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ラヂミチ族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ラヂミチ[1] [2] (ラジミチ[3] )族(ベラルーシ語: Радзімічыウクライナ語: Радимичіロシア語: Радимичи)は、9 - 12世紀の年代記(レートピシ)に言及される、スラヴ人の部族あるいは部族連合である。ドニエプル川の上流域からソジ川流域(現ベラルーシ・ホメリ州マヒリョウ州)にかけての範囲を居住地としていた[4]

原初年代記』には、ラヂミチ族はリャフ人(ru)(ポーランド人)より出でてルーシの地に定住し、またルーシ(キエフ大公国)にダーニ(貢税)を支払っているということが記されている。この記述を含め、伝説的にはポーランド由来の部族とみなされているが[5] 、その起源に関する定説は打ち出されていない。

歴史

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年代記にはラヂミチ族の名は、その先祖のラヂムという人物に由来すると記されている[6] 。また、ラヂムはラヂミチ族の長であり、原ポーランド(年代記上はレヒトィ(ru):リャフ人の地)から来たとされている[7] 。年代記には、ラヂミチ族の公(クニャージ)の名は記されていないが[4] [注 1] 、ラヂミチ族独自の軍隊の存在を示す記述があり、自前の指導者を有した集団であったことは確実である。

年代記上の初出は885年の、キエフ公 オレグが支配圏を拡大し、ラヂミチ族がそれまでハザールに対して行っていた税の支払いをやめさせ、新たにダーニ(貢税)を課したという記述である[8] 907年、ラヂミチ族はオレグの軍に加わり、コンスタンティノープルへの遠征(ru)を行った[8] 。ラヂミチ族はこのように、しばらくの間キエフの統治下にいたが後に決別し、984年にはキエフ大公ウラジーミル1世ヴォエヴォダ(軍司令官)ヴォルチー・フヴォスト(ru)の軍勢に攻め込まれた[8] 。両軍はソジ川支流のペシチャニ川(現スラウハラド付近)で戦闘となり、ラヂミチ族は敗れた。ラヂミチ族の地はキエフ大公国領に組み込まれ、後にチェルニゴフ公国スモレンスク公国領となった[8]

ラヂミチ族に関する最後の言及は1169年の記述である[8] 。それ以前に、ラヂミチ族の居住範囲において言及されている都市には、クレチュト(現クルィチャウ。1136年)、プラポシャスク(現スラウハラド。1136年)、ゴミー(現ホメリ。1142年)、ロガチョフ(現ラハチョウ。1142年)、チェチェルスク(現チャチェルスク、1159年)がある[注 2] 。なお、現在のベラルーシ人の祖先を、ラヂミチ族や隣接するクリヴィチ族ドレゴヴィチ族らが融合したものであるとする説がある[4] [9]

脚注

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注釈

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  1. ^ ルーシでは、クニャージは後にリューリク朝出身者のみが関する称号となっていくが、初期にはドレヴリャーネ族のマル(ru)がクニャージと称されている。
  2. ^ 当時の名称はロシア語転写(なおロシア語としても旧称のものがある)、現在の名称はベラルーシ語転写による。

出典

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  1. ^ 『ロシア史』p17等
  2. ^ 『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀〜17世紀-』p18等
  3. ^ 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p39等
  4. ^ a b c Радимичи // ブロックハウス・エフロン百科事典
  5. ^ 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p40
  6. ^ 『ロシア史』p20
  7. ^ Шахматов А. А. Древнейшие судьбы русского племени. — Пг., 1919. — С. 25, 37-39.
  8. ^ a b c d e Радимичи // ソビエト大百科事典
  9. ^ 『歴史の狭間のベラルーシ』p6

参考文献

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  • ブロックハウス・エフロン百科事典
  • ソビエト大百科事典
  • 和田春樹編 『ロシア史』山川出版社、2002年
  • 伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 、山川出版社、1998年
  • 服部倫卓 『歴史の狭間のベラルーシ』 東洋書店、2004年
  • 田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編『世界歴史大系 ロシア史 1 -9世紀〜17世紀-』山川出版社、1995年
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