アンスカリ家
アンスカリ家(伊:Anscarici)ないしイヴレーア家(伊:Casa d'Ivrea, 仏:Maison d'Ivrée, 独:Haus Ivrea)は、中世 ブルグントにおけるフランク人の王家である。この一族は元来、10世紀にイタリアで勢力を伸ばし、短期間イタリア全土を掌握しさえもした。11世紀から12世紀にかけてはブルゴーニュ伯領 (en) を支配して自らを franc-compte ないし自由伯と最初に宣言した。分枝からはカスティーリャ=レオンの王家(ブルゴーニュ朝)が出ている。
主な一族
[編集 ]イヴレーア辺境伯およびイタリア王
[編集 ]アンスカリ家はブルゴーニュ(ブルグント)地方の伯であったイヴレーア 辺境伯 アンスカーリオ1世(? - 902年)を祖とする。アンスカーリオ1世はスポレート公グイード3世(? - 894年)を支援し、889年にグイードがイタリア 王に選ばれると、イヴレーア(現在のイタリア北西部)の辺境伯に封じられた。アンスカーリオ1世の息子アダルベルト1世(? - 923/924年)はグイードとイタリア王位を争ったベレンガーリオ1世(? - 924年)の娘ジゼッラと結婚し、2人の息子ベレンガーリオ2世(? - 966年)は950年にイタリア王となった。しかしベレンガーリオ2世は、東フランク 王 オットー1世(のち神聖ローマ皇帝)の侵攻を受け、一時その宗主下で王位を保った後に滅ぼされ、共同王位についていた息子アダルベルト(? - 966年)はブルゴーニュへ逃れた。
ブルゴーニュ伯
[編集 ]アダルベルトの息子オット=ギヨーム(962年 - 1026年)は最初のブルゴーニュ伯となった。また、母ジェルベルガがブルゴーニュ公 ウード=アンリ(フランス王ユーグ・カペーの弟)と再婚したことで、継父の死後に一時ブルゴーニュ公領も相続したが、ユーグ・カペーの息子ロベール2世が王領に併合した(ロベール2世の最初の妃はアダルベルトの姉妹ロザーラであったが離婚している)。以後はブルゴーニュ伯位のみがオット=ギヨームからその子孫に継承され、その家系はブルゴーニュ家とも呼ばれる。後に、オット=ギヨームから5代後の子孫である女伯ベアトリス1世(1143年 - 1184年)が神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(1123年 - 1190年)と結婚したことで、伯位はホーエンシュタウフェン家へ渡った。
その後もブルゴーニュ伯位および伯領(フランシュ=コンテ)は結婚を通じてアンデクス家、イヴレーア家の分家の一つシャロン家、フランス王家のカペー家へと継承された。14世紀にはフィリップ豪胆公(1342年 - 1404年)が獲得していわゆるブルゴーニュ公国の一部となり、16世紀にスペイン・ハプスブルク家領となった後、17世紀にフランス王国へ併合された。
カスティーリャ=レオン王家
[編集 ]オット=ギヨームの孫ギヨーム1世(1020年 - 1087年)の大勢の息子のうちレーモン(ガリシア伯ライムンド、? - 1107年)は、カスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世の娘で後に女王となるウラカの最初の夫となり、2人の息子であるアルフォンソ7世は1126年に王位を継いだ。これがブルゴーニュ朝(ボルゴーニャ朝)であり、1369年までカスティーリャおよびレオンの王朝として続いた。
その他
[編集 ]ガリシア伯ライムンドの弟ギー(? - 1124年)は、ローマ教皇 カリストゥス2世(在位:1119年 - 1124年)となっている。
系図
[編集 ]イヴレーア辺境伯、イタリア王、ブルゴーニュ伯
[編集 ]フランス王
ブルゴーニュ公
カペー系ブルゴーニュ家の祖
(シャロン伯ランベール娘)
マコン伯
ブルゴーニュ伯
(ノルマンディー公リシャール2世娘)
1=アキテーヌ公ギヨーム5世
2=アンジュー伯ジョフロワ2世
イヴレーア辺境伯
(ツェーリンゲン公ベルトルト2世娘)
ブルゴーニュ伯
ブルゴーニュ伯
マコン伯
カスティーリャ王
レオン王
フランス王
サヴォイア伯
神聖ローマ皇帝
シチリア王
ブルゴーニュ女伯
ブルゴーニュ女伯
(オトン2世)
メラーノ公
(アンデクス家)
カスティーリャ王
レオン王
シャロン家
[編集 ]フランス王
ブルゴーニュ女伯
フランス王
モンベリアル伯
=モンベリアル伯アンリ・ド・モンフォーコン
1=フェレット伯ウルリシュ3世
2=バーデン伯ルドルフ・ヘッソ
オランジュ公
=ヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダ
関連項目
[編集 ]参考文献
[編集 ]- Wickham, Chris. Early Medieval Italy: Central Power and Local Society 400-1000. MacMillan Press: 1981.