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ノート:村井満寿

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名前について

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経歴の中で、「名前を「ます子」から「満寿」に改めた」とありますが、官報掲載の東京音楽学校入学許可(右ページ5段目)、卒業証書授与(本科)(右ページ4段目)、卒業証書授与(研究科)(左ページ3段目)の記事では「相澤滿壽」となっていますから、元々これが戸籍上の名だったと考えられます。--C2BK(会話) 2022年3月7日 (月) 08:13 (UTC)--C2BK(会話) 2022年3月7日 (月) 11:31 (UTC) [返信 ]

初版投稿者です。情報、ありがとうございます。「『ます子』から『満寿』に改めた」は、確かに参考文献の『続 ほっかいどう百年物語 北海道の歴史を刻んだ人々──。』(ISBN 978-4-89115-115-7)にある記述なのですが、それが誤りの可能性もありますので、追って調査したいと思います。--逃亡者(会話) 2022年3月7日 (月) 08:52 (UTC) [返信 ]
上で官報のリンク先を間違えていたので直しました。また、東京音楽学校の本科卒業が1920年(大正9年)、研究科修了が1922年(大正11年)です。--C2BK(会話) 2022年3月7日 (月) 11:31 (UTC) [返信 ]
現在のところ、手元に資料のコピーなど控えておいて確認可能な範囲では、『ほっかいどう百年物語』以外に改名云々の記述がありませんので、ひょっとすると同書は誤りかもしれないです......(このシリーズは以前にも誤りがありました)。他の既出典では、『響け「時計台の鐘」』(ISBN 978-4-900541-41-2)p4に、村井満寿さんのお名前は「時期により資料により平仮名、片仮名、漢字とまちまち」と身も蓋も無い記述がありました。いっそ改名云々の記述は除去し、別名として併記するに留めた方が良いかも......と消極的に考えています。またネットの新聞雑誌検索で見つかった範囲では、北海道新聞2001年2月2日全道夕刊p12で「札幌出身の相沢満寿」と表記がありました。これは村井満寿さんが最初に結婚された高階哲夫さんの出身地の富山県の滑川市立博物館の資料にお名前があるそうですが、その「資料」が何なのかは未記載です。その他、グーグルブックスで「相沢満寿」表記が何件が見つかったので、時間がとれたら図書館へ行ってみたいと思います(今週末はコロナワクチン3回目ですので、少し先になりそうです)。--逃亡者(会話) 2022年3月8日 (火) 20:14 (UTC) [返信 ]
『北海道開発功労賞受賞に輝く人々 昭和57年』pp.131-184に「音楽とともに 村井満寿さんの八十年」という伝記が掲載されています。これによると、父・相沢元次郎と札幌農学校で同期だった高岡熊雄から「満寿という名をつけていただいたそうです」(p.138)となっています。この伝記には「ます子」という名は登場しません。本名の後に「子」を付けて通称として用いることは、他にも多く例が見られますから、おそらく「ます子」もその類だろうと想像します。なお、受賞歴を1件追加しました。1982年の賞は正しくは「北海道開発功労賞」ですが、引用元の『明治の話』に誤記がありましたので、出典を差し替えました。--C2BK(会話) 2022年3月10日 (木) 12:43 (UTC) [返信 ]
「本名の後に子を付けて」は、私も同様の想像でした(NHK朝ドラ『花子とアン』に似たエピソードがありましたし、近隣のご年配の女性に、昔は「子」の名前が流行していた、私も「子」が良かった......などと聞いておりましたので)。『北海道開発功労賞受賞に輝く人々』は今回の出典として見つけましたが、近隣の図書館には無く、このご時世で遠距離移動は憚られるものの国会図書館で読むしかないか......と思いきや、デジタル化作業中で利用不可状態でした[1]。デジタル化されたら確認したいと思います。情報ご提供、ご修正、ありがとうございました(今さらですが勝手ながら節名を付記させていただきました)。--逃亡者(会話) 2022年3月10日 (木) 19:19 (UTC) [返信 ]

(一回段を戻します)まず、道新2001年2月2日で佐々木靖章さんが滑川市立博物館の「資料」でわかったと言っているのは、『時計台の鐘』のメロディが版によって違っている、ということです。満寿についてこの「資料」で知った、と言っているわけではありません。ですから満寿の記事を書くうえで、この「資料」を深追いしても意味はないかもしれませんが、参考までに書いておきます。
『時計台の鐘』については、道新1996年5月16日夕刊で滑川市立博物館の人が書いており、同館蔵で「高階哲夫近代音楽資料」という資料があることがわかります。ただ博物館についてを見る限り、これは「博物館が集めた高階哲夫関連のいろいろな資料を見て書きました」程度の意味合いで、『高階哲夫近代音楽資料』と題した一冊の本があるわけではないような気がします。一方この年は高階哲夫の生誕100年にあたり、滑川市立博物館が記念事業で『近代音楽のあけぼの 高階哲夫の生涯』という本を出したことがわかります。この「資料」に関心があるようなら、この本を見れば館の認識はだいたい書いてあるのではないでしょうか。国会図書館にもあって、作業中ではありません。--西村崇(会話) 2022年3月10日 (木) 22:03 (UTC) [返信 ]

