東側の路地を入った辺り。付近の跡地は現在は市道で、起点跡は現在の渋川市渋川1788地先付近と思われる。
  12. ^ のちの東武鉄道伊香保軌道線渋川四ッ角。

脚注

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  1. ^ 『電気事業要覧. 第12回』(国立国会図書館デジタルコレクション)2016年10月2日閲覧。
  2. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治44年』(国立国会図書館デジタルコレクション)2016年10月2日閲覧。
  3. ^ 日本国有鉄道百年史第7巻172頁。
  4. ^ a b c d e 宮田憲誠 『遠い日の鉄道風景 - 明治のある日 人車や馬車鉄道が走り始めた』85頁。
  5. ^ a b c d e 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』57 - 58頁。
  6. ^ a b c 鉄道院年報. 明治42年度(国立国会図書館デジタルコレクション)2016年10月5日閲覧。
  7. ^ 鉄道院年報. 明治44年度2016年10月5日閲覧。
  8. ^ a b 「群馬鉄道馬車が県知事宛に出した開業届」『写真で見る東武鉄道80年-明治大正昭和三代の変遷-』44頁。
  9. ^ a b 「乗車券の今昔」『写真で見る東武鉄道80年-明治大正昭和三代の変遷-』170 - 173頁。
  10. ^ a b 篠田尚久「高崎澁川間鐡道馬車發着時間表」(画像037)『高崎繁昌記』栄林堂、1897年。(群馬県立図書館デジタルライブラリー)2016年9月30日閲覧。
  11. ^ a b 松平篤郎「電氣鐡道」(画像020)『高崎商工案内』高崎商業会議所、1917年。(群馬県立図書館デジタルライブラリー)2016年9月30日閲覧。
  12. ^ a b c d 小林茂「伊香保電車盛衰」43頁。
  13. ^ 渋川市公式ホームページ『町名表示事業』2016年9月30日閲覧。
  14. ^ a b 全国営業便覧/編『群馬県営業便覧』(画像番号153)、1904年。(群馬県立図書館デジタルライブラリー)2016年9月30日閲覧。
  15. ^ 「軌道運輸営業廃止」『官報』1925年5月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)2016年9月30日閲覧。
  16. ^ 『沼田市史 通史3』503頁に掲載された1918年の電化時の広告より。
  17. ^ 『遠い日の鉄道風景』83 - 85頁。

参考文献

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  • 『利根郡誌』群馬県利根教育会、1970年(1930年刊の復刻)204 - 206頁。
  • 『沼田市史 通史3』2002年、219、502 - 504頁。
  • 『沼田市史 資料編3 近現代』1998年、472 - 476頁。
  • 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』 3 関東1、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790021-0 
  • 小林茂「続餓多電盛衰記」『鉄道ピクトリアル』No.53 1955年12月号。
  • 小林茂「伊香保電車盛衰」『レイル』No.10、プレス・アイゼンバーン、1983年。
  • 東武鉄道広報部広報センター『写真で見る東武鉄道80年-明治大正昭和三代の変遷-』東武鉄道株式会社、1977年。
  • 和久田康雄『私鉄史ハンドブック』電気車研究会、1993年。
  • 宮田憲誠 『遠い日の鉄道風景 - 明治のある日 人車や馬車鉄道が走り始めた』 径草社、2001年、83 - 85頁。
  • 田村民男「群馬の水力発電史」七月堂、1979年、48、88 - 90頁。
  • 「基本工業としての曹達工業の助長」『中外商業新報』1927年11月22-26日(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  • 中国鉄道株式会社所属鉄道及東京電燈株式会社所属軌道の経営廃止に対する補償の為公債発行に関する法律案(国立国会図書館 帝国議会会議録 検索システム)

関連項目

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