飯高永雄
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位上・丹波守 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 飯高宿禰→朝臣 |
父母 | 父:飯高滝雄 |
子 | 継平 |
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飯高 永雄(いいだか の ながお)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。姓は宿禰のち朝臣。飯高滝雄の子とする系図がある。官位は従五位上・丹波守。
経歴
承和3年(836年)一族の全雄・弟高らと共に、宿禰姓から朝臣姓に改姓する。承和14年(847年)の時子内親王(仁明天皇 皇女)[1] 、嘉祥2年(849年)百済王慶明(尚侍)[2] 、嘉祥3年(850年)秀子内親王(嵯峨天皇皇女)と[3] 、仁明朝末にかけて後宮の女性が薨去した際に葬儀の監護を務める。また、嘉祥3年(850年)5月の仁明天皇崩御後の修六七日 御斎会では東大寺使を務めた[4] 。
文徳朝に入り、仁寿2年(852年)播磨権介として地方官に遷任する。斉衡元年(854年)刑部少輔に任ぜられて京官に復すと、中務少輔・主税頭・大蔵少輔と文徳朝中盤は京官を歴任する。
文徳朝末の天安2年(858年)尾張守として再び地方官に転じると、清和朝でも越後守・丹波守と地方官を歴任した。またこの間、貞観5年(863年)には従五位上に昇叙されている。
官歴
- 承和3年(836年) 3月7日:宿禰から朝臣に改姓
- 時期不詳:正六位上
- 承和11年(844年) 正月7日:従五位下
- 承和12年(845年) 2月27日:左京亮
- 仁寿2年(852年) 正月15日:播磨権介
- 仁寿4年(854年) 3月14日:刑部少輔
- 斉衡3年(856年) 7月13日:中務少輔。10月21日:主税頭
- 天安2年(858年) 正月16日:大蔵少輔。5月11日:尾張守
- 貞観5年(863年) 正月7日:従五位上。2月10日:越後守
- 貞観6年(864年) 正月16日:丹波守