コンテンツにスキップ
Wikipedia

八反田角一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はったんだ かくいちろう
八反田 角一郎
生年月日 (1901年11月06日) 1901年 11月6日
没年月日 (1979年12月28日) 1979年 12月28日(78歳没)
出生地 北海道 虻田郡 倶知安町
死没地 東京都 千代田区 丸の内
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家
活動期間 1933年 - 1979年
著名な家族 八反田宏起(二男・十条板紙取締役)
事務所 よみうりテレビ読売新聞大阪本社
テンプレートを表示

八反田 角一郎(はったんだ かくいちろう、1901年 11月6日 - 1979年 12月28日)は日本の新聞放送経営者。讀賣テレビ放送 代表取締役日本テレビ読売新聞社 取締役読売新聞大阪本社 取締役最高顧問を歴任。大阪府 吹田市に在住していた。

経歴

[編集 ]

北海道 虻田郡 倶知安町出身。父・角太郎(1866年(慶應2年)生まれ)は石川県 能美郡 長野村(現・能美市)の大農家に生まれ、手取川 水害の影響により、1896年(明治29年)に倶知安町へ加賀団体の総代として入植した。倶知安では農業と雑貨商で成功を収め、村会議員を8期務めた[1] 。角一郎は後に、加賀団体入墾開拓者崇徳碑建立の発起人代表となった。

北海中学校を卒業し、1933年読売新聞に入社。業務局長、出版局長を経て1951年に同社の取締役に就任。1953年 読売新聞大阪本社専務取締役営業局長として赴任し、務臺光雄とともに読売の関西進出の中心人物となる。1970年に読売新聞大阪本社代表取締役 社長に就任。1972年5月、よみうりテレビ4代目代表取締役社長に就任。

1974年 9月6日に亡くなった岡野敏成前社長の葬儀、告別式には葬儀委員長を務めた。

1979年 12月28日午前8時、出張先の東京都 千代田区 丸の内パレスホテル心筋梗塞を起こし死亡(享年78歳)[2] [3] [4]

受賞歴

[編集 ]

脚注

[編集 ]
  1. ^ 加賀団体による倶知安町開拓(8)
  2. ^ 「よみうりテレビ社長の八反田角一郎さん死去」『朝日新聞朝刊』朝日新聞社、1979年12月29日、15面。2023年10月13日閲覧。
  3. ^ 「よみうりテレビ社長の八反田角一郎さん死去」『毎日新聞朝刊』毎日新聞社、1979年12月29日、19面。2023年10月13日閲覧。
  4. ^ 「よみうりテレビ社長の八反田角一郎さん死去」『読売新聞朝刊』読売新聞社、1979年12月29日、19面。2023年10月13日閲覧。
歴代社長1 2
歴代会長3
11957年2月(開局時) - 1980年5月の間は「代表取締役」という肩書のみで、名目上は社長職は設けられていなかった。
21963年5月 - 1965年9月、1979年12月 - 1980年5月の間の(事実上の)社長職は空席。
32000年6月 - 2002年6月の間の会長職は空席。

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /