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マニシェ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はデ・オリヴェイラ、第二姓(父方の姓)はリベイロです。
マニシェ
2009年のマニシェ
名前
本名 ヌーノ・リカルド・デ・オリヴェイラ・リベイロ
Nuno Ricardo de Oliveira Ribeiro
ラテン文字 MANICHE
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1977年11月11日) 1977年 11月11日(46歳)
出身地 リスボン
身長 173cm
体重 69kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
ユース
1989-1996 ポルトガルの旗 ベンフィカ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-1999 ポルトガルの旗 アルヴェルカ 78 (10)
1999-2002 ポルトガルの旗 ベンフィカ 54 (11)
2002-2005 ポルトガルの旗 ポルト 80 (16)
2005-2006 ロシアの旗 ディナモ・モスクワ 12 (2)
2006 イングランドの旗 チェルシー (loan) 8 (0)
2006-2009 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 64 (7)
2009 イタリアの旗 インテル (loan) 8 (1)
2009-2010 ドイツの旗 ケルン 26 (2)
2010-2011 ポルトガルの旗 スポルティングCP 17 (1)
1996-2011 通算 347 (50)
代表歴2
1997-1998 ポルトガルの旗 ポルトガル U-21 10 (0)
2003-2009 ポルトガルの旗 ポルトガル 53 (7)
監督歴
2013 ポルトガルの旗 パソス・フェレイラ (アシスタント)
1. 国内リーグ戦に限る。
2. 2010年6月15日現在。
しかくテンプレート(しかくノート しかく解説)しかくサッカー選手pj

マニシェ(Manich)ことヌーノ・リカルド・デ・オリヴェイラ・リベイロ(Nuno Ricardo de Oliveira Ribeiro、1977年 11月11日 - )は、ポルトガルリスボン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポルトガル代表であった。ポジションはMF。契約会社はナイキ

経歴

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クラブ

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SLベンフィカのジュニアチームでサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。FCアルヴェルカ (ポルトガル語版)にレンタル移籍し3シーズン過ごした後、1999年にベンフィカに戻ると、サイドハーフとしてプレイし、チームの中核として活躍する。2000年8月から9月には、チームの成績不振に伴い監督に就任したジョゼ・モウリーニョの下でプレイする。だがその後、待遇をめぐってフロント陣と対立するなど規律上の問題を起こし、トップチームから追放された。

2002年、FCポルトの監督に就任していたジョゼ・モウリーニョによって同チームに迎えられる。モウリーニョはマニシェをチームの中心的プレイヤーに据え、彼をセンターハーフとしてプレイさせた。マニシェはモウリーニョの下で存在感を示し、2002-03シーズンにUEFAカップを、2003-04シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグを制するなど輝かしい時を過ごす。その後はチームの低迷に伴い移籍を希望するようになり、2005年にFCディナモ・モスクワに1600万ユーロで移籍した。

だが鳴り物入りで移籍したディナモ・モスクワでは活躍することができず、2006年1月にチェルシーFCにレンタル移籍した。ベンフィカ、FCポルト時代の恩師モウリーニョが率いるクラブで十分な存在感を示すことができず、買い取りオプション(500万ユーロ)が行使されることなくディナモ・モスクワに戻った。

2006年8月後半にアトレティコ・マドリードへと移籍すると主力として活躍したが、仮病で試合を欠場したことでハビエル・アギーレ監督の逆鱗に触れ、チームを追放された。2008年1月にイタリアのインテルにレンタル移籍し、8試合に出場し1ゴールを決めた。2008年7月に再びアトレティコへと戻り、リーグ戦とUEFAチャンピオンズリーグの双方で出場機会を得たが、指揮官との衝突が絶えず、2009年6月に迫った契約期間終了を待たずに同年5月に両者合意の下アトレティコを退団した。

2009年7月、ドイツ・ブンデスリーガ1.FCケルンと2年契約を結んだ[1] 。2010年5月、1.FCケルンとの契約を解除して[2] スポルティングCPに移籍した。2011年夏にスポルティングを退団した後は所属クラブがなかったが、2012年5月に現役引退を表明した[3]

代表

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2003年にポルトガル代表デビューし、それ以来50試合以上に出場している。UEFA EURO 20042006 FIFAワールドカップに出場し、2006年のドイツワールドカップでは、チーム最多の2得点を挙げている。 UEFA EURO 2008予選では存在感を示すも、本大会出場メンバーからは脱落した。なお弟のリベイロは本大会出場メンバーに選出された。

指導者

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2013年6月12日、かつてクラブや代表における同僚であったコスチーニャが監督に就任したFCパソス・デ・フェレイラのアシスタントコーチを務めることとなった[4]

人物

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チームワーク、スタミナ、強力なシュート力で知られているため、1980年代にベンフィカで活躍した伝説的なデンマーク人FWミカエル・マニケにちなんで、「マニシェ」とのニックネームを得る(ベンフィカの一部サポーターはマニケと発音することもある)。主にボランチを担当するが、オフェンシブハーフなどもそつなくこなす。同国屈指の司令塔デコらと同世代で、ポルトガル代表を支えた。弟のジョルジェ・リベイロもプロサッカー選手であり、マニシェ同様にベンフィカの下部組織出身である。

タイトル

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クラブ

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ポルト
チェルシー
インテル

個人

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脚注

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ポルトガル代表 - 出場大会

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