ありがとうございます。参考にいたします。--逃亡者(会話) 2022年3月10日 (木) 22:13 (UTC) [返信 ]
『日本の洋楽百年史』(NCID BN04601766)にあると思って図書館へ行ったのですが、p333、大正9年3月に開催された「東京音楽学校卒業演奏」での曲目の名義が、「相沢満」でした...... 誤記でしょうか、別人でしょうか。他に、読売新聞2002年3月2日東京夕刊p15で、高階哲夫が「時計台の鐘」を作曲したときのエピソードで、妻の名が「高階満寿(後に村井姓)」とされていました。
現状で調査可能な範囲はこのようなところでしょうか...... 伝記では「戸籍上の名前は何々」と明記されているケースもありますが、今回「戸籍云々」は見つかっておりません(官報の名がそうなのですから、常識的に考えればそうなのでしょうけれど、WP:V&WP:NOR的にどうかと)。旧姓が相沢(相澤)なのは確かですので、旧姓のみ表記し、改名云々はコメントアウト、下の名の表記違いは「別名」で済まそうかと、今なお消極的に考え中です。また『近代音楽のあけぼの 高階哲夫の生涯』は手近な図書館に蔵書が無く、かといって長時間かけて国会図書館へ行くのもこのご時世で憚られますもので、他にどうしても国会図書館でなければ読むことのできない資料がかさむようでしたら、まとめて読みに行きたいと思っています。--逃亡者(会話) 2022年3月11日 (金) 10:29 (UTC)【書籍のIDを付記--逃亡者(会話) 2022年3月11日 (金) 12:11 (UTC)[返信 ]
『近代音楽のあけぼの 高階哲夫の生涯』は富山県内の館はわりと持っています。富山県関係の話題で、かつこの本に満寿が出てくる箇所なんてたかが知れていますから、言及箇所の写しがほしい、程度なら他県からでも頼めばやってもらえるかもしれません。
ただ、名前のバリエーションを網羅する作業は後回しでよいと思います。ウィキペディア日本語版はこういう話が好きな人が多く、「AAA(漢字はどうこう、何とか式ローマ字はなんとか、幼名は何、と長々と続く)はBBBである。以上」という状態の記事が山ほどありました。しかし、この時代の人の名前を網羅してもしょうがない、というのが世間一般の感覚であり「時期により資料により(中略)まちまち」程度の扱いは普通だと思います。--西村崇(会話) 2022年3月12日 (土) 11:35 (UTC) [返信 ]

『北海道開発功労賞受賞に輝く人々 昭和57年』には伝記が載っているとの情報から、加筆が期待されますがまだ先になるようです。その他に今できることって名前に関することのように思えます。現在本文ではこの記事の人物を指して満寿と呼んでいますが、(世間的には?)ます子で通してた時期も満寿と呼んでいるのは、どうなんですかね。かといって再婚前から村井とするのも合いませんが。--図書助(会話) 2022年3月12日 (土) 17:48 (UTC) [返信 ]

