マニシェ
- العربية
- مصرى
- تۆرکجه
- Žemaitėška
- বাংলা
- Català
- Čeština
- Deutsch
- Ελληνικά
- English
- Esperanto
- Español
- Eesti
- فارسی
- Suomi
- Français
- עברית
- Hrvatski
- Magyar
- Հայերեն
- Bahasa Indonesia
- Italiano
- Қазақша
- 한국어
- Lietuvių
- Malagasy
- Nederlands
- Norsk bokmål
- Polski
- Português
- Runa Simi
- Română
- Русский
- Simple English
- Slovenščina
- Српски / srpski
- Svenska
- Türkçe
- Українська
- 中文
- 粵語
マニシェ
| |||
---|---|---|---|
2009年のマニシェ | |||
名前 | |||
本名 |
ヌーノ・リカルド・デ・オリヴェイラ・リベイロ Nuno Ricardo de Oliveira Ribeiro | ||
ラテン文字 | MANICHE | ||
基本情報 | |||
国籍 | ポルトガルの旗 ポルトガル | ||
生年月日 | (1977年11月11日) 1977年 11月11日(46歳) | ||
出身地 | リスボン | ||
身長 | 173cm | ||
体重 | 69kg | ||
選手情報 | |||
ポジション | MF | ||
利き足 | 右足 | ||
ユース | |||
1989-1996 | ポルトガルの旗 ベンフィカ | ||
クラブ1 | |||
年 | クラブ | 出場 | (得点) |
1996-1999 | ポルトガルの旗 アルヴェルカ | 78 | (10) |
1999-2002 | ポルトガルの旗 ベンフィカ | 54 | (11) |
2002-2005 | ポルトガルの旗 ポルト | 80 | (16) |
2005-2006 | ロシアの旗 ディナモ・モスクワ | 12 | (2) |
2006 | →イングランドの旗 チェルシー (loan) | 8 | (0) |
2006-2009 | スペインの旗 アトレティコ・マドリード | 64 | (7) |
2009 | →イタリアの旗 インテル (loan) | 8 | (1) |
2009-2010 | ドイツの旗 ケルン | 26 | (2) |
2010-2011 | ポルトガルの旗 スポルティングCP | 17 | (1) |
1996-2011 | 通算 | 347 | (50) |
代表歴2 | |||
1997-1998 | ポルトガルの旗 ポルトガル U-21 | 10 | (0) |
2003-2009 | ポルトガルの旗 ポルトガル | 53 | (7) |
監督歴 | |||
2013 | ポルトガルの旗 パソス・フェレイラ (アシスタント) | ||
1. 国内リーグ戦に限る。 2. 2010年6月15日現在。 ■しかくテンプレート(■しかくノート ■しかく解説)■しかくサッカー選手pj |
マニシェ(Manich)ことヌーノ・リカルド・デ・オリヴェイラ・リベイロ(Nuno Ricardo de Oliveira Ribeiro、1977年 11月11日 - )は、ポルトガル・リスボン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポルトガル代表であった。ポジションはMF。契約会社はナイキ。
経歴
[編集 ]クラブ
[編集 ]SLベンフィカのジュニアチームでサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。FCアルヴェルカ (ポルトガル語版)にレンタル移籍し3シーズン過ごした後、1999年にベンフィカに戻ると、サイドハーフとしてプレイし、チームの中核として活躍する。2000年8月から9月には、チームの成績不振に伴い監督に就任したジョゼ・モウリーニョの下でプレイする。だがその後、待遇をめぐってフロント陣と対立するなど規律上の問題を起こし、トップチームから追放された。
2002年、FCポルトの監督に就任していたジョゼ・モウリーニョによって同チームに迎えられる。モウリーニョはマニシェをチームの中心的プレイヤーに据え、彼をセンターハーフとしてプレイさせた。マニシェはモウリーニョの下で存在感を示し、2002-03シーズンにUEFAカップを、2003-04シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグを制するなど輝かしい時を過ごす。その後はチームの低迷に伴い移籍を希望するようになり、2005年にFCディナモ・モスクワに1600万ユーロで移籍した。
だが鳴り物入りで移籍したディナモ・モスクワでは活躍することができず、2006年1月にチェルシーFCにレンタル移籍した。ベンフィカ、FCポルト時代の恩師モウリーニョが率いるクラブで十分な存在感を示すことができず、買い取りオプション(500万ユーロ)が行使されることなくディナモ・モスクワに戻った。
2006年8月後半にアトレティコ・マドリードへと移籍すると主力として活躍したが、仮病で試合を欠場したことでハビエル・アギーレ監督の逆鱗に触れ、チームを追放された。2008年1月にイタリアのインテルにレンタル移籍し、8試合に出場し1ゴールを決めた。2008年7月に再びアトレティコへと戻り、リーグ戦とUEFAチャンピオンズリーグの双方で出場機会を得たが、指揮官との衝突が絶えず、2009年6月に迫った契約期間終了を待たずに同年5月に両者合意の下アトレティコを退団した。
2009年7月、ドイツ・ブンデスリーガの1.FCケルンと2年契約を結んだ[1] 。2010年5月、1.FCケルンとの契約を解除して[2] スポルティングCPに移籍した。2011年夏にスポルティングを退団した後は所属クラブがなかったが、2012年5月に現役引退を表明した[3] 。
代表
[編集 ]2003年にポルトガル代表デビューし、それ以来50試合以上に出場している。UEFA EURO 2004と2006 FIFAワールドカップに出場し、2006年のドイツワールドカップでは、チーム最多の2得点を挙げている。 UEFA EURO 2008予選では存在感を示すも、本大会出場メンバーからは脱落した。なお弟のリベイロは本大会出場メンバーに選出された。
指導者
[編集 ]2013年6月12日、かつてクラブや代表における同僚であったコスチーニャが監督に就任したFCパソス・デ・フェレイラのアシスタントコーチを務めることとなった[4] 。
人物
[編集 ]チームワーク、スタミナ、強力なシュート力で知られているため、1980年代にベンフィカで活躍した伝説的なデンマーク人FWミカエル・マニケにちなんで、「マニシェ」とのニックネームを得る(ベンフィカの一部サポーターはマニケと発音することもある)。主にボランチを担当するが、オフェンシブハーフなどもそつなくこなす。同国屈指の司令塔・デコらと同世代で、ポルトガル代表を支えた。弟のジョルジェ・リベイロもプロサッカー選手であり、マニシェ同様にベンフィカの下部組織出身である。
タイトル
[編集 ]クラブ
[編集 ]- ポルト
- プリメイラ・リーガ : 2002-03, 2003-04
- タッサ・デ・ポルトガル : 2002-03
- スーペルタッサ・カンディド・デ・オリベイラ : 2003, 2004
- UEFAカップ : 2002-03
- UEFAチャンピオンズリーグ : 2003-04
- トヨタカップ : 2004
- チェルシー
- インテル
個人
[編集 ]- FIFAワールドカップ・オールスターチーム : 2006
- UEFA欧州選手権ベストイレブン : 2004
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー : 2004
- トヨタカップMVP : 2004
脚注
[編集 ]- ^ "ポルトガル代表MFマニチェ、ケルンへ移籍". ISM. 2009年7月21日閲覧。
- ^ マニシェが母国復帰へGoal.com、2010年5月17日
- ^ 元ポルトガル代表のマニシェが現役引退Goal.com、2012年5月15日
- ^ Costinha succeeds Fonseca at Paços de Ferreira UEFA.com 2013年6月12日付
1980年代 | |
---|---|
1990年代 | |
2000年代 | |
トヨタカップ - クラブワールドカップ |
|