議論を放置して申しわけありません。先述の通り、11日(金)にワクチン3回目接種をし、副反応が2日間続いて土日は完全に潰れました。資料を読みなおし、意見をまとめたいと思いますので、どうかしばらくお待ちください。--逃亡者(会話) 2022年3月13日 (日) 19:30 (UTC) [返信 ]
西村さんの仰る通り、「名前の変更が何か音楽活動に大きく影響した」でもない限り、名前の変化はやはり、触れるとしても、せいぜいテンプレート内での別名の併記程度に済ませて良いかと考えています。
「『ます子』で通していた時期」ですが、まず、前掲『続 ほっかいどう百年物語』では、p269-274で「ます子」表記、p274で澄川久(村井武雄)と再婚したくだりで「名前をます子から満寿に改めた」とあり、以降はp275(章末)まで「満寿」表記です。同書の参考文献はp404によれば、『響け「時計台の鐘」』『時計台』、そして前掲『北海道開発功労賞 受賞に輝く人々』です。
『響け〜』では、高階哲夫との活動時がp18-19などで「ます子」表記、再婚後についてp207などで「村井満寿」表記です。ただし先述の通り、同書は名前表記がまちまちだと前書きにあり、p4で
彼女の名前の表記は、時期により、また資料によって、ひらがな、カタカナ、漢字とまちまちだが、本書では『高階(相沢)ます子』と『村井満寿』に統一した
とありましたので、高階哲夫との活動時の名義が「ます子」だったのかは判断しにくいです(「〜統一した」を完全に読み落としていました......申しわけありません)。改名云々は『響け〜』に記述は見つからないです。『時計台』には「ます子」表記、改名云々の記述無です。『北海道開発功労賞〜」にも「ます子」表記は無いとのこと、こうなると改名云々の出所がますます不明です。
一方で、既出『北海道を探る』3のp9で、村井満寿さんご本人が、自身の生まれた当時を振り返りつつ「私の名前の『満寿』という名は」と、命名の経緯を述べておられました。C2BKさんがご提示くださった高岡熊雄の名もありました。C2BKさんご提示の資料と合わせ、「やはり元々の名は『満寿(滿壽)』だった」「元々の名の平仮名入りの『ます子』を、後から漢字の『満寿』に改めたわけではないのでは」と考えています。
今週末にでも、もう少し図書館で、再婚以前の名が載った当時資料がないか、捜してみたいと思っています、自力での調査で限界に達しましたら(正直申しまして限界を感じつつありますが)、加筆依頼に回すかもしれません。
なお初版で思いきり「出生名は相沢ます子」と書きましたが、『響け「時計台の鐘」』p20および『続 ほっかいどう百年物語』p269で「相沢ます子は(略)札幌に生まれ」と書かれているものの、「出生名」と明記されているわけではありませんので、これを出生名と解釈したのはWP:ORとして、自ら2022年3月14日 (月) 22:20 (UTC)(差分)にて取り消しました。申しわけありませんでした。--逃亡者(会話) 2022年3月15日 (火) 09:01 (UTC) [返信 ]
再調査の結果、前掲『日本の洋楽百年史』p334、村井満寿さんの母校である東京音楽学校の大正9年6月12日〜13日の春季大演奏会で、「独唱アルト 相沢満寿」と表記がありました。これまでの資料と合わせ、やはり当時より「満寿」であったことは確かのようです。
一方で「ます子」表記は、『響け「時計台の鐘」』p175に、大正時代に吹き込まれた『時計台の鐘』のレコードの写真があり、そのレコード上の名が「高階ます子」でした。また『昭和流行歌総覧 戦前・戦中編』(NCID BN10725821)p69でも、当時のレコードでの歌手名が「高階ます子」でした。当時は芸名として「高階ます子」なのか? 再婚と共に「ます子」の名をやめたということか? とも考えますが、そうだと裏付けする出典が確認できません。
また『響け「時計台の鐘」』p208-231では、大正時代の高階哲夫との演奏会の記録が掲載されていました。ここでは「高階ます子」名義ですが、人名について「現在の一般的表記」と注意書きされている上に、前掲の通り同書は「『高階(相沢)ます子』と『村井満寿』に統一した」ですので、当時の演奏会を「高階ます子」名義で通していたのかは不明です。これらの出典は大正当時の「小樽新聞」「北海タイムス」であり、これらでしたら郷里(小樽市)の図書館で読めそうですので、帰省時に読んでみたいと思います。「国会図書館行きを渋るのに帰省はするのか」と突っ込まれそうですが、実のところ、このご時世で5月GWや盆の帰省は2年連続で断念しており、今年もまた慎重に検討中です。また帰省が遠のくようでしたら、いよいよ国会図書館に挑みたいと思います。--逃亡者(会話) 2022年3月21日 (月) 05:54 (UTC) [返信 ]
郷里での調査結果、小樽新聞の大正11年(1922年)の記事での名は「相澤満寿子」でした(特別:固定リンク/89540152にて加筆)。『響け「時計台の鐘」』によれば、結婚後の大正12年(1923年)にも札幌で演奏会を行った旨の記事が小樽新聞にあるはずですが、見つかりませんでした。隅から隅まで捜せば紙上の片隅にあったかもしれませんが、時間的な都合もあり、断念しました。次回帰省の機会は8月のお盆休みですが、間が空いてしまいますので、時間がとれたらいよいよ国会図書館へ行ってみたいと思っています。--逃亡者(会話) 2022年5月15日 (日) 19:50 (UTC) [返信 ]

年代について

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参考文献に基づき、年代を修正するほか、語句を若干修正しました。『続ほっかいどう百年物語』p.270に「大正10年、卒業してすぐの北海道公演」とあるため、満寿もその年に卒業したように読めますが、これは、正確には満寿の方が哲夫よりも1年早く卒業したのをまとめて書いたものです。官報によると、哲夫(本名・哲應)は大正10年本科卒業ですが、満寿は大正9年本科卒業大正11年研究科修了です。また同書pp.270-271の記述をまとめると、大正10年と11年に札幌公演を行い、「さらにその翌年」の12年の演奏会に関して『北海タイムス』にこれを酷評する記事が載ったことで、その翌日杉山に札幌散策に連れ出され、その時の印象が「時計台の鐘」誕生につながったということになります。しかし、『響け「時計台の鐘」』p.87によると、大正11年に札幌公演を行った様子はありません。それでは「同1922年に札幌での音楽会のために」とあったのを「翌1923年(大正12年)に〜」に修正すればよいのかというと、この曲の成立時期については、いまだに不明な部分もあります(ノート:高階哲夫に書きました)。村井満寿のページでその成立時期について詳しく書く必要もないと思うので、年代を特定しない表現にしておきました。 また、プロフィール画像に「高階哲夫との結婚時代」というキャプションがありました。これは『響け「時計台の鐘」』p.20掲載の写真から満寿の部分を切り取ったものと思われますが、これは『北海タイムス』1921年(大正10年)7月18日朝刊p.5に掲載された写真と同一ですので、結婚前のものです。--C2BK(会話) 2022年3月25日 (金) 08:00 (UTC) [返信 ]